2023.06.12

無になりたい

無とは何か。禅とマインドフルネス瞑想の視点から考える。

今回F.I.N.編集部では、忙しない現代人が抱く「無になりたい」という願望に着目。この特集をつくるにあたり、時代の目利きたちに「無になりたい」瞬間を伺うと、「無」に対してさまざまな見解があるようでした。そこで改めて、「無とは何か」を考えます。この記事では、近年名だたる経営者たちが取り入れているという禅における「無」を、禅僧のネルケ無方さんが改めて解説。そして、そのような「無」と昨今注目が集まっているマインドフルネス瞑想との間にどのような関係があるのかを、自らも瞑想の実践者である認知心理学者の藤野正寛さんに伺います。

 

(文:船橋麻貴/イラスト:髙橋マサエ)

Profile

ネルケ無方さん

禅僧。1968年ドイツ生まれ。幼い頃に母と死別、人生に悩む。16才で坐禅と出合い、禅僧になる夢を抱く。1990年に留学生として来日、はじめて安泰寺に上山。1993年に出家得度し、師匠の下で8年間に及ぶ修行生活に入る。大阪城公園での「ホームレス雲水生活」を経て、2002年から2020年まで安泰寺の住職に。現在は大阪を拠点に講演活動を行うほか、世界に向けてYouTubeでも積極的に発信している。主な著書に、『迷える者の禅修行』(新潮社)、『日本人に「宗教」は要らない』(ベストセラーズ)、『今日を死ぬことで、明日を生きる』(ベストセラーズ)など多数。

Twitter:@MuhoNoelke

Profile

藤野正寛さん

認知心理学者、NTT コミュニケーション科学基礎研究所 リサーチスペシャリスト。1978年大阪生まれ、奈良育ち。神戸大学経営学部卒業後、医療機器メーカーに入社。海外駐在員時代に、10日間のヴィパッサナー瞑想リトリートに参加し、瞑想が身心を健康にすることを体験的に理解し、「働いている場合ではない」と退社。京都大学教育学部に編入学し、学士・修士・博士を経て、現在に至る。現在は、瞑想の実践者かつ研究者として、瞑想実践を通じてでてきた問いをもとに、認知心理学的手法やMRIなどの実験装置を用いて、瞑想の生理・心理・神経メカニズムの解明に取り組んでいる。

http://masahirofujino.jp/

なぜ私たちは、こんなにも無になりたいのか。

禅こそが「無」である。

ゲームの無意味さに気づいた時、人は無になりたくなる。

 

仏教から派生し、インド人の仏教僧・菩提達磨(ぼだいだるま)が開いたと言われている「禅宗」。その教えや思想が「禅」と呼ばれています。宗派や歴史など背景はあるけれど、「禅こそが無である」とネルケさんは語ります。

 

「禅は教えや経典に囚われず、本来は『今ここの自分を生きるアプローチ』ができるもの。だから、禅を実践している人からすれば、むしろ仏教の枠を超えたものであるし、時代や国というような枠組みをも超えています。かたちがないものだから、禅こそ『無』と言ってもいいでしょう」

 

忙しなく過ごす私たちが抱く「無になりたい」という気持ち。テクノロジーの発達によって情報があふれ、私たちの注意が振り回されて落ち着く暇がなくなってきていることが、そういった願望を抱く要因の一つに。

 

「生きる上での選択肢が増え、社会は自由になった反面、不安定にもなりました。自分の居場所やアイデンティティーが見つけにくいというのもあります。しかし禅においては、そもそも人は生まれながらにして『無』だと説きます。私たちは物心がつくと、自分と世界を分けて考えるようになります。自分と他人を分けることが、社会における競争を生み出すとも言えるでしょう。私はこれをゲームによく例えますが、この競争の中に組み込まれることで、『友達に負けたくない』『出世したい』という感情が湧き上がります。ところが、そんな社会生活を送るうちに、自分の人生を生きていないように感じてしまう。誰かが作ったゲームの中のプレイヤーの一人にすぎないのではないか、と。こうしてゲームの無意味さに気づいた時に人は『このゲームを降りたい』すなわち、『無になりたい』と感じるのでしょう」

アテンションエコノミーの出現によって、

マインドフルネス瞑想に注目が集まっている。

今やるべき目の前のことから注意が逸れて、それ以外の感覚や感情や思考に囚われているというマインドワンダリングの状態は幸福感が低くなっていると、藤野さんは語ります。

 

「2010年にサイエンス誌に掲載された研究(Killingsworth & Gilbert, 2010)では、日常生活で何をしているかよりも、そのやるべきことに専念できているかどうかのほうが人の幸福感に大きな影響を与えるということが示されました。例えば、仕事をしている時でも、旅行の計画などといった他のことを考えているよりも、仕事に専念できているほうが幸福感が高いということです」

 

それなのに、最近では、これまで以上に、今やるべき目の前のことから注意が逸れてそれ以外のことに囚われやすくなっているのだとか。

 

