2023.06.05

無になりたい

私たちがアンビエントミュージックを求める理由と、音環境の未来。

ストレスや騒音に囲まれ、慌ただしい日常生活を送る私たち現代人にとって「何も考えたくない」「無になりたい」という価値観は定番になっているのではないでしょうか。「無になりたい」という価値観について目利きにアンケート取材したところ(記事「時代の目利き7人に聞きました。『無になりたい時、どうしていますか?』」)、彫刻家の小田原のどかさんからも音にまつわる回答がありました。

 

そんななか、にわかに注目を集めているのがアンビエントミュージックです。心地よいサウンドやメロディにより構成されたアンビエントミュージックは、心のリフレッシュやリセットにもなるといわれています。また、静かで穏やかな環境をつくり出すことから、集中力や創造性の向上にも役立つとされているとか。今回は、東京・中延でアンビエント専門のカフェ・レコードショップ〈春の雨〉を経営する中澤敬さんと、音楽心理学の専門家である山﨑広子さんに、現代社会とアンビエントミュージックの関係について語り合ってもらいました。

 

(文:黒田隆憲/写真:西谷玖美)

アンビエント専門のカフェ・レコードショップ、

〈春の雨〉ができるまで

中澤さん

〈春の雨〉は昨年11月にオープンしたのですが、構想自体はその1年前くらいからありました。きっかけはコロナ禍で、当時は会社勤めをしていたのですが、子どもが生まれたタイミングで自分の働き方を見直したんです。コンサルの仕事で、四六時中働いているような忙しい日々を送っており、楽しくはあったのですが「このままだと良くないな」と。

 

それで会社を辞め、もともとアンビエントミュージックが好きだったのもあり、カフェスペースのあるレコードショップをつくることにしました。中延にした理由は、自宅と息子の保育園に近い物件があったから。アンビエントミュージックは生活に馴染んだものだと思うので、あえて都市部を避けて生活の延長線上の場所に仕事場を設けました。

山﨑さん

お店の名前には、どんな由来があるのですか?

中澤さん

僕にとってアンビエントミュージックの「原体験的な存在」が坂本龍一さんなのですが、中でも特に好きなのがクリスチャン・フェネスとの共作アルバム『cendre』なんです。その中の「haru」という曲を、お店の座標、中心に置こうと。「春」というと陽気なイメージがあると思うのですが、少しフラジャイルな感じをつけようと思って「春の雨」という名前にしました。山﨑さんは音楽心理専門家だそうですね。具体的にはどのようなことをされているのですか?

山﨑さん

もともとは「音の心理学」を勉強していました。音が、人に対してどのような影響を及ぼすのかを研究していくうちに、やはり調べ続けてきた人の「声」の解明に音の研究が応用できることがわかったのです。声を「音」として捉える人がそれまであまりいなかったのもあり、そのことについて特化した本を出版したら、いつの間にか「声の山﨑」みたいに言われるようになっていました(笑)。

中澤さん

「音の心理学」って、どんなアプローチをするんですか? 音や声を聞かせて、その時の脳波を測るとか?

山﨑さん

脳波を測ることもあるし、鎮痛や幸福感に関与するβ-エンドルフィンなどの血中濃度を調べることもあります。もちろん、心理学的な行動実験もありますが、結局のところその人がどう感じているのかはその人しかわからないんですよね。血液に出てくると言っても、その前に食べたケーキが美味しかった反応なのかもしれないですし(笑)。MRIという手段もありますが、あれは機械自体がうるさくて「音の反応」を測定するには適さない。

中澤さん

なるほど。私は理系の大学出身なのですが、その頃から音楽が好きで。同じノイズを聴いても「心地よい」と感じる人と、不快に感じる人がいるのはなぜかを脳波の測定で調べようと思ったことがあるのですが、うまくいかなくて。

山﨑さん

難しいし、曖昧なんですよね。脳に関する研究は進んだと言われていますが、全解明にはほど遠いですね。アメリカやイギリスで一般化されている音楽療法も、日本ではまだまだだなと感じることが多いです。

アンビエントミュージックは

余計な音の情報を中和してくれる

中澤さん

「アンビエント・ミュージック」の起源は諸説あるのですが、1978年にイギリスの音楽家ブライアン・イーノのアルバム『Ambient 1: Music for Airports』で一般的になったというか、概念として提唱されたのはこれが最初と言われています。彼はこのアルバムのライナーノーツに、アンビエントミュージックの定義について「興味深くはあるが、無視することもできる音楽」と記しています。「空港のための音楽」というタイトル通り、赤ちゃんからおじいさんまでいる空港という環境に、最も適した音楽とは何か?をテーマに作られた本作からアンビエントミュージックの歴史が始まったと言えますね。

