古くから人は心惹かれるものを美しいとしてきました。しかし、そのあり方は時代や文化によって変化しています。古代から現代に至るまで、科学や哲学、美学などさまざまな領域で「美とは何か」を探る試みが続いています。
私たちはなぜ彫刻や絵画に心を動かされるのでしょう。また夕陽を美しいと感じるのは、どんな理由からなのでしょうか。こうした問いを通じて、自分では思いもしなかった美に触れることで、新しいものの見方を取り入れられるかもしれません。今後も移り変わっていくであろう「美」に対する価値観や意識について考えます。
今回お話を伺うのは、環境美学を研究する伊東多佳子さん。「日常で美しいと感じている景観の多くが、近代から続く特有の美意識によって形づくられてきた」といいます。環境への関心が高まる今、私たちの「美」の捉え方はどのように変化していくのでしょうか。伊東さんと一緒に、当たり前だと思っていた「美」を環境の視点からひも解き、これからの時代に大切な美意識のあり方を考えます。
(文:船橋麻貴/イラスト:柳田まち)
伊東多佳子さん(いとう・たかこ)
1963年神奈川県生まれ。美学・環境美学研究者。1994年、大阪大学大学院文学研究科博士課程後期課程修了(美学専攻)。日本学術振興会特別研究員、高岡短期大学講師を経て、2005年10月より富山大学学術研究部芸術文化学系准教授。環境芸術や環境美学の研究を通して、自然の美しさと環境問題の関係を探究。人々の「美」に対する感性に働きかけることで、持続可能な自然との共生のあり方を考えている。
なぜ、「管理された自然」を美しいと感じるのか
私が研究している環境美学は、自然や環境と人間の関係を「美」という視点から考える学問です。美学は本来、芸術だけでなく自然の美しさについても考えてきました。環境美学は、近代以降の議論のなかで相対的に見えにくくなってきた、私たちが日々暮らす風景や環境の感じ方に、改めて目を向けます。そもそも、どこからが自然で、どこからが人工なのでしょうか。私たちは、その境界を本当に意識して暮らしているのでしょうか。人の手が入った場所はそれでも自然と呼べるのでしょうか。環境美学は、そうした曖昧な境界にあえて立ち止まりながら、自然と人工、芸術と環境の間を行き来し、そこで生まれる感じ方や価値を丁寧にたどっていきます。
そう聞くと、少し構えてしまうかもしれません。けれども環境美学の出発点は、実はとても身近なところにあります。例えば、よく手入れされた庭や、公園の整った景観を目にしたとき。私たちはそこに「美しさ」や「心地よさ」を感じることが多いでしょう。芝生が均一に刈り込まれ、雑草がなく、見通しのよい空間に、強い違和感を覚える人は多くありません。こうした感覚は、とても自然なもののように思えます。ただ、環境美学の視点から改めて眺めてみると、その感じ方は決して自明なものではありません。それは、長い時間をかけてつくられてきた、美意識の1つのカタチでもあるのです。
その背景には、自然をどのようなものとして捉えてきたのかという、長い思想の歴史があります。中世の西洋では、キリスト教的な世界観のもとで、自然は神が創った完全なもの、善であり美しいものとして受け取られていました。神が正しく、善く、美しい存在であるなら、神が創造した自然もまた、正しく、善く、美しいはずだ。そのように理解されていたのです。そのため自然は、人間がつくるものよりも、完全で調和した美のモデルとして位置づけられてきました。一方で、火山の噴火や嵐のように人間の力では制御できない現象は、長い間畏怖の対象でもありました。
17世紀以降になると、自然科学の発展によって自然は次第に理解可能なものとして捉えられるようになります。そうした変化のなかで、自然の圧倒的な力を前にした恐れと、同時に惹きつけられるような感覚をいい表す言葉として、「崇高」が用いられるようになりました。
