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2019.08.20

未来定番サロンレポート

第11回| 「新・やなか学校」その2 上野・谷中地区は「歴史と建築博物館」!

太陽の光が照りつける夏の青空が広がった2019年7月28日、12回目となる「未来定番サロン」が開催されました。未来定番サロンは、未来のくらしのヒントやタネを、ゲストと参加者の皆さんと一緒に考え、意見交換する取り組みです。今回の舞台は東京・上野にある「東京国立博物館」の平成館小講堂。さまざまな分野で長年活躍する谷中の方々と、各分野で新たな視点で活躍する方との対談を通して、古くて新しい未来の暮らしのヒントを見出す「新・やなか学校」の第2弾として、「上野・谷中地区は『歴史と建築博物館』!」をテーマにこれからのまちづくりの在り方について考えます。ホストは前回の「新・やなか学校」に引き続き、NPOたいとう歴史都市研究会理事長の椎原晶子さんが務め、ゲストに東叡山寛永寺長臈の浦井正明さんと東京藝術大学名誉教授の前野まさるさんを迎え、上野・谷中地区に残る建築物の歴史的背景や、そこに引き継がれる暮らしの文化などをお話いただきました。

寛永寺を建立した天海大僧正によって行われた、上野のお山の環境整備

前半は浦井さんに、江戸時代から明治維新後にかけての上野公園地区の歴史についてお話いただきました。浦井さんは寛永寺執事長、東叡山現龍院住職、台東区教育委員会委員長、台東区文化財保護審議会委員などを歴任。上野地区をはじめとした歴史に、非常に造詣の深い方です。

寛永寺は寛永2(1625)年、徳川幕府の安泰と万民の平安を祈願するため、江戸城の鬼門(北東)にあたる上野の台地に、慈眼大師天海大僧正によって建立されました。「幕府は『徳川家の祈願寺なのだから、それ以外の要素を入れるな』と天海に要求しますが、天海はそれを拒否するんですね。『それはお寺ではない。将軍や大名の参詣がない時は、庶民の憩いの場にするべきだ』と。交渉は難航し、しまいには決裂。天海は自身で寺の調整を行い、各地に点在する名所を上野にもってきて、不忍池や清水観音堂、上野大仏などをつくるんです。そんな“見立ての思想”を取り入れ、寛永寺を庶民が気軽にお参りできる場所にしようとしたんですよ。吉野の桜や京都の紅葉も持ち込み、春は桜、夏は納涼、秋は紅葉、冬は雪と寒椿といった、四季を通じた楽しみも導入した、いわゆる環境整備も行っていたので、天海はとても大きな仕事をしたのだなと感じています」と浦井さんは話します。

 

天海の計画が功を奏し、上野は門前町として賑わうようになったそうです。桜を見に行く、月を眺めに行くなど、四季を通じたさまざまな遊学の場所として庶民に定着したのは、現在へつながっているといえるでしょう。プロジェクターに浮世絵や写真を投影し、浦井さんは当時の様子を臨場感たっぷりに教えてくれました。

「上野や谷中には戦争前の街並みが残っていますが、それは戦時中、神戸育ちのアメリカ人ラングドン・ウォーナーさんが、帰国後に日本の都市文化を戦いから守りたいと金沢、京都、東京では上野、本郷を爆撃から守ることを軍に申し出て、『大切な文化が残る場所だから』と、焼夷弾をあえて落とさなかった場所があるからなんですね。寛永寺は幕末の上野戦争により、敷地の大部分が上野公園となり、関東大震災や太平洋戦争による被害もありましたが、江戸時代から現在に至るまで、多くの人々に親しまれています。上野・谷中地区はこれからどんな風になっていってほしいと思われますか?」と椎原さんが問いかけます。

 

「江戸の始めから、寛永寺と上野の街はつながっていました。いま、上野恩賜公園は文化ゾーンとなっていますが、文化だけあればいいのではありません。そこに人間の営みがあってこそ、文化が生き、街が生きてきます。一概に古いものがいいとは思いませんが、その点だけは江戸に戻り、文化施設と街が結びつき、共存していくべきだと考えています」と浦井さんは真摯な眼差して答えてくれました。

“建築公園”としての上野の成り立ち

「上野恩賜公園は明治に入り、動物園、博物館、美術館、図書館、音楽堂などの文化施設が集中的に建てられ、さらに東京藝術大学の音楽・美術の教育研究施設まで揃っています。こうした芸術環境が揃った場所は、外国にもそう多くはありません」と前野さんは話します。

