「装う」という行為は、時代や社会、ライフスタイルの変化と密接に関わりながら、その姿を変えてきました。同時に、私たち自身の意識やふるまいもまた、「装う」ことの意味やあり方に影響を与え、そのかたちを変えてきたように思います。そして今、機能性やデザイン、トレンドにとどまらず、「なぜそれを装うのか」を問う意識が広がっています。「装う」ことは、自分自身や社会の見方を問い直し、価値観に変化をもたらしているのかもしれません。F.I.N.では、「装う」ことと私たちの間にある相互作用に目を向け、その可能性を探っていきます。
今回は、人の価値観に変化をもたらすような「装う」とは何かを探求します。お話を伺うのは、「装い」をテーマに活動している美術家の西尾美也さん。服を用いたコミュニケーションに着目し、ワークショップやアートプロジェクトを通して作品を発表しています。そんな西尾さんに、これからの「装い」の行方について聞きました。
(文:大芦実穂/写真:西あかり)
西尾美也(にしお・よしなり)
1982年奈良県生まれ。博士(美術)。文化庁新進芸術家海外研修員(ケニア共和国ナイロビ)、奈良県立大学地域創造学部准教授などを経て、現在は東京藝術大学美術学部先端芸術表現科准教授。装いの行為とコミュニケーションの関係性に着目したプロジェクトを国内外で展開。ファッションブランド〈NISHINARI YOSHIO〉を手掛ける。著書に『装いは内破する 身体と状況から創造へ』(左右社)など。
大阪・西成の女性たちとつくるブランド
〈NISHINARI YOSHIO〉
F.I.N.編集部
現在取り組まれている大阪・西成発のブランド〈NISHINARI YOSHIO〉は、どのようなプロジェクトですか?
西尾さん
大阪市西成区にある〈kioku手芸館たんす〉という創造活動拠点で、2016年から地域のおばちゃんたちと服づくりを通した交流を始め、2018年にブランドを立ち上げました。
タグには〈kioku手芸館たんす〉で作業する女性たちの姿が。
F.I.N.編集部
参加されている地域の女性たちはどんな方々ですか?
西尾さん
メンバーは常に5名くらいで、西成区の方を中心に他区から参加の方もおられます。それぞれが趣味として手芸や編み物をやってきた方たちなので、初めて出会った2016年は、僕がアートとしての変わった服づくりを提案するたびに、すごい反発や抵抗の声があがるという1年目でした(笑)。
F.I.N.編集部
服づくりはどのように進められるのでしょう。
西尾さん
僕があるお題を出して、それに対してどんな服がいいか彼女たちに考えてもらいます。例えば、「西成に暮らす一番身近な人を思い浮かべて、その人に服を作ってあげましょう」というお題を出しました。そこで生まれたのが「ヤキトリジャケット」です。
F.I.N.編集部
「ヤキトリジャケット」……?
西尾さん
これは焼き鳥屋で鶏肉を串に刺す内職をしているおばちゃんが考えたものです。おばちゃんは、パート先の女将さんがいつも腕に火傷をしているのが気になっていると。手づくりのアームカバーを渡したこともあるけれど、着けてくれなかった。じゃあどうやったら腕を守れるのか、というところから生まれた作品です。
ヤキトリジャケット
思いやりをパッチワークで表現している。
F.I.N.編集部
なるほど。服が作られた背景を知ると、最初とは違って見えますね。お題はどんな基準で出しているのですか?
西尾さん
お題を出すのが僕の一番の仕事。西成で生きてきた女性たちが作る服なので、西成らしさが滲み出るようなお題がいいなと思っています。おばちゃんたちがやる気をなくすようなお題だとダメで、ちょっと文句を言いつつも実は楽しんでいるみたいな、それくらいのバランスを探りながらやっています。
想定外の「ずれ」があるから面白い
F.I.N.編集部
プロジェクトの面白みはどんなところですか?