さらに18世紀になると、イギリスを中心に「ピクチャレスク」という感性が広まっていきます。これは現代の私たちがスマートフォンを使って風景を撮影するのと、よく似た感覚です。印象的な一場面を切り取り、絵のように眺めるという態度が、次第に育っていきました。この時代から、自然は神が創り出した完全性の象徴という位置づけを離れ、鑑賞の対象として捉えられるようになります。
1枚の絵画のように自然を切り取って眺めることで、これまで人々の心にあった「自然は恐怖と隣り合わせのもの」という意識は、少しずつ後景に退いていきました。代わりに生まれたのは、安心して眺められる風景です。見通しがよく、危険がなく、手入れの行き届いた自然。そうした風景が「美しい」とされるようになったのです。この感覚は庭園文化や景観設計を通じて広まり、私たちの美意識のなかに深く根づいていきました。
「美しさ」が、環境問題を見えにくくしてきた
枠のなかに収まり、人の思い通りに管理された自然は、私たちに安心感や快適さを与えてきました。その意味で、こうした美意識は、長い間うまく機能してきたともいえます。しかし同時に、その美しさが、自然の複雑さや生態系の動きを見えにくくしてきた側面もあります。
例えば、人工的な芝庭や除草剤によって維持される花畑は、一見すると整っていて美しく見えます。けれども、生態系の視点から見ると、昆虫や微生物、多様な植物が入り込む余地は乏しく、環境への負荷が大きくなっている場合も少なくありません。その結果、生態系は単純化されていきます。
このズレを象徴する例が、受粉を担う昆虫のために、多様な植物をあえて混在させる庭、いわゆる「ポリネーターガーデン」です。生態学的には豊かな状態であっても、視覚的な秩序を求める私たちの目にはどこか「雑然としている」ように映ることがあります。ここには、生態学的に望ましい状態と、私たちが慣れ親しんできた美的感覚との間にあるズレが、はっきりと表れています。
このズレは、再生可能エネルギーをめぐる議論にも、はっきりと表れています。風力発電は、環境負荷の低いエネルギー源としてその必要性が認識されている一方で、景観を損なうという理由から反対されることも少なくありません。その背景には、「自然は眺めるもの」「インフラは目立たないもの」という、私たちの無意識の前提があります。自然は手を加えず、静かに存在しているべきものであり、人間の活動はその背後に隠れているべきものだ、という考え方です。そうした前提のもとでは、風車の存在は、どうしても風景のなかで異物のように見えてしまいます。
しかし問題は、「美」か「持続可能性」か、という二択で考えてしまうことそのものにあります。風車を景観に馴染ませるために色を変えればよい、といった単純な話ではありません。私たちが問い直すべきなのは、何を美しいと感じ、何を見ないものとしてきたのかという、美意識の枠組みそのものなのだと思います。
「美しさ」を判断するスピードをあえて落としてみる
美の判断はとても直感的です。だからこそ、目にした瞬間の「好き/嫌い」で結論を出す前に、あえて判断のスピードを落としてみることが大切になります。なぜこの形なのか。その背景にはどんな制約や配慮が込められているのか。そうした問いを、ほんの少し自分に向けてみる。
例えば風車は、遠い場所で起きている気候変動に応答しようとする、1つの配慮の形として見ることができます。そこには人や生き物、そして未来の世代にできるだけ負担をかけないよう、あらかじめ引き受けられた制約が反映されています。自由で目を引く美しさとは異なり、そうした制約のなかで形づくられた姿には、独特の緊張感があります。私は、そうした節度や葛藤を含んだあり方が、これからの美の感じ方に、1つの手がかりを与えてくれるのではないかと思っています。
