2021.11.02

私たちは何を着ているのか。ファッションを哲学する8つの問い。

どんな人でも、毎日服を着ます。おしゃれが好きな人でも、全く興味のない人でも服を着ます。私たちはなぜ服を着るのでしょうか。当たり前のように身にまとう服について、一度、根源的な意味を考えてみたいと思います。お話を伺うのは、ファッション史、デザイン史などを専門とする武庫川女子大学生活環境学部准教授の井上雅人さん。哲学的な問いを投げさせていただき、私たちが何を着ているのかを振り返ります。

質問1 : 私たちは、なぜ服を着るのですか?

まず言われるのは防寒のため、怪我から身を守るために服を着るという説です。確かにその回答は、服の物質的役割として説明はつきます。しかしもう少し、人間が服を着るようになった社会的な背景から考えてみましょう。そのためには、私たち自身を液体だと考えるとわかりやすいと思います。

服は私たちのパッケージのようなもの。パッケージには二つの役割があって、ひとつは中身をきっちり梱包するという役割。飲み物は入れ物がないと形をとることができませんよね。人間の体も同じで、何かの形を与えないと保つことができないのです。例えば、服を着ずに裸のままだと、私たちは社会から除外されてしまいます。

パッケージの二つ目の役割は、中に何が入っているかを伝えるというもの。飲み物のパッケージには商品名が書かれているように、中身が何であるのかを伝えなければなりません。服も同じです。前近代の身分制の社会であれば、その人が着ている服を見て「どこの誰か」がわかるということが重要でした。王様は王様の服、平民は平民の服を着なければならず、自分の好きな服を着る自由はなかったのです。服は「その人が誰かを知らせるため」という役割が非常に大きかったといえます。

現代では身分制はなくなり、社会の重要な思想として「自由と平等」を重んじるようになりました。市民革命で獲得したものですね。今の私たちには、自分で好きな服を選ぶ自由があります。好きな服を着られるようになったけれど、その代わりに、自分がどんな人間であるかは自分で形づくらなくてはならなくなりました。巷にはたくさんの服が溢れていますが、自分がどういうポジションにいるのかを無意識に探りながら、服を着ているというのが現代の私たちが生きている社会なのです。自分のアイデンティティを、他人にも理解されやすいように見た目をつくっていく。そのために服は有効な手段のひとつなのです。

質問2 : 流行を追ってしまうのはなぜですか?

そもそも自我があれば、流行はいりません。自分は誰であるのか、どういう器に収まればいいのかということを理解していれば、自分で着る服を自分で選ぶだけ。しかし人間はそんなに強くありません。「自分らしさ」なんてわからないという人が大半です。そうなった時に、人は安心できるものを選びます。流行しているということは、それだけ世の中の価値観と合致していて、良いものと認められているということ。つまり流行しているものは安心できるものなのです。流行りものを選ぶことは、ある種の逃避と言うこともできます。そういう便利なものを利用して、自分が誰かということを表しているからです。

今の時代でいう、工業生産と流行が結びついたのは、19世紀後半に流行したクリノリン・ドレスですね。クリノリンとは、鯨の髭や針金を輪にしてウエストから吊るし、スカートを膨らませる下着です。身分に縛られることなく、何を着てもいいというフランス革命の精神を表した服になりました。

撮影:London Stereoscopic Company

クリノリン・ドレスが有閑階級だけでなく、庶民階級にも普及したのは、庶民の日常生活でも、移動し、労働できる運動性を確保できていたから。その前の時代において、形状を作り出すために何枚も穿かれていた「パニエ」を軽量化し、歩行しやすくした近代的な発明品とも言える。

他にも60年代の後半に日本で流行したミニスカートによって、女性たちはよく走るようになったとも言われています。流行によって、人間の姿形を変え、その人が担うべき役割を変えてしまう。それくらいの大きな動きは時代ごとにたびたびあります。

現代は身体性を変えるほどの流行はないような気がします。先日、学生が「自分のスタイルはありますか?」という調査をしたところ、多くの人が「はい」と答えたんです。一方で、「自分のファッションに自信はありますか?」と質問したところ、「ない」と答えた人がほとんどでした。どういうこと?って思いますよね(笑)。聞いてみると、その「スタイル」とはオリジナリティを意味するものではなく、「自分が何を選べばいいのかを分かっている」というポリシーのようなものでした。今の若い子達は雑誌を読まずに、インスタで憧れの人をフォローしてそのファッションを真似る。それが今の時代の流行という気がしましたね。

質問3 :服を何着も買ってしまうのは、なぜですか?