中澤さん

ひと言でアンビエントミュージックといっても、現代は幅広く派生しています。ハウスやテクノっぽい音楽や民族音楽っぽいもの、ジャズやクラシックを取り入れていったものもある。「チルアウト」「ニューエイジ」「ポストクラシカル」と呼ばれているジャンルを、アンビエントミュージックに括ることも可能です。共通している特徴は、抽象的なサウンドであることなのかなと。そのためにシンセサイザーを多用したり、ピアノのような生楽器も抽象的に加工されていたりする場合が多い。楽器としての輪郭がはっきりしていない場合が、アンビエントミュージックは多いです。

山﨑さん

音楽の形式が明確ではないところがアンビエントミュージックの魅力といえるかもしれないですね。「形式」「枠」があることでイメージが限定されてしまい、そこに入ってこられる人も限られてしまう。そこを取り払うことで、より多くの人に浸透する音楽になっていったのかなと思いました。例えば「尺」という形式を取り払った、ものすごく長い曲もありそうですよね?

中澤さん

ありますね。レコードの片面まるまる1曲というアンビエントミュージックは珍しくない。

山﨑さん

そうなると、聴く目的も変わってくる。「眠れない時にアンビエントミュージックを聴いている」という知り合いは多いです。波の音や、鳥の声など自然音を取り入れたアンビエントミュージックってあるじゃないですか。そういう音に脳が癒されるというか。耳を澄まして集中して聴くのではなく、部屋でなんとなく流しておくと、耳に入ってくる不快なノイズ、余計な音の情報を中和してくれる効果もある気がします。生活のBGMとして、アンビエントミュージックを聴きたい人が増えているのではないでしょうか。

中澤さん

よくわかります。オープン当初は営業中、店の扉を閉めていたのですが、最近は少し開けておくようにしていて。というのも、ここは結構車が通ったり、朝は保育園の散歩コースになっているので園児たちの声が聞こえたり、そういう外の音が、お店で流す音楽と混じってすごくいいとお客さまに言っていただいたことがあるんです。

 

高木正勝さんの『Marginalia』というシリーズ作品は、まさに自然音と音楽が混じり合った作品なんですよ。高木さんは京都の山奥で暮らしているのですが、ご自宅の窓を開け放ち、自然音、雷やセミの鳴き声などが聞こえてくる中で、ピアノを即興演奏しレコーディングした音源を『Marginalia』と名付けてコンスタントにリリースしているんです。

山﨑さん

 

聴いていると、時間の流れがゆったりしていくような感じがしますね。ピアノと自然音、とてもシンプルですが、自然界には「1/fゆらぎ」といわれる音がたくさん入っています。例えばピンクノイズ、川のせせらぎ、動物の鳴き声。要するに揺らいでいる音の方が、パキっとしたクリアな音よりも人は安らぐのかもしれない。私たちは普段、思っている以上にたくさんの音を浴びていて、完全な「無」の状態にいるとかえって不安な気持ちになってしまうんです。例えば禅業も、静かな環境で行いますが完全な「無」ではなく、周囲のさまざまな自然音が聞こえている場所で行いますよね。そういう音から人は無意識に「空間」を感じていたりするので、多少のノイズは必要なものなのです。

中澤さん

この店の名前の由来となった『cendre』も、坂本さんのシンプルなピアノ演奏にフェネスがギターでノイズっぽい音を背景で出していて。これもいわゆる「ノイズ」なのに聴いていると心が落ち着きます。初めて聴いたのは17歳の頃。それからずっと好きで聴き続けていますね。

山﨑さん

他に、おすすめの作品はありますか?