「近年、人々の注意や関心を引きつけることで利益を生み出すことのできるアテンションエコノミーが台頭しています。例えばソーシャルメディアなどは、私たちユーザーがお金を払っていないのに、非常に大きな利益を生み出せるようになっています。それは、私たちユーザーが注意を払い続けているからなんです。多くの人がお金が有限であることを知っており、そのお金を管理する方法を知っています。しかし、多くの人は注意が有限であることに気づいていなかったり、その注意を管理する方法を知らないのです。このアテンションエコノミーが加速する中で、今まで以上に、私たちの注意は、今やるべき目の前のことから逸れてそれ以外のことに囚われやすくなっているのです。このような中で多くの人たちが、『考え事を減らしたい』、『無になりたい』と思うようになっているのかもしれません」

 

では、そうした中で、私たちは無になることはできるのでしょうか?

 

「例えば、僕は20日間の瞑想リトリートに参加したりするのですが、その間、誰とも話さずに、デジタル機器からも離れて、1日20時間くらい瞑想していると、ほとんど考えごとが生じてこないような状態が訪れることもあります。しかし、こういう特殊な状況でもない限り、日常生活では、どうしたって様々な感覚や感情や思考が生じます。むしろ、これがないと過去の経験を統合したり、現在の状況に適切に対応したり、未来の予測を立てたりすることができなくなり、生きていくことすらできません。今ここの自分を生きるということは、感覚や感情や思考をすべて生じなくさせるということではなく、感覚や感情や思考に囚われることなく、今やるべき目の前のことに専念するということなのです。今やるべきことが『何かについて考える』ことであれば、当然それについて考えることに専念すればいいのだと思います。最近では、そういった目の前のことに専念するためにマインドフルネス瞑想を実践する人たちが増えてきています」

 

マインドフルネス瞑想を実践している際の生理活動も明らかになっているそうです。

 

「私たちが実施した研究では、マインドフルネス瞑想をすると、覚醒度に関わる交感神経活動が高まっているのに、ストレスに関わるコルチゾール濃度が低下しているという非常に興味深い結果が得られました(Ooishi et al., 2021)(*)。マインドフルネス瞑想が目指す状態とは、何も考えずにただリラックスしている状態というよりも、自分の身心の中で次々と生じている様々な感覚や感情や思考に気づきながらもストレスを感じていないという状態なのだと思います。宮本武蔵が大勢の相手と戦う時に、木を見ずに森を見ながら、ストレスを感じずに、次々と襲いかかってくる攻撃に柔軟に対応できるような状態に近いのではないかと考えています」

 

*・・・https://www.frontiersin.org/articles/10.3389/fphys.2021.675899/full

どうしたら無になれる?

人は生まれながらにして無である。

だから、「坐禅」で今ここに生きる自分に戻る。

 

「無になりたい」と感じたなら、その気持ちを助長させるゲームを降りて、「もっと自由に遊ぶこと」が大事だとネルケさん。勝ち負けや損得を意識するのではなく、みんながもっと楽しく遊べる方法を模索するのが禅であり、その手段の一つとして「坐禅」があるそう。

 

「坐禅をしても何もなりません。5分10分30分と坐っても特に何も達成しませんから。ただそこには、坐れる時間があるだけなのです。息を吐いたら吸う。早くても遅くてもいい、今日まで何十年と続けた呼吸を感じる。今まで気づくことのなかった『当たり前』や『今ここに生きている』ことにも気づけるから、勝ち負けや損得という思いから解放されるのです」

 

ネルケさんは坐禅をすることが「今ここにいる自分に戻れ、無になることにつながる」と言います。ですが、坐禅をしてみると、考えごとがぐるぐると頭の中を駆け回ってしまうことも……。

 

「坐禅の最中、考えごとをしたっていいんです。というのも、普段私たちが無意識的に考えごとをしているのは、観覧車に例えるなら、ゴンドラに乗り込んでぐるぐる回っていることにすら気づかないということですから。一方、この観覧車を止めるのではなく、むしろ降りて少し離れたところから全体の風景を見渡すのが坐禅です。ゲームをいっぺん降りてもう少し余裕のあるところ、例えば見晴らしのいいところからゲーム全体を見渡す。そうすることで、今までの自分のプレーの仕方は自分も相手も苦しめたものだと気づくかもしれないし、もう少し余裕のあるようなフェアなプレーをしよう、人生は1回しかないゲームなんだから勝ち負けや損得よりも、楽しいゲームにしようと気づくかもしれない。だから坐禅で、考えごとをしている自分にはっと気づくことはとても大切なのです。その瞬間が『今ここにいる自分に戻っている』状態なのですから」

「今ここの自分を生きる」ため、

日常の中にマインドフルな時間を見つける。

「無になるには、ゲームを降りること」と説くネルケさん。しかし、成長や競争を前提とする資本主義社会で生きる私たちはゲームから降りることはできるのでしょうか。藤野さんは「ゲームから降りるということは、資本主義的な活動をしなくなるということではなく、資本主義的な活動との関わりかたを変えるということではないか」と言います。

 