一つの服だけでは、それが自分であることに納得できないからだと思います。私たちはいろんな側面を持っています。家庭のなかでは父親、会社では部長など、役割が場所によって変化します。家で家族と遊んでいる自分も、会社で部下に怒鳴っている自分もどちらも本物です。

特に近代社会の人間は、多面的です。そうすると一つの服では、自分は誰かということを言い表せなくなってしまう。たった一つの自分の枠に収まることができる人は、そうそういません。日によって気分や関係性も変わりますし、同じ関係の中でも多面性を持っています。よって私たちは何着も服を着ることになるのです。

ただ、多様な自分を持つことは楽しくもある一方で、分裂した自己を抱えながら生きていく苦しみにもなりえます。ひょっとしたら、部下に対して怒鳴っている自分のことは、自分でも嫌いかもしれない。しかし会社のなかの役割として、それを演じないと仕事が成立しない。苦しいけれど自分で自分を作っていかなければならないから、演じる道具として衣服を選ぶこともあるでしょう。

撮影:DEA / ICAS94

文明批評家のルイス・マンフォードは、近代になり、人々が精度の高い鏡を使うようになって、その中に「自我」を見ることになったと説いている。実際に西洋の近代絵画には、大きな姿見の前に立ったり、手鏡を持っていたりする女性が頻出している。

質問4 : 制服はなぜ生まれたのですか?

先ほどお話したクリノリン・ドレスは、身分に関係なく多くの人々が着るほど流行しました。しかし、みんなが同じ服装だと誰が偉いのかわからなくなってしまう。そこで登場したのが、給仕する側とされる側を区別するためのメイド服。近代は身分制度が崩壊したが故に、役割を明確化しなければならなくなりました。制服とは、職業的な役割を明確にできるものです。

服装を自由に選べるようになり、さまざまな自分を表現しなければならなくなった時、その苦しさを感じるようにもなります。苦しさから降りることができるのが、制服の良さでもあるのですね。象徴的なものが「スーツ」です。いわゆる「男性らしさ」の枠組みにすっぽりと入ることができるので、楽だと感じるのかもしれません。面白いのは、スーツを着るビジネスパーソンが、ネクタイの色や柄で個性を出したり、学生が制服をアレンジしたりすることもありますよね。あれは、自分を制度の中で縛り付けてもらいたくないという、「平等」に対して「自由」を求める抵抗なのだと思います。

質問5 : 服には性差が必要ですか?

なぜ服に性差があるのか、それは「服」以外のところで性差がはっきりと存在しているから。未だに社会ではジェンダーロールがはっきり分かれているからです。ジェンダーも男性と女性という身分によって分けられる身分制度と言えると思います。法律的には平等だと言いながらも、やはり違いがあるのが現実。前時代の価値観を慣習的に引きずっているわけです。

けれど現在は「ジェンダーレス」という言葉が出てきました。性別に囚われず自分らしくいられるというのは、とても良いことだと思います。しかし先ほども言いましたが、自分らしさをゼロから自分自身で築きあげられる人は、ほとんどいません。自分らしさとは、それまで生きてきた環境の中で身につけたもの、教えてもらったもの、あるいは環境に対しての反発で形成していくもの。社会の中に多数ある「既存の枠組み」に頼らざるを得ないのです。その中で男性的、女性的という価値観は、自分をつくる有効な枠組みの一つではあります。それは社会的な圧力、抑圧とも言える一方で、本人たちがその枠組みの中から選んで、自分を形成している事でもある。そうでもしないと、自分が誰かということが自分でもわからないという面もあるのです。

「男らしさ」、「女らしさ」を捨てて自分らしくいなさいと言われても、どうしたらいいかわからないという人は多いと思います。性別で二分されるような社会は、無くなっていくことに越したことはないけれど、いざ明日からその枠組みが全てなくなるとしたら混乱もあるでしょう。

質問6 :ファストファッションは「悪」ですか?

搾取と環境負荷の観点から、しばしば槍玉に挙げられるファストファッションですが、それがもたらす別の側面について、ここでは語ってみようと思います。

デザイン全体の歴史では、現代の日用品を形作る基本原理ともいえるモダンデザインが登場するのは19世紀半ばです。大量生産ができるようになったために、特権階級だけではなく一般庶民たちも手に入れられる物づくりが可能になりました。粗悪品ではなく、ユーザビリティが良い、見た目が美しいといった高品質なものを大量に生産するデザインの哲学がその時代に出てきたのです。安くて良いものを大量に作り、多くの人がそれを手に入れて良い生活を送ること。それは近代の産業社会を支えている、ある種の理論です。

撮影:Hulton Archive

ヘンリー・フォードは、組み立てラインによる自動車の大量生産を始めた時、自分の工場の労働者が購入できる金額まで、値段を下げることを目標としたと言われている。

安くて良いもので生活が良くなるのならば、それに越したことはありませんよね。問題は、それがみんな同じで良いかという点です。私が象徴的だと思ったのは、「ユニクロ」の登場です。若い人も、高齢の方も、お金持ちも、そうでない人も「ユニクロ」を着る。その結果、見た目によってお金を持っているのか、そうでないのかが全くわからなくなりました。見た目で判断されることがなくなったことは、人類が目指す一つの到達点ではあるけれど、同時に「同じ服を着た人と、自分は同じ人間ではない」という思いも芽生えます。それを証明するためにはやっぱり違う服が着たくなる。「ユニクロ」は、同じ服の形でも、たくさんの色を用意して差別化を図るなど工夫をしているところが上手だなと思います。

ファストファッションは、環境破壊や搾取など、さまざまな問題を抱えてはいますが、モダンデザインの理想を体現したものではあるので、「悪」であるとは一概に言うことができないのが現状ではないでしょうか。

質問7 :百貨店とは、どんな場所ですか?

