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2025.11.21

第43回| 沖縄の琉球藍を次の世代へ繋ぐ。〈琉球藍研究所〉代表・嘉数義成さん。

「うちの地元でこんなおもしろいことやり始めたんだ」「最近、地元で頑張っている人がいる」――。そう地元の人が誇らしく思うような、地元に根付きながら地元のために活動を行っている47都道府県のキーパーソンにお話を伺うこの連載。

 

第43回にご登場いただくのは、琉球藍の復活に心血を注ぐ、〈琉球藍研究所〉代表の嘉数義成さんです。伝統ある琉球藍を次の世代に繋ぐため、原料のリュウキュウアイの栽培、染料の製造、染色、販売まですべてを一貫して行っています。畑の開墾から約10年、ようやく琉球藍に着目する人が増えてきました。

 

(文:大芦実穂)

Profile

嘉数義成さん(かかず・よしなり)

ファッションデザイナー。1984年、沖縄県生まれ。服飾専門学校卒業後、アパレルブランド〈レキオ〉を立ち上げる。2015年から、沖縄県北部の東村(ひがしそん)でリュウキュウアイの栽培と染料作りをスタート。2022年、豊見城市に〈琉球藍研究所〉を設立。琉球藍の復興に奮闘している。

https://ryukyu-indigo-labo.jp/

沖縄の伝統文化「琉球藍」の復興へ

那覇空港から車で北へ約2時間。「やんばる国立公園」の東側、人口1,500人ほどの小さな村に、一面にリュウキュウアイが広がる畑があります。この畑の持ち主が〈琉球藍研究所〉代表の嘉数義成さんです。

 

ここで栽培したリュウキュウアイから、沈殿藍と呼ばれる琉球藍独特の染料を製造。できた染料は那覇市の隣、豊見城市にある〈琉球藍研究所〉の工房へ持っていき、糸や衣類を染色して販売しています。

 

自社ブランドが全国展開のセレクトショップで取り扱われるようになったほか、ソーシャルデザインスタジオ〈ザ イノウエブラザーズ〉とのコラボレーション、書道家へ染料の提供、額縁を藍で染めるプロジェクトなど、アパレルにとどまらずアートやデザインの領域へも活動を広げています。

〈琉球藍研究所〉の作品。

琉球藍と一般的な藍染めの違いは植物と染料の製造方法。日本国内で多く用いられるのはタデアイですが、琉球藍はその名の通りリュウキュウアイを使用しています。さらに、染料の製造方法にも違いがあります。タデアイはスクモ法という植物を発酵させ熟成させた染料ですが、リュウキュウアイは沈殿藍という植物化色素を抽出した泥状の染料です。この沈殿藍という方法は全国でも沖縄だけで行われているそうです。

原料のリュウキュウアイ。

琉球藍の歴史は古く、13〜14世紀頃に東南アジアから伝わり、15世紀の琉球王国時代に興隆を極めたといわれています。しかし近代化とともに安価な染料や製品にとって代わられ、琉球藍の文化は衰退。

 

「沖縄に住んでいても、琉球藍を知らない人がいるんですよ。知名度が低いのは、そもそもの流通量が少ないから。原料のリュウキュウアイ自体が限定的だったことと、最終的な製品の多くが反物なので、呉服の世界でしか知られていなかったんです」

リュウキュウアイを育てるために7年がかりで開墾

現在、沖縄に残る琉球藍の工房はわずか5軒ほど。もともと藍染めは分業制だったこともあり、リュウキュウアイの栽培から行っている工房はほとんど存在しなかったといいます。そこで嘉数さんは自らリュウキュウアイを栽培しようと決意。

 

「自分が手掛けるブランド〈レキオ〉がきっかけで琉球藍を使うようになったのですが、原料の供給が不安定で商売として成り立たなかったんです。それに作り手たちも高齢化していて、新しい世代が育っていない。このままでは琉球藍は消えてしまうと危機感を覚えました。それならいっそ自分で栽培からやってみようと」

 

リュウキュウアイの栽培に乗り出したのは、2015年のこと。まずは畑の場所探しからスタート。そして見つけたのは、栽培に必要な豊かな水量が見込める、やんばるの東村でした。