「現状よりも高い目標を設定して、そのギャップを埋めることで社会をより良くし、利益を生み出していくことを可能にしている資本主義は、現代社会にとって重要なシステムだと思います。しかし、そのようなシステムが行き過ぎて、現状と目標のギャップがどんどん拡大していくと、考えごとも増え、そのシステムの中にいる人たちのストレスも大きくなっていきます。マインドフルネス瞑想が流行った背景には、そういった考えごとやストレスを減らしたいと思う人たちが多くなっているということが挙げられます。しかし、目標を設定して現状とのギャップを把握して、それを埋めるという習慣が身についている私たちがマインドフルネス瞑想を実践すると、思いもよらない方向に行く可能性もあります。パソコンで例えるなら、私たちは知らず知らずに『現状と目標のギャップを埋める』というOSを身につけています。そしてその容量がいっぱいになっていくとストレスを感じます。そこで、マインドフルネス瞑想を実践して、OSのクリーンアップをします。その後、何が起きるかというと、そのOSのままだと、空いた容量に新たなタスクを入れてしまうのです。そうすると生産性は高まるかもしれませんが、それを続けていくと最終的にはOS自体がどんどん重くなってしまうのです。マインドフルネス瞑想が目指しているのは、そういったOSのクリーンアップをすることではなく、『現状と目標のギャップを埋める』というOSから『今ここの自分を生きる』というOSに入れ替えていくということなのです」

 

坐禅もマインドフルネス瞑想も『今ここの自分を生きる』というOSになるという点は共通しているけど、アプローチに違いがあるそうです。

 

「私たちは、意識的に何かを行うことは得意なのですが、無意識的に行ってしまっていることを止めることは得意ではありません。これは自動車のパーツを用いて考えるとわかりやすくなります。私たちは、『注意を集中するぞ』と思って注意集中に関するアクセルを踏むと、注意集中状態というタイヤが回ります。そして『注意を集中するのをやめるぞ』と思って、そのアクセルを離すとタイヤも止まります。しかし、仏教やマインドフルネス瞑想では、実は私たちは普段からずーっと様々なアクセルを踏み続けているのだと考えられているのです。例えば、特定の人から特定の言葉を言われると、自然と特定の感情が生じてきて、そこからさらに特定の反応や行動がでてしまうといったことです。私たちは、生まれてから今までの間に様々な経験をする中で、たくさんのアクセルを繰り返し踏むことで、いつの間にかそれらのアクセルを踏み続けている状態になっているのです。坐禅で何もせずにただ坐るということは、意識的に行っていることを止めるだけでなく、無意識的に行っていることも止めて坐るということを意味しているのだと思います。ただ、無意識的に行っていることを止めるというのはとっても難しいことです。そこで、マインドフルネス瞑想では、自分の身心の中で生じている様々な感覚や感情や思考に気づくための注意制御力を育むための実践や、それらに囚われなくなるための情動調整力を育むための実践を通じて、アクセルの存在に気づき、そのアクセルを踏んでいる力を抜いていくのです」

 

それでも坐禅や瞑想にハードルを感じてしまう場合は、自分にあった方法を見つけるのがおすすめだと藤野さん。

 

「毎日何回か行っているような行為から1つを選んで、それをマインドフルに行ってみてください。例えば、コーヒーが好きな人は、コーヒーを入れる際に生じる様々な外部の出来事や内部の経験に気づいてみてください。お湯を沸かす時の音、やかんの周囲の温度の変化、湯気の動き、コーヒー豆にお湯を注いだ時の泡の形や音や香り、それを注いでいる時の自分の腕の動き、香りが鼻に入ってきた時の、口の中の変化、身体に生じる感覚や感情の変化。毎日数回そういった時間を持つことでも、感覚や感情や思考に対する解像度は高まっていき、今ここの自分を生きることが少しずつできるようになっていきます。そのような時間のない人は、パソコンを立ち上げるときの音に丁寧に注意を向けるだけでも、いつもより落ち着いて仕事を始められるかもしれません。そうやって少しずつ『今ここの自分を生きる』というOSに入れ替えていくことで、考えごとが減り、目の前のことに専念できるようになり、幸福感が高まるかもしれません」

【編集後記】

自然と自分が無になっている時間は何だろうと考えたとき、サウナ・キャンプ・洋服へのアイロンがけをしている時間が思い浮かびました。この時間は藤野さんがおっしゃる内容のマインドワンダリングしていない状態、つまり今ここに留まっている、没頭している時間なんだと感じました。

ただ一方で自由競争によって成り立つ資本主義社会で生きる私たちは、どうしても他者/他社の存在を意識せざるを得ません。そういった意味では相容れないものかもしれませんが、何を動機に行動するかで変わってきそうです。報酬や評価などの外発的動機付けではなく、物事に対する強い興味などの内発的動機付けから行動していれば、きっとその時間は何かに没頭しているはずです。

没頭するほど夢中になれるものを見つけ時間をつくることが、現代社会を豊かに生きるコツなのかもしれません。

(未来定番研究所 小林)