 

その背景には3人の人物が関わっているといいます。「1人目は浦井さんからもお話のあった天海大僧正、2人目はオランダ人軍医のボードウィンです。戊辰戦争で焦土と化した上野台地には、病院の建設計画が立ち上がっていました。ボードウィンはその頃、大学東校(現・東京大学医学部)で講義をしており、上野にも立ち寄ったんですね。上野の様子を見たボードウィンは、明治政府に『病院よりも公園地にするべきだ』と提言。その結果、政府は明治6(1873)年1月15日、公園に関する太政官布達を出し、上野、浅草、増上寺、富岡八幡、飛鳥山の5ヶ所に公園ができたのです。ボードウィンがいなければ、上野台地は違った姿になっていたのかもしれません。そして3人目は文部省博覧会事務局長の町田久成です。当時の町田久成はウイーン万国博覧会準備の中心人物で、明治6(1873)年に上野に博物館と図書館の設置を提言したものの、政府が否決。町田久成は内務省に移ってからもこの『文化センター構想』を諦めることなく、内容を充実させながら、繰り返し提言をし続けました。それにより、今日の上野恩賜公園の文化的公共施設の原型が出来上がったのです」と前野さん。現在の上野の数奇な成り立ちに、参加者も真剣な表情で耳を傾けていました。

明治6(1873)年の公園制定後から現在まで、上野恩賜公園にはさまざま公共施設が建設されました。「東京藝術大学構内にあるレンガ造りの旧教育博物館<明治13(1880)年>、東京図書館の書庫<明治19(1886)年>、帝国図書館<明治39(1906)年>があり、日本の図書館史の重要な遺構が残っています。山口半六が明治23(1890)年に設計した東京音楽学校奏楽堂には、西洋音楽を通じて日本を開花させようとした伊沢修二の情熱が感じ取れますし、東京国立博物館は昭和戦前のナショナリズム的時代感情を伝え、国立西洋美術館は第二次世界大戦後の日本の国際社会復帰のモニュメントと見ることもできますね。上野台地の建築は、施設そのものが歴史の証言者です。言い換えるなら、上野恩賜公園は“生きた江戸・東京建築博物苑”といえるでしょう」と、ユーモアを交えながら前野さんは多種多様な建造物を紹介してくれました。

 

「上野の建造物を守るため、何をするべきでしょうか?」と椎原さんが投げかけると、「建物の存在は、何かを語っています。誰が住み、何をしていたのか、地域のためにどんな働きをもっていたのか、その根底には“技”があるんですよ。技は文化につながっていく。有形無形問わず、技そのものが文化ですから、いろんな技を大事にしなければなりません」と前野さん。その後、参加者から寄せられた質疑に浦井さんや前野さんが答える時間を設け、12回目の「未来定番サロン」は幕を下ろしました。

上野・谷中エリアから学ぶこと

トークイベント終了後、浦井さん、前野さん、椎原さんにお話をお伺いしました。

F.I.N.編集部

本日はありがとうございました。まず、みなさんのご関係性について教えていただけますか?

椎原さん

前野先生は元東京藝術大学の教授でいらして、赤レンガの旧教育博物館をはじめとする藝大の建物の保存運動をされていた際、地域を守っている方々をお訪ねになり、「上野だったら浦井先生しかいない」と聞き、浦井先生のもとへ出向かれたそうなんです。私はその頃、藝大で環境デザインを学ぶ大学院生で、前野先生が始めた保存運動に参加させてもらったんですね。なので保存活動は前野先生に、上野の歴史は浦井先生に、たくさんのことを教えていただきました。

浦井さん

当時、藝大の赤レンガで研究会をやりましたよね。前野先生の企画で、月1で。建築家の藤森照信さんとか、建築史家の鈴木博之さんとか、いつも40人くらいが参加していたんですよ。1人が1時間発表して、1時間討論する、というのを毎月2人ずつ。

F.I.N.編集部

とても豪華な研究会ですね! 本日の「未来定番サロン」でも触れられていましたが、上野・谷中エリアの文化や建築を未来に伝えていくうえで、いまやるべきことは何なのでしょうか?