日本には、古くから「儚いもの」を美しいと感じる感性が育まれてきました。それは、ものごとがやがて失われていくことを前提にしながら、その一瞬に目を凝らす態度だったともいえるでしょう。花が咲き、やがて散っていくこと。季節が巡り、同じ風景が、少しずつ姿を変えていくこと。そうした変化のなかに身を置きながら、人は自然とともに限られた時間を生きている、という感覚が大切にされてきました。ただ、現代において「儚さ」という言葉は、ときに別の文脈で使われてしまうことがあります。大量生産や大量消費を正当化するために、「うつろうからこそ美しい」「消えていくから仕方がない」といった言い回しが、安易に用いられる場面も少なくありません。しかし、氷河の融解や、生物多様性の喪失は、そうした意味での「儚さ」と同列には置けないものです。それらは、元に戻ることのない変化であり、眺めて受け止めるだけでは足りない喪失です。自然は二度と元には戻りません。だからこそ、不可逆な変化の重みに立ち止まり、その消失が何を意味しているのかを、深く想像する必要があります。むしろ、本来の儚さとは、そうした重みを引き受けながら、失われていく時間をできるだけ引き延ばそうとする姿勢と結びついていたのではないでしょうか。
ものの「劣化」に対する捉え方も同じことがいえます。私たちは、新品の状態を最高のものとし、傷や汚れを価値の低下とみなしてきました。しかし、使い込まれた痕跡や、手入れを続けてきたプロセスには、新品にはない「美」があります。大切なのは、消費して次に移ることではなく、変わりゆく過程に目を向けて、失われるかもしれないものに、あらかじめ想像力を向けていくことです。そういう意味では、今こそ私たちは、儚さのスピードを緩めるときなのだと思います。そうした姿勢が、美のあり方を変えていくのではないでしょうか。
管理する美から、共に生きる「納得の美」へ
「環境のために美しいものを諦める」「快適さを捨てて我慢する」。こうした自己犠牲を前提とした語り方では、私たちの暮らしは豊かになりにくいように思います。今、環境美学が提案しているのは、新しい美の理想像を押し付けることではありません。むしろ、暮らしのなかにすでにある快適さを、別の視点から捉え直すことなのです。
例えば、百貨店という場所を考えてみましょう。かつては贅沢の象徴だったかもしれません。けれども今の時代に求められているのは、その品物が「どこから来て、どう作られ、どう還っていくのか」という物語に、どれだけ納得できるか、という点ではないでしょうか。「環境にいいから」という理由づけは、ときにお説教のように響いてしまいます。しかし、生産者の配慮や素材の選択といった制約の痕跡を、そのまま味わいとして受け取れるようになれば、ものを見る感性は少しずつ耕されていきます。
こうした納得に基づく美意識は、私たちと自然との関係にも繋がっていきます。庭に雑草が混じることを許容し、素材の呼吸を感じるものを選ぶ。放置するのではなく、共に生きるために適度な距離を保ちながら、手入れを続けていく。そうして一歩引き、自然のプロセスに余地を残すことができたとき、謙虚で生命力に満ちた、新しい美しさが見えてくるはずです。
私たちは今、美意識を少しずつシフトさせる必要のある地点に立っています。けれどもそれは、美しさや心地良さを諦めたり、否定したりすることではありません。視点を少し変えて世界を見渡してみれば、これまで見落としていた輝きが、実はすぐ足元に、しかも至るところにあることに気づく。その可能性を、私はこの「納得の美」という考え方のなかに感じています。
【編集後記】
今回の取材を通じて、たしかにこれまで整然とした自然や管理された風景を「美しい」と捉えてきていたのだと感じました。これまで私が「美しい」と感じてきたものは、自分自身の感覚だったのか、それとも育ってきた環境に導かれたものだったのか。自らのあたりまえを見直すきっかけをいただいたように思います。
また、「美しさの判断を急がない」という考え方も私にとって新鮮で、やってみると意外なほど難しく、直感で決めつけてしまう自分がいることにも気づくことができました。
環境美学という視点を知ったことで、環境と美についてもう少し丁寧に考えてみたくなりました。まずは風景やモノの背後にある存在に目を向けることから始めてみようと思います。
(未来定番研究所 榎)