二十四節気新・定番。
2022.05.18
逃げる
5月のテーマは「逃げる」。近年では、移住や転職など、ひとつの選択肢として「逃げる」ことが以前に比べ前向きに捉えられるようになってきました。F.I.N.編集部では、識者の方に、自分にとっての「逃げる」を聞いたり、思い切って慣れ親しんだ土地を離れ、身の回りの環境を大きく変えて人生を前向きに送りはじめた人に取材を行ったりと、これからの未来の価値観の定番になりうる「逃げる」について、考察していきます。
今回は、「マイナスのものをプラスに転じて考える」と説く禅に着目。どんな試練も避けることなく、正面から受け止めることを教えとする禅の世界では、「逃げる」ことをどう捉えているのでしょうか。曹洞宗 徳雄山建功寺 住職で禅の僧侶・枡野俊明さんにお話を伺います。
(文:船橋麻貴/イラスト:谷山彩子)
枡野俊明(ますのしゅんみょう)さん
曹洞宗 徳雄山建功寺 住職、庭園デザイナー、多摩美術大学環境デザイン学科 教授。
大学卒業後、大本山總持寺で修行。禅の思想と日本の伝統文化に根ざした「禅の庭」の創作活動を行い、国内外から高い評価を得る。芸術選奨文部大臣新人賞を庭園デザイナーとして初受賞。ドイツ連邦共和国功労勲章功労十字小綬章を受章。2006年「ニューズウィーク」誌日本版にて「世界が尊敬する日本人100人」に選出される。著書は、『心配事の9割は起こらない』『仕事も人間関係もうまくいく放っておく力』(ともに三笠書房)など多数。
雪だるま式に膨れ上がる不安……。
大切なのは、自分の足元をよく見ること。
時代の移り変わり、それに伴う思想の変化……。世の中は「逃げる」ことを前向きに捉えるようになったけれど、それでもふつふつと湧き上がる「逃げたい」という気持ち。常に何かに追われているような気がして、最終的に逃げたくなってしまうのは、現代社会ならではの問題がはらんでいるよう。
「私たち現代人は、いわば情報の洪水の中にいる状態です。ひと昔前は、何か情報を得たければ、その地まで実際に足を運ばないといけませんでした。ところが、インターネットが発達した現在は、必要な情報を指先ひとつで簡単に得られるばかりか、不必要な情報まで勝手に耳に入ってきてしまう状態。こうした情報の波をすべて受け止めていくと、人間がパンクしてしまうのは当然です。
この情報の波に飲まれないために大切にすべきは、必要な情報を自分で取りに行くこと。そして、必要のない情報には触れないこと。まず、情報を取捨選択することで、逃げたいと思い詰めるまで追いこまれることは減ると思います」
確かに、不必要な情報に触れることで不安感を煽り、自分で自分を追い込んでいるような気さえします。
「不安というのは、雪だるまと同じです。転がし始めると、どんどん膨れ上がって大きくなってしまう。終いには、不安に縛られて身動きが取れなくなってしまいます。不安を転がさないためには、自分に集中すること。これを禅では、<脚下照顧(きゃっかしょうこ)>と言います。他人を追求するのではなく、自分を顧みて足元をよく見ることで、進むべき未来への道が開けていくのです。
とくに最近ではSNSを見て、そこにいる誰かと比べて落ち込んでしまう方が多いですが、SNSでは人の一部分しか見えないもの。だから、なにもSNSに触れて自分を追い込み、逃げたくなる状況をわざわざ作り出す必要はないのです」
不要なものは避ければいい。
立ち向かうと決めたら、すぐに行動を。
こうした不要なものを避ける行動は、禅の世界では悪いことではないとされていると枡野さん。
「自分にとって不要なことを避けていく、あるいは触れないでおく、つまり逃げることは、決して悪いことではありません。ただ、受け止めざる得ないものは正面から受けて立つ、というのが禅の考えです。江戸時代の曹洞宗の僧侶、良寛(りょうかん)さんが友人に宛てた手紙の中でもこう説いています。
災難に逢う時節には災難に逢うがよく候
死ぬ時節には死ぬがよく候
これはこれ災難をのがるる妙法にて候
要するに、災難や死の訪れのような逃げられない問題が起きたとき、これはもう避けようがない。どうしようと悩んでいては何も解決にならないので、まずはその現実を受け入れる。そして何ができるかを考えて行動することで、次に同じような問題が訪れた場合も何かと手立てを講じられるのです。過去から学習したことを生かすことができれば、次に起こる問題は避けられるでしょう」
問題に立ち向かうことを決心したとしても、不安はつきまといます。どうしたらよいのでしょうか?
