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2019.01.24

未来定番サロンレポート

第6回| 「新・やなか学校」はじまる。谷中のレジェンド・野池幸三さんとまちづくり。

凍てつく冬空に包まれた2018年12月22日。東京・谷中にて6回目の「未来定番サロン」が開催されました。未来定番サロンは、未来のくらしのヒントやタネを、ゲストと、参加者の皆さんと一緒に考え、意見交換する取り組みです。今回は、F.I.Nが新たにスタートさせる「新・やなか学校」の第1弾でもあります。「温故知新」をテーマに掲げ、NPOたいとう歴史都市研究会の理事長・椎原晶子さんと一緒になって、谷中のまちづくりに携わる方々をお迎えしていきます。最初のゲストは〈谷中 すし乃池〉を営む野池幸三さん。野池さんは谷中を語る上で欠かすことのできない重要なキーパーソンです。谷中が歩んできた歴史を振り返り、未来の谷中の在り方について考えていきました。

(撮影:河内彩)

2人をつないだ、谷中というまち。

椎原さんと野池さんが出会ったのは、バブル真っ只中の1986年。東京には新しい建物が次々に建設され、郊外には多くのニュータウンがつくられていました。当時、東京藝術大学 大学院にて環境デザインを学んでいた椎原さんは、「バブル期は長い年月を経て形成されてきた素晴らしいまちや建物がどんどん失われていく時代でした。その中で自分には何ができるんだろう。谷中は江戸時代から続く情緒的なまち並みをなぜ守り続けていられるんだろうと感じました」と話します。そこで椎原さんが参加したのは東京藝術大学・前野まさる研究室が事務局となり、まちの方と一緒に行った「上野、谷中、根津、千駄木の親しまれる環境調査」。谷中界隈の住まいや暮らしの聞き取り調査などを行うようになったそうです。そこで知り合ったのが、野池さんでした。

長野県で生まれた野池さんは25歳の時に上京し、日本橋の寿司屋で修行。1965年、40歳で〈谷中 すし乃池〉を構えます。寿司店を営む傍ら、「江戸のあるまち会(1978年〜)」、「谷中菊まつり(1984年〜)」、「圓朝まつり(1985年〜)」といった地域の祭りの立ち上げに参画し、地域雑誌『谷中根津千駄木』への協力、旧東京音楽学校「奏楽堂」の保存運動、谷中小学校前広場や初音交番建設への提案、マンション計画の見直しや「谷中三崎坂建築協定」づくりなどに尽力。50年近くに渡り、谷中のまちづくりを牽引してきました。

誰でも受け入れる、懐の深いまち。

「谷中の良さは住んでみてこそ分かるんだよ」と聞いた椎原さんは、谷中へ移り住み、東京藝大卒業生や地域の人々とともに「谷中学校(1989年)」の設立に参加。その後もNPO法人「たいとう歴史都市研究会(2001年)」の設立、昭和13年築の三軒家を活用した複合施設「上野桜木あたり(2015年)」の再生計画・管理、家屋と暮らしの保全再生事業を行う株式会社「まちあかり舎(2017年)」の設立に携わるなど、谷中とのつながりを深めていきます。

 

「『まちに学んだことは、まちに還さないといけない』というのが恩師の教え。職人さん、自営業の方、お勤めの方、お寺さん、学生、アーティスト、いろんな人が混じり合って暮らす谷中には新しい人を受け入れる土壌があり、移住者の第2の故郷になれる素晴らしいまちです。もちろん私も地域の皆さまに大変良くしていただきました。家族と住み、子育てを行ったのも谷中です。住民同士が助け合い、まちのことを自分ごととして考える。そんな谷中に根付いた気風や人付き合いの中にこそ、未来の生活のヒントがあるはずだと、未来定番研究所さんがおっしゃってくれて、一緒に『新・やなか学校』を始めることとなりました。現在は過去の延長線上にあります。ですから未来を見据えるために、谷中の歴史を振り返ろうと。20年前に起こしたアクションの5年後、10年後にどうなったかも辿れますよね。初回である今回は、野池さんのこれまでの活動をご紹介することで、谷中のまちづくりの今後の可能性について考えていただけるかなと思っております」。穏やかな眼差しで語る椎原さんの言葉には、谷中への愛と確固たる思いが込められています。

住民がまちを変えるという挑戦。

和やかな雰囲気に包まれ、この日の未来定番サロンが始まりました。野池さんが谷中のまちづくりに関わるようになって約半世紀。そのきっかけは千代田線・千駄木駅の完成(1969年)だったといいます。

 

これまで人通りの少なかった三崎坂周辺が賑わいを見せるようになり、1978年には、向田邦子氏作のテレビドラマ『寺内貫太郎一家』のモデルにもなった石材店「石六」の歴史ある町家が赤いレンガのビルに建て替わったそう。その様子を目の当たりにした野池さんは「このままでは谷中らしさがなくなってしまう」と危機感を抱き、仲間とともに「江戸のあるまち会」を発足。そこから旧東京音楽学校「奏楽堂」の保存運動に地域の人々と参加したり、江戸・明治時代の名物であった菊と菊人形の再興を目的とした「菊まつり」の開催、地域の生活文化聞きがきの地域雑誌『谷中根津千駄木』を創刊する谷根千工房を応援するなど、バブル期開発の影で灯火が消えかけていた建築や文化に次々とスポットを当てていきます。

この界隈で子育てをしていいた森まゆみ氏、山崎範子氏、仰木ひろみ氏が中心になって創刊した地域雑誌『谷中根津千駄木』。1984年から2007年まで、94号まで刊行されました。野池さんも積極的に雑誌やメンバーをまちにつなぐ協力をされました。