1906年に、新聞広告で三越が「デパートメントストア」宣言をしました。それまで呉服を買うといえば、履物を脱いでお店に上がり、番頭さんとやり取りをするという「座売り」が一般的でしたが、三越のこの宣言では、服のみならず、さまざまな商品を「陳列」して購入できる店舗の造りにしていきますよという意思表示をしています。百貨店が、大衆に向けて開かれた今の「百貨店」になったのは、この宣言以降と考えていいでしょう。

ただ、本当にすべての人に向けて開いていたかというと、初期の頃は、今のような土足ではなく、履物を入り口で預けなければ上がることができず、誰もが気軽に入れるような場所ではありませんでした。また、高島屋の「百選会」や三越の「三彩会」のような、顧客向けに展示会を催したり、「外商」という今でも残る独特な制度があったりなど、顧客を徹底的に大事に扱うための、緩やかな排他性を持ち合わせていることも、百貨店のひとつの側面と言えるでしょう。

提供:一般財団法人 J.フロント リテイリング 史料館

1907年(明治40年)、松坂屋の前身である「いとう呉服店」の上野店は、江戸時代から続いた座売りを陳列式立売りに改め、呉服に加え、雑貨、家庭用品なども扱いを開始。ショーウインドーを巡らし、女性社員を初めて採用したのもこの年のこと。

このように、誰のための場所かがわかりやすかった百貨店ですが、今は、それがわかりづらくなってきているような気がします。

現代の「大衆に向けての場所」といえば、そのひとつがショッピングモールですね。赤ちゃん連れから、高齢の方も多く見られます。屋根があるので雨が降ってこないですし、車の通りもないですし、通りも長いので、みんなが安心して「散歩」ができる場所になっています。買い物で終わらない、「居場所」になっていますよね。

話は百貨店に戻りますが、60年代以降、百貨店は地域住民から若者にターゲットをシフトしたことで、百貨店独自の発信力が弱まり、テナント貸しのような施設になってきたかと思います。百貨店は無くならないとは思いますが、誰のための何の空間かを、もう一度考えてもいいのではないかと、百貨店好きの私としては思います。

質問8 :これからの「服屋」はどうなりますか?

私は、京都で〈コトバトフク〉という店をやっていますが、スタッフのおかげで、この2年も、うまく回ってきました。顧客を絞っているのもありますが、コロナ禍で、みんな家にずっといるわけですから、街の中に自分の居たいと思える場所を求めているのだと思います。来たら長話をしますし、そうなると、多くの人は何かしら買って帰りますよね。みんなが来たくなる環境を作ってあげるのが大事なのではと思います。

また、最近思うのは、「お客さんと一緒に作っている」という感覚を大事にしてはどうかということです。近年、エシカル志向に見られるように、生産側への意識が高まってますよね。むしろ、関わりたいと思っている。作る人を支援したり、自分たちの生活を守っていけるようないいものを作りたいって思っている人がそれなりの数います。

そんな世の中ですから、「仲間が誰か」ということをお客さんがしっかりと認識できるようにすることが大事になるのではないでしょうか。生産者の方、販売するスタッフなど、人の顔と名前がわかるくらいのレベルで。デザイナーの名前だけを伝えてもしょうがないんです。自分にふさわしい人たちがいる「居場所」であることがわかる店づくりをしていくことが大切なのではないかと思います。

Profile

井上雅人(いのうえ・まさひと)

武庫川女子大学生活環境学部准教授。専門はデザイン史・ファッション史・物質生活史。京都市にて服と本のセレクトショップ「コトバトフク」も運営する。主な著書に『洋服と日本人―国民服というモード」(廣済堂出版)、『洋裁文化と日本のファッション」(青弓社)、『ファッションの哲学」(ミネルヴァ書房)など

【編集後記】

井上准教授のお話で、過去から現代までファッションが歩んできた歴史を旅し、それぞれのファッションの持つ意味合いを改めて理解できました。

これからのファッションは大量生産ではなく、「お客さんと一緒に作っている感覚を持ったものが大事になっていく」という提示に、非常に納得がいきました。

そのような感覚をもった作り手・お店が増えれば、今以上にファッションを楽しめる世界が訪れる気がします。

 

(未来定番研究所 織田)