「不安は実体のないもの。だから、禅に<禅即行動(ぜんそくこうどう)>という教えがあるように、あれこれ悩む前にすぐに行動にうつすのがいいでしょう。問題に向けてまず動くことで、不安から解放されて心も軽くなりますから」
悩みごと、心配ごとは、生きている証。
手放さないと、得られないものがある。
ここまで枡野さんは、自分の必要な情報の取捨選択をすること、避けられない問題には立ち向かうことの大切さを教えてくださいました。それでは、どうしても頭から離れない悩みごとや心配ごととは、どう向き合っていけばいいのでしょうか?
「大前提として、悩みごと、心配ごとのない人はいません。つまり、悩みごと、心配ごとがあるのは、生きている証なのです。だから、もし何かに思い悩んだときは、情けない、恥ずかしいなんて思う必要は全くありません。むしろ、『今、生きているんだ』と実感していいのです」
また、悩みごと、心配ごとを減らすには、苦手なことを手放すことが大事だとも話します。
「悩み、迷い、立ち止まったら、やはり自分の足元をしっかり見ることです。自分の立っている場所がわかったら、自分がやるべきこと・そうでないことの棲み分けがしっかりできてくるでしょう。何でもかんでも満遍なく、自分で取り組まなくてもいいのです。
禅の言葉に<放てば手に満てり>というものがあります。人はいっぱいのものを持つことはできません。だから、何かを手放さないと、手に入るものも入らない。手放してこそ、本当に大切なものが手に入るのです。
たとえば、英語が苦手だったら得意な人にお願いすればいいですし、デザインや文章が得意なら磨きをかけていけばいい。不得意なもの、苦手なものを手放して、自分の得意なことを伸ばしていけば、自分にしかできない仕事や役割が回ってくることだってあり得ますから」
自分の潜在能力を呼び起こし、
最後に誇れるような自分らしい生き方を
インターネットの台頭に、AIの出現と、便利さが加速する世の中。その一方で、手放したり、逃げたりするうえで必要な、思考する力が著しく後退していっていると語ります。
「利便性が追求されていくと、人間に備えられた能力がどんどん奪われていくように感じます。私自身のことでお話すると、携帯電話が登場してから電話番号を記憶することがなくなりましたし、カーナビができてからは順路を把握することも少なくなりました。
便利になっていくのは、それはそれで素晴らしいこと。ですが、今の世界では、先に誰かが答えを出してくれていることが多いので、自分で経験を積んだり、学んだりしなくても、ネットを見ればその答えにたどり着けます。そんな今だからこそ、ものを見る目を養う力、自分の頭で考える力を身につける必要があると思います」
人間の中で眠る、潜在的な力を養うには、日頃からものごとを観察することが重要だそう。
「利便性のいい社会から一旦離れて、自然の中に身を置いてみるといいと思います。自然に目をやると、木が芽吹いていたり、蝶々が蜜を吸いに花に集っていたり、季節の移ろいを感じられるでしょう。すると、普段見えてないものが見えるようになって、ものの良し悪しを見分けられる力が身につくと思います」
不要なものを手放したり、避けたりする力を習得すると、人生をより豊かに変えられると枡野さん。
「自分の生活、人生をうまくコントロールできるようになると思います。人生で大切なのは、自分らしい生き方をすること。情報や人に振り回されてしまっては、本来の自分の目的を達成することができません。自分と向き合って悔いのない生き方をすることで、この世を旅立つとき、『自分の人生を生きられて幸せだった』と思えるはずです」
さまざまな情報が溢れる今の時代だからこそ、不要な情報から逃れ、必要以上の不安や悩みごとを避けて、自分が向かうべき道を見出すことが重要。そう枡野さんが説いてくださった禅の教えが、自分らしい人生を歩むヒントになってくれそうです。
■F.I.N.編集部が感じた、未来の定番になりそうなポイント
・膨大な情報のなかから自分にとって必要なもののみを取捨選択し、不必要な情報からは「逃げる」ことを大切にする
・禅の教えである〈放てば手に満てり〉のとおり、すべて自分でやるのではなく、苦手なことから「逃げ」て自分にしかできないことを見据える
・テクノロジーの発達によって便利な世の中になっているからこそ、自らの頭で考える力を養うことで、自分らしい幸せな人生を送れる
【編集後記】
桝野さんから「放てば手に満てり」を教えていただいたとき、なるほど!と膝を打ったものの、その直後には自分の手放す勇気の無さに打ちひしがれました。しかし、やはり「禅即行動」のとおり、手放したり「逃げ」たりした先の不安に思い悩んで不幸のなかに身を置くよりも、まずはちょっと手を離してみるだけで、より自分らしい生き方に近づくはずです。現在増えている他拠点生活や地方移住、独立、副業などライフスタイルを変えている方々は、まさに「放てば手に満てり」を実践されているのだと実感しました。
(未来定番研究所 中島)
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