 

「見つけた場所は、いわゆる耕作放棄地。沖縄の場合、冬に草木が枯れることがないので、雑草が伸び放題で。どんどんジャングルになってしまうんですね。しかもその間に台風があったりすると、またイチからやり直し。開墾して畑として使えるようになるまで、本当に時間がかかりました」

地域住民とのコミュニケーションにも時間をかけ、東村に定住できるようになるまで7年間、ほぼ毎日通い続けました。

 

「一見空き家に見える家でも仏壇が置いてあるので、お盆や正月は皆がそこに帰ってくる。なので東村にはそもそも移住して住める家が少ないため、最初は畑にテントを張って生活していました(笑)。何度も足を運んで、地主さんや地域の方と話して、信頼を積み重ねていく。農業をやるといってもパイナップルでもなければ野菜でもない、今や誰も育てていないリュウキュウアイですから。『もともとデザイナーだっていうし、怪しいね』という反応も当然だったと思います。それが7年経って住めるようになって、ようやく村民になれた。やっと迎え入れてもらえたなという感覚があります」

かっこいいもの、身近なものとして発信したい

耕作放棄地を開墾してから7年。リュウキュウアイの栽培方法も染料の製造方法も、すべて独学で実践してきた嘉数さん。2022年、ついに〈琉球藍研究所〉が本格始動します。商品ができたことで、地域の人やアパレル業界の反応も大きく変わったといいます。

 

琉球藍に携わって10年の今、嘉数さんに課題を聞いてみました。

 

「僕が生まれるずっと前から琉球藍はあるわけで、でも世間に知られていないのは、戦争の影響もあるかもしれないけど、結局たくさんの人が欲しいと思う製品が作れていなかったということだと思うんです。この文化が途切れないように、次の世代に繋いでいかなきゃいけない。だからこそ、伝統工芸という枠組みではなく、もっと身近でかっこいいものとして発信していきたい。若い世代にも魅力を感じてもらえるよう、現代のライフスタイルに合わせた製品や表現方法を工夫していくことが大事だと思います」

 

そのために取り組んでいることの1つが、琉球藍に触れ、学び、染色を体験するワークショップです。

 

「藍染めは天然染料の中でも珍しく、素手を染料に突っ込んで直接染色できるんです。自分の肌で温度や質感を感じながら色が変わっていく過程を体験することで、ものづくりの喜びが伝わると思っています。ワークショップでは、希望者には素手で染めてもらっています。子供時代に体験して、大人になった時に、『そういえば地元に琉球藍ってあったな』と、思い出してくれるだけでもいい。自分の生まれ育った地元の文化を意識するきっかけになればいいなと思っています」

最後に、嘉数さんの夢と、そこへ向かう想いについて聞きました。

 

「自分が生きているうちに、この村をリュウキュウアイの産地にしたいです。そのためには地域の方々と協力して、一緒に取り組んでいく方法を考えなくてはなりません。

 

700年ほどの歴史を持つ琉球藍ですが、昔からやっていることはほとんど変わらないんです。僕らの時代に、何か新しい発見があるといいなと思っています。異業種とコラボレーションすることで、いろんな要素が見えてくる。自分たちが予期してないことが起こってくるのを目の当たりにしているので、そこに身を置きながら、しっかり目を凝らしていきたいなと思っていますね」

【編集後記】

誰もしていないなら自分で作る、前例がないなら自分で調べてやってみる。嘉数さんの姿勢は極めてストレートで明快ですが、それを成し遂げることはどう考えても容易ではありません。織物は伝統工芸になるが琉球藍そのものは伝統工芸とならないというものづくりと農業の境目のお話にはたいへん驚きました。嘉数さんは諦めたりやめる選択肢は考えず、失敗も、気力・体力的にもきついこともやり続けておられるそうです。最初は何もわからなかった、農業も染めも少しずつものを作っていったことで理解者が増えた、というお話には激しく心が揺さぶられました。つくられたものを見れば、それがどんな過程を経てきたのかわかるような力が、それぞれに宿っているのだと思います。己の信じる道を突き進む勇気をいただき、知っていくことの大切さを痛感した取材でした。

(未来定番研究所 内野)

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