西尾さん
それはプロジェクトのコンセプトの1つでもある「ずれ」です。おばちゃんたちとの解釈の違いや思わぬ発想が生まれることに、予定調和ではない面白さを感じています。消費社会においては、需要があることを前提に、どれだけ供給できるのかを計算してものづくりが行われ、仕事も成り立っていると思うんですが、それだと攻めたものは作りづらい。僕らは「アート」という、消費社会とは一線を画したところでやっているからこそ、思いもよらないものができた方が絶対面白いよなと。
F.I.N.編集部
〈NISHINARI YOSHIO〉のプロジェクトは、2018年からスタートして、今年で8年目ですが、何か変化は感じますか?
西尾さん
いくつかあります。まずは〈kioku手芸館たんす〉がおばちゃんに限らず、いろんな人が集まってくる場所になりました。関西圏の学生たちが、ファッションやケア、アートマネジメントなどさまざまな感心から興味を持ってくれて、活動に参加してくれたり、地域のおじちゃんたちも編み物がしてみたいと出入りするようになったり。
それから、おばちゃんたちにも変化がありました。まずプロ意識が育っていて、街を歩いているユニークな服を着ている子に着目したり、場合によっては写真を撮らせてもらったりしているようです。探究心が芽生えているというのは大きな変化だと思います。取材もよく入るので、最近は取材慣れもして(笑)、しっかり作品について説明できるようになっています。
F.I.N.編集部
メンバー構成はほぼ変わらずですか?
西尾さん
体調や環境の変化で少しずつ入れ替わったり、最近では情報を見て新たに参加してくれる人も増えてきました。ただ、最初からいるメンバーは、ベテランになってきてしまうと、「ずれ」が生まれにくくなってしまって。そこで2023年からは西成に増えてきている海外からの移住者の方にも参加してもらって、あえて「ずれ」を生み出す実験をしています。多くは技能実習で来ているベトナムの方なんですが、おばちゃんたちはほぼ先生のような感じで、上手にアドバイスして一緒に制作しています。
ものづくりを通して関わると、伝えたいことや教えたいことがあるからなのか、言葉があまり通じなくてもスムーズにコミュニケーションが取れているんですよね。将来的にはベトナムの方たちもブランドの共同制作者になってくれればいいなと考えています。
子供の頃の「装う楽しさ」が原点
F.I.N.編集部
西尾さんが「装う」ことに惹かれた理由はなんですか?
西尾さん
小さい頃からいろんな服を着るのが好きで、小中高生の時は着飾ることで周りの反応を楽しんでいました。ある種のコミュニケーションとして服を着ていたのだと思います。
F.I.N.編集部
自身が装うことに興味があったのですね。
西尾さん
当時はそうですね。そこから、服にまつわる表現をする仕事がしたいと進路を探すわけなんですが、ファッションデザイナーやパタンナーになりたいとは思っていなくて。でも日本でファッションを学ぶとなると、専門学校や服飾大学で、服づくりについて勉強することが多いんですよね。
服が好きだけど、自分は服づくりじゃないところに面白みを感じている気がする……と悩んでいる時に、東京藝術大学(以下、藝大)に先端芸術表現科という新しい学科ができたことを知って。学科の概要欄に、社会につながっていく芸術を考えるというようなことが書いてあって、これだと思いました。
F.I.N.編集部
「装い」を社会やアートから見ようとしたんですね。
西尾さん
今学長を勤めている日比野克彦さんが、当時教員をされていたりして、絵画とか彫刻だけでなく、ワークショップやアートプロジェクトなど、芸術活動そのものが作品になるんだと知った時に、自分が楽しんでいる服の在り方って、モノとして素敵だなというよりは、それができるまでのプロセスの方にあるんじゃないかなと改めて気付かされました。
小中高生までは自分が装うことで相手の反応を見るというシンプルなコミュニケーションでしたが、プロセス型のアートとファッションを掛け合わせるようになっていったのがこの頃。小中高時代に感じていた服への面白みを最大限に引き出すとしたら、どんなことができるかというのを考えて活動していました。
「ファッション」と「アート」の違いとは
F.I.N.編集部
「装い」をアートとして扱うと決めた時、どんなことを思っていましたか?
