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2020.04.29

谷中日記

第55回| 疫病退散

『平安の昔、京に疫病が流行った時の事。ある風雨が鳴り止まぬ夜、疫病神が慈恵大師の前に現れ「お前も罹(かか)らねばならぬ」と小指にとりつきました。
大師はたちまち発熱しましたが少しも驚かず禅定(瞑想)に入って心を整え、おもむろに小指を弾きました。すると疫病神が転がり出て熱も下がりました。
早速大師は、その時の姿を弟子に写させ、版木に彫り「お札」を刷らせました。そしてこのお札を家々の戸口に貼ると、その家の者は疫病に罹らず、また罹っていたも者はすぐ快方に向かったのです。
このお札の大師のお姿は、何と、角の長い魔物のかたちをしておりました。以来このお札は角大師と呼ばれ、厄除大師として広く信仰を集めています。』(上野 厄除 両大師堂)

寛永寺は江戸時代には上野公園全域を境内とし、徳川将軍家の菩提寺として高い地位を誇りました。現在の根本中堂は上野桜木にあります。

神様、仏様頼みしたい心境で、上野の寛永寺にお参りに行ってきました。

その昔、徳川家康は江戸城の鬼門(東北)にあたる上野の台地に寛永寺を建立し、山号は東の比叡山という意味で東叡山とされました。

本日の上