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2020.02.14

未来定番サロンレポート

第13回| 「新・やなか学校」その3 「なぜ、谷中はアートを育てるまちになったのか」

2019年12月1日に未来定番サロンが開催されました。未来定番サロンは、未来のくらしのヒントやタネを、ゲストと参加者の皆さんと一緒に考え、意見交換する取り組みです。会場は、築100年の古民家を改装した未来定番研究所。さまざまな分野で長年活躍する谷中の方々と、各分野で新たな視点で活躍する方との対談を通して、古くて新しい未来の暮らしのヒントを見出す「新・やなか学校」の第3弾として、「なぜ、谷中はアートを育てるまちになったのか」をテーマに、これからのまちづくりのあり方について考えます。前回の「新・やなか学校」に引き続き、ホストはNPOたいとう歴史都市研究会理事長の椎原晶子さん、ゲストに現代アートギャラリー<SCAI THE BATHHOUSE(スカイザバスハウス)>の白石正美さんを迎え、工芸や芸術を見守ってきた谷中の歴史と、現代アートとまちの再生についてお話いただきました。
(撮影:河内 彩)

歴史ある銭湯の建物を残したい。それが谷中×現代アートの始まり

白石正美さんは、フジテレビギャラリー事業部で15年、美術館などで展覧会を企画。東高現代美術館の副館長を経て、1993年に、谷中で銭湯を改築したギャラリースペース<スカイザバスハウス>を立ち上げました。ここは以前、約200年続く銭湯<柏湯>があった場所です。銭湯としての役割を終えた後、1992年に石橋蓮司さんが主宰する劇団第七病棟が「オルゴールの墓」を上演します。公演が終わった後も、歴史ある街並を守りながら、若者のための文化的な場所を作りたいという銭湯のオーナーや、地域の人の想いがあり、白石さんが招かれました。

 

「ギャラリーには、作品を飾る壁とライトがあればいい。この銭湯は、東京藝術大学の学生やアーティスト、川端康成などの文化人が通った場所でした。川端康成はボイラー室で、よく将棋を打っていたそうなんですね。面白い場所だと思いました」と白石さん。

 

<スカイザバスハウス>がオープンしてから、谷中は現代アートの拠点として、海外のアートマップにも掲載されるようになりました。周辺には<上野桜木あたり><カヤバコーヒー>など古民家を再生した施設も増え、<スカイザバスハウス>を中心に現代アートシーンが形成されていきました。海外からもアートディーラーや観光客が訪れる一方で、古い木造密集市街地の不燃化立替促進や道路拡張計画の問題が持ち上がります。

「谷中は関東大震災や第二次世界大戦でも焼失しなかったところの多い町で、古い建造物が多く残っています。その街並を守るには、歴史的、文化的な価値づけが必要だということがわかり、<スカイザバスハウス>がオープンした1993年に「芸工展』を始めました。谷中には江戸時代からものづくりの職人がたくさんいました。ギャラリーの中だけでなく、お煎餅屋さんや町工場を含め、まち中で展覧会を始めたのが1994年です」と椎原さん。

その後、芸工展は毎年開催され、伝統工芸の職人・作家や若いアーティストが谷中を舞台に同時期に展覧会を開催し、スカイザバスハウスも、伝統芸能やパフォーマンスなどの会場として参加しています。1997年は「art-Link上野-谷中」という、博物館や美術館などアカデミックな施設が集まる上野公園と、小さいけれど個性的、先端的なギャラリーの多い谷中、根津、千駄木地域を結ぶイベントも始まりました。

谷中はアートイベントが増えていき、これらを体験したアート・建築の学生・卒業生と彼らを支える人を中心に2009年一般社団法人「谷中のおかって」が発足。まち中を使った体験型の新しい芸術体験の場を作っていく活動を行っています。2014年からは「谷中のおかって」とNPOたいとう歴史都市研究会との協働で、旧平櫛田中邸を拠点に、滞在して制作発表するアーティストを支援する「デンチュウラボ」もスタートし、白石さんもサポートしています。

 

「今、谷中には、伝統的な日本画や伝統工芸、落語・新内などの伝統芸能、公募展の世界もあれば、現代美術、パフォーマンスなど様々なアートの様態がモザイクのようにあります。他にも明治の屋敷に若い世代が住んで文化活用する「市田邸」や、昭和初期の三軒家を再生した<上野桜木あたり>と周辺の路地づくりなど、様々な世代が街づくりに参加し、谷中は伝統的文化から現代的なものまでを体験できるまちになりました。そこに至るには、<スカイザバスハウス>が牽引力になってくれたと思います」と、椎原さんは話してくれました。

谷中にはアーティストを支え、面白がる感性があった

トークイベント終了後、白石さんと椎原さんにお話を伺いました。

F.I.N.編集部

白石さんが、谷中を選んだ決め手はなんだったのでしょうか。

白石さん

谷中のまちというより、良いたたずまいの場所があったということですね。

F.I.N.編集部

1993年、銭湯跡地に突然、現代美術のギャラリーが出現したことに、まちの方の反応はどうだったんでしょうか。

 

椎原さん

谷中は江戸時代から、芸術を育んできた場所でした。ですから、アートは谷中の地場産業のひとつとも言えるんです。白石さんは現代美術の最先端をもってきてくださったわけですが、ここには伝統工芸の最先端も、先端理化学工学の最先端もありました。まちの方はそれを江戸・明治・大正時代から見ているので、ジャンルが違えど質のいいもの、本物、がわかります。<スカイザバスハウス>がオープンしたときも、現代美術の最先端がきてくれて嬉しいと仰ぎ見るというより、どうせやるなら精一杯やってくれ。そんな気風の方が多かったと思います。

白石さん

僕らも、一流のアーティストの展覧会を開催してきたつもりです。ただ、「最先端」というのは、「最先端」だと思った時点ではすでに「最先端」ではありません。一生懸命に生きて、その結果「最先端」と評価される。オープン当時、展覧会を開いた村上隆、奈良美智、中村政人たちも、今では世界的に評価されるアーティストですが、その頃は、彼らもどう転がるかわからなったわけですから。

椎原さん

銭湯もそうですが、食堂、下宿などを営むまちの方たちは、将来どうなるかわからないけれど、足にまで絵の具をつけて一生懸命やっている人たちを、200年ぐらい前から支えてきたんですよね。アートだけじゃなくて、どんなジャンルの人に対しても。それから、このあたりは古美術商の方も多く住んでいらっしゃるんです。だから、美術に対する理解は以前からあったけれど、1993年頃は、現代美術のシーンを支える人が少なかった。それがこの30年で少しずつ育ってきたんだと思います。

白石さん

谷中にうまいことプレイヤーが揃ったんでしょうね。ひとりの力ではなく、現代美術の人、まちを作る人、それを理解する人。いろんな人が絡み合う中で、基盤ができたんだと思います。大切なのは、知識ではなく感性です。作品を見て「ゴミだ」と思う人もいるかもしれない。何がなんだかわからないけれど、面白がってくれる感性のある人もいる。谷中には、そういう感性があったんだと思います。

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