中澤さん

いわゆる「アンビエントミュージック」の典型としては、スティーヴ・ローチの『Quiet Music 2』も良いですよ。こういう「いかにもアンビエント」みたいな音楽は模倣する人も多いのですが、どこか表面的になってしまいがちというか。「癒し」を目的につくられた音楽は、個人的にちょっと興醒めしてしまうのですが(笑)、こういう大御所が本気で作るとやっぱりいいなと思いますね。

あとは、パリの5つ星ホテル『Hôtel Costes』による同名の音楽レーベルからリリースされた、Masomenosの『Studio HC #1』もおすすめです。アンビエントミュージックというと、一人でじっくり聴く内省的な音楽というイメージが強いかと思うのですが、これは少し雰囲気が違っていて。ちょっと華やかな場所、不特定多数の人がいる場所で聴くアンビエントミュージックという印象です。

山﨑さん

大きなリズムと細かいリズムが同居したユニークな音楽ですね。大きな流れに体を委ねるとリラックスできるし、細かいリズムに集中すると気持ちが高揚してくる。

リラックスしたい時に、まず聴くべき音

中澤さん

コロナ期間、余白のある静かな音楽ばかり聴き過ぎて「アンビエント疲れ」をしてしまった、とおっしゃるお客さまがいて。このアルバムをおすすめしたら気に入ってくださいました。

山﨑さん

「アンビエント疲れ」、わかるような気がします。人の状態って常に変化していくので、ある時期にはしっくりきていた音楽が、ある時期になるとすごく違和感を抱くことがあるのは当然。体質や性質によって好みも違いますしね。静かでゆったりした音楽を聴いて、「じれったい」と思う人もいるだろうし。

中澤さん

おっしゃる通りです。僕自身、その時の体調や気分で聴きたい音楽は随分違いますから。そういう、自分自身の声に耳を澄ますのも大事ですよね。シカゴのシンガーソングライター、ギア・マーガレットの『MIA GARGARET』は、ストレスで声が出なくなってしまった彼女が闘病中に制作したインストアルバムなのですが、おそらく自分自身を癒すためにアンビエントミュージックへと向かっていったのかなと。それが、聴いた人の心を癒す力にもなっている。この作品も、「アンビエント疲れ」した人におすすめしたいです。

山﨑さん

自分の気持ちや体調に合う音楽を見つけること、そのために「自分自身の声に耳を澄ます」ことは、自分は何を求めているのか、自分が本当は何をしたいのか考えることにもつながる気がします。〈春の雨〉を訪れて、「私は今こんな状態なのですが、どんな音楽を聴けばいいでしょう」と相談すれば、きっと中澤さんが一緒に「音楽の処方箋」をつくってくれそう(笑)。

音の目利き2人が考える、未来の音環境

中澤さん

今は、パブリックな場所で流れる音や音楽に無頓着な気がしていて。全部が「悪い」とは言いませんが、安易なオルゴールミュージックや、場にそぐわないヒットソングが街中で流れていると残念な気持ちになります。

山﨑さん

売り場ごとに違う音を流すスーパーや効果音だらけのテレビ番組など、とにかく要らない音が多すぎると感じます。そういう環境だと人は、無意識に音を選び取ろうとしたり音から防御しようとしたりして脳が疲れてしまう。それでイライラしたり思考力が落ちたりする。押しつけがましい音の洪水は、人の想像力をも奪ってしまいます。社会全体が、もっと音の選び方に対して敏感になってほしいなと思います。

 

中澤さん

音を選ぶことは、その空間自体を考えることであり、引いては自分自身や相手のことを考えることでもある。世の中に心地いい音が溢れるよう、まずは自分自身の声に耳を澄ますことから始めたいですね。

〈春の雨〉

住所:東京都品川区豊町6-5-1

HP:https://harunoame.com/

Instagram:https://www.instagram.com/harunoame_cafe_records/

*営業時間は、お店のInstagramをご確認ください。

Profile

山﨑広子さん

一般社団法人「声・脳・教育研究所」代表。音が心身に与える影響を音響心理学、認知心理学をベースに研究。特に「声」と心身のフィードバックに着目し、分析件数はもうすぐ4万例突破。著書に『8割の人は自分の声が嫌い』(角川新書)、『声のサイエンス』(NHK出版新書)ほか。音の現場を伝える音楽・音声ジャーナリストでもあり、取材執筆多数。学校教材も執筆。

https://www.yamazakihiroko.com/

【編集後記】

中澤さんがかけてくださった『MarginaliaⅢ』では、ピアノの旋律の背景に雨や遠雷の音がしています。それに耳を傾けていると広い空間を感じ、自分も緑豊かで静かな京都の山へ連れて行かれたような、気持ちのよい感覚になります。それはボーカルが歌って、後ろに楽器の音が敷き詰められているメジャーな音楽体験とは全くちがうものでした。おのずと自身の考えごとと向き合えるアンビエントミュージックを誰もが暮らしに取り入れる未来は、今よりも少し穏やかで心地よい社会なのではないかと思います。

(未来定番研究所 中島)