まちづくりとは、花に水をやるようなこと。

「それまで“住民がまちのことを考える”という発想自体がなかったね。。しかし、地域が一丸となって取り組んだ菊まつりや圓朝まつり、奏楽堂の保存運動を契機に、住民の意識が変わってきたんですよ」と野池さんは話します。

 

「野池さんは谷中の歴史に価値を見出し、それらを再興させ、まちを活気付けるために『谷中菊まつり』や『圓朝まつり』の開催に注力をされました。学生時代、野池さんがおっしゃった『まちが元気でないと、店も自分たちも生きていけない。まちづくりは毎日、花に水をやるようなものなんだ』との言葉に感銘を受け、ずっとついてきたんですよ」と椎原さん。

 

30年以上に渡り培われたお二人の信頼関係に基づく絶妙なコンビネーションで、トークセッションは大盛況のうちに幕を下ろしました。

 

トークセッション終了後にふるまわれたのは、野池さんによる特製いなり寿司。上品な味わいに、お客様は満面の笑み。「おいしい!」という声が、あちこちから聞こえてきました。

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2時間にわたるトークイベントもついに終了。本番を終えたお二人に、イベントの感想や、まちづくりについて改めてお話を伺いしました。

F.I.N.編集部

本日はありがとうございました。野池さんや椎原さん、地域の方々をはじめ、たくさんの方々のご活動によって、谷中のまち並みが守られ、現在の生きたまちの姿があるのだなと感じました。

椎原さん

まちづくりって、行政が主体となって行われると思われがちですよね。だけど谷中では、一人ひとりの動機と行動の重なりが、まちの未来をつくっていく力が大きいです。昔から住んでいる方も、新たに住まわれた方も、みんながそれぞれ、協力しあって自分たちのまちをつくり続けているんですよ。野池さんは数十年以上に渡り、谷中のまちづくりに携わられていますよね。誰に頼まれたわけでもなく。その活動の原動力は何なのでしょうか?

野池さん

まずまちを好きになることですね。そして、そのまちのための運動をやろうと。商売をやるにしても、まちがよくならなければ、自分の店だってよくならない。とはいえ自分の店のことだけ考えたって、上手くいかないんですよ。みんながよくならないと。

あとね、うちは寿司屋だから、カウンター越しにお客さんと話をします。それがコミュニティにつながって、ある時ふと「人生とはそういうものだ」と思ったんです。人間は人生の過程でいろんな人と知り合い、交流を深めていく。仕事はあくまで手段のひとつ。いろんな人と手を取り合っていくのが大切なんです。それが生きがいになる。自分をいかすのは人。人がいるから生きていけるんですよ。それが日々の幸せだと感じています。

F.I.N.編集部

お二人の出会いは椎原さんが東京藝術大学の大学院生だった頃ですよね。

椎原さん

当時から野池さんには本当にいろいろお世話になりました。学生時代、谷中の方々に聞き取り調査をさせていただき、その結果をご報告に伺ったら、「まちのみんなにも知ってもらおう」って会を開いてくださったり。

野池さん

大学の先生や学生さんたち、みんなで飲んだりもしていたね(笑)。

椎原さん

私だけではなく、明治の頃から谷中の方々は藝大生を応援してくださっていたんですよ。展覧会にむけてお寺で絵を描かせていただいたり、下宿している学生が家賃を払えないときに、作品を置いて行ったり、大家さんが「娘の肖像画を描いてくれればいいわよ」とかね(笑)。

 

野池さん

私たちにとっても学生さんはありがたい存在でしたよ。お祭りをやる際も、音楽科の学生さんがクラシックを演奏してくれたりしてね。クラシックが響くまちなんて、谷中の株があがるじゃない。店のメニュー表を格好よく仕上げてくれたりもして。まちにさりげなく芸術が溢れているのは、彼らのおかげでもあるんですよ。

椎原さん

野池さんは“舞台”を用意してくださるんです。藝大生が表現力を発揮する場もそうですし、例えばマンション建設問題などで建築の専門家が必要になった際、つなぎ役になってくれる。飛行機で急病人がでたら「お医者さまはいませんか?」となりお医者は手をあげますよね。だけど古いまちでは、いくら専門家であっても、地域の暮らしに関わることに他所の方や移住者だけで自ら手を挙げることは難しいんです。地元の方が舞台を整えてくれなければ。そうなれば、地域の専門家は、当たり前のように住民として協力するんです。

野池さん

みんな集まってくれるんですよ。いろんな人が、谷中を守ってくれた。

F.I.N.編集部

未来の谷中はどんなまちであってほしいとお考えですか?

野池さん

「地域が経済的に潤うこと」ではなく、「人間が住むこと」を中心に考えていかなければなりません。多くの人が訪れてくれるのは嬉しい。だけど、大事なのは人間を視点に考えることなんです。

椎原さん

学生時代、住民の方々に「谷中のどんなところが好きですか?」とアンケートをとったんですね。そうしたら「人情がある」、「空が広いのがいい」って方が多くて。その思いは「谷中三崎坂建築協定」にも結びつくんです。この地域の一部には建物の高さ制限があり、借地も多いので、大規模マンション開発に適した場所が少ない。逆をいうと、自分で家族のために家を直すか建て替えたり、若い人がお店にしたりなど、家土地が個人の思いで引き継がれている。地元の方々も住み着いた人もできるかぎり暮らし続けている。それが谷中の雰囲気を維持できるツボなのかなと。まさに自分の人生と自分のまちを、自らの手に取り戻していけるひとつのモデル。谷中は他の地域の方々にも勇気を与えられるまちであってほしいと考えています。

「新・やなか学校」は今後もさまざまなゲストにお越しいただき、定期的に開催していく予定です。これからの「新・やなか学校」にも、ご期待ください。

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