前野さん

上野と谷中をもっとまとめていくことかな。

浦井さん

結局は人間関係なんですよ。それが基盤になるんです。

前野さん

藝大にいた頃、「上野のいいところ探し」のフィールドワークとかもやりましたよ。みんなが「いい」と思う場所を写真に撮って、地図上に写真をのせて、それぞれが発表してね。あれを全部、原稿に残しておけばよかったな。大学のどこかには残っているはずなんだけど。

椎原さん

生資料があれば、ぜひお手伝いさせてください。

浦井さん

前野先生の研究室は、資料が机のうえに雑然とのっていて、整理されていないから(笑)。

前野さん

そうだよね、もともと整理整頓がヘタな人だから(笑)。

浦井さん

昔は夜の12時頃まで、前野先生の研究室で一緒にこもっていたりしましたからね。本当は22時までなのに、「もう帰るよ」っていうと、先生が「大丈夫だよ。いつもこうなんだから」って。それで結局、12時になると「いい加減にしてください」って警備室から電話がかかってきて、それでも先生は「大丈夫だよ」って。さすがに悪いと思って帰ってましたけど(笑)。

椎原さん

みんなお付き合いが長いから、いろいろあるんです(笑)。

浦井さん

やっぱり、地域の住民ひとりひとりが、いかにそういうことを大事に考えるのかが先なんでしょう。個人では難しくても、地域運動になれば行政も動きますからね。

F.I.N.編集部

前野さんはさまざまな保存活動にご尽力され、「建物を守る」という結果を残されてきましたが、その成功の秘訣とは?

前野さん

そのものの存在価値が分からないといけないね。後世に伝えなければならないような存在価値を、上手に示していくんです。

浦井さん

前野先生は人間関係を構築するのがお上手なんですよ。谷中には近隣との家族ぐるみの付き合いが残っていますけど、そういった地域は少なくなってきていますから。緊急の問題でないところに「一緒にやろう」という集団をつくるのは大変なんです。逆にご自身の立身出世とか、そういうのは苦手な人ですよ。

前野さん

確かにそうだね。

浦井さん

長年付き合っているから、よくわかるよ(笑)。

F.I.N.編集部

素敵なご関係性が伝わってきます(笑)。みなさんにとって、上野・谷中エリアは、どのような場所ですか?

前野さん

谷中はね、子育ての環境としての伝統を現代に活かしている場所だと思いますよ。ご近所付き合いが上手くいっているんですね。谷中には「挨拶」、「掃除は隣の玄関まで」、「子どもの面倒を見る」、「留守番をしてあげる」、「おしゃべりは小声でしない」という5つの不文律があります。「いい町」とは、向こう三軒両隣で良好な付き合いのできる住まいの環境のこと。隣人と仲良くできたら町が好きになるし、町の歴史を知れば町に誇りがもてるようになるんです。

浦井さん

谷中はいいですよね。上野に関していうと、これだけの文化施設の集合地っていうのは類をみないんです。かたちを変えながら、いまも町は生き続けているんですよ。「生き続けているとはどういう意味なのか」ということを、住民や外部の方を含めて考え、見つめ直さないといけませんね。寛永寺としては、江戸時代のように突出して何かをやるわけにはいきませんが、台東区長から頼まれて「江戸から学ぶ」という連続講座の企画などを任されているんですね。江戸時代にどんなことが行われてきたのかを学び、我々はそこから何を汲み取って未来にいかしていったらいいのかを、幅広い方々に考えてもらう。それが大事なのだと思います。

椎原さん

このエリアは縄文時代の住居跡や貝塚などが発掘されているため、太古から人が住んでいたことが分かっているんですね。江戸時代に寛永寺ができ、その周辺にもたくさんのお寺ができ、それ以降も人が住み継がれてきました。それはずっと平和だったということなんですよ。子育てがしやすくて、お年寄りも暮らしやすい。ということは、谷中や上野には人が穏やかに住める秘訣があるはずなんです。

 

それを前野先生が仰ったような「見える価値」として表し、町も住民も守れるようにする。その仕組みができれば、他の町にも適応できるモデルになるのではないでしょうか。もちろんその土地なりのかたちで工夫していきながら。私は学生時代、前野先生から「谷中の町に学んだことは、町に返さないといけないぞ」と教わりました。そして谷中に住み、今に至るわけなんですね。谷中には、他の町を守ったり育てたりできるヒントが満ちています。だからこそ、今日、先生方がお話ししてくださったことを哲学にして、きちんと「見える価値」にできるようこれからも頑張っていくつもりです。

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