西尾さん
服は子供からお年寄りまで皆が身につけているものなので、美術を敬遠する人はいても、服を敬遠する人はいないと思っていたんですよね。
いわゆる「芸術のための芸術」(*)という言葉がありますが、アートワールドの人たちを喜ばせるために、ギャラリーで展示したり、コレクターに買ってもらうために作品を作ることを目指すのではなくて、子供向けのワークショップをやったり、現地に入ってアートプロジェクトを仕掛けていくことをやりたいと。それで博士号を取った後は、アフリカ・ケニアの首都ナイロビに2年間滞在して、地域の人たちとアートプロジェクトを実施しました。
*芸術それ自体の活動に価値を見出す芸術観(芸術至上主義)のこと。
西尾美也〈Overall Project in Nairobi〉2010年 Photo by Yasuyoshi Chiba
F.I.N.編集部
ファッションとしての「装う」と、アートとしての「装う」の違いはなんですか?
西尾さん
ファッションはビジネスが前提で、儲けがないと活動が続けられない。消費社会と密接に結びついていますよね。一方のアートはビジネスさえも否定できる。ファッションを相対化していけるものだと思います。
ファッションとしての「装う」を考える時に、一番しっくりくるのが哲学者の國分功一郎(こくぶん・こういちろう)さんの「浪費」という言葉です。ブランド物など高価なものをなぜ人は買うのかというと、自分の楽しみのために買っているわけですよね。買うこと自体をある種楽しみにしていて、買ったものと過ごすことで、豊かな気持ちになれる。國分さんは消費ではなく浪費をすることが、消費社会に対抗する術だと考えるわけです。だから贅沢をすること自体は否定するものではないし、それはファッションとしての「装い」が担っている部分も多々あると思うんですね。
F.I.N.編集部
「浪費」も人々の心を満たすものなのですね。
西尾さん
一方で、ファストファッションと呼ばれるような大量生産の服を買って着ることも当たり前になってきました。人々が大量生産の服にしか関心を持たなくなり、服に対して何も考えなくなってきていることは、問題というかもったいないなと思っています。
服選びに多様性がある未来をつくる
F.I.N.編集部
5年先、10年先の未来、人々にとって「装う」に対する態度はどのように変わっていると思いますか?
西尾さん
僕が提案したいのは、アートとしての「装い」の視点から消費社会に対抗する術として「自分で服が作れる」ようになること。また、そのプロセスという時間を生活のなかで持つことです。服が作れるという感覚と時間を多くの人に得てもらえたら、「装うこと」に対する態度はちょっと変わっていくだろうなと思います。その場合の服は、別に完璧な服じゃなくても工作のようなものでもいいと思うんです。
ハイファッションとファストファッションがあって、今はファストファッションのような短いサイクルで生産・販売される服が大量にあるという状態。そのバランスを変えていくことが重要だと思います。世界の民族衣装を見てもわかるように、「装う」は多様性の象徴です。それらの文化が失われ、均質化している状況のなか、新しい多様性をつくっていく必要があります。僕らがやっているような活動だけになったらいいわけでもないし、90年代の服が好きだとか、この素材か好きだとか、この地域で作られている服が好きだとか、個々人の服に対するこだわりを大切に、多様な服のあり方が増えていって、選択肢が広がるといいなと思います。
F.I.N.編集部
そのために我々ができることは何でしょうか?
西尾さん
高度消費社会をちょっと抑えていくことが必要じゃないかと思います。売ることばかりにフォーカスするのではなく、企業やブランド側も服を作るプロセスを公開していくとか。あとは子供が自分で服を選んでいく時期に、「装うこと」にまつわるワークショップなどを仕掛けていって、子供たちから意識を変えていくとか。そうしたことを仕掛けていく人たちが、いろんな地域にいっぱいいるという状態が理想的なんじゃないかなと思いますね。
〈NISHINARI YOSHIO〉ショップ&アトリエ
【編集後記】
服は非常に身近なものであると同時に、どうしてこれを選んだのか?自分がどう変わるのか?誰がどうやって作ったのか?など、問いをたくさん引き出せる装置だったのかもしれません。なるほど、それなら好みのデザインや安心できる価格といった消費の条件を求めるだけではもったいないと感じます。誰かとコミュニケーションをしたり自分の変容を楽しんだりと、服を介してできること・見えることの面白さと多様さに改めて目を向けながら装うことを続けていきたいです。
(未来定番研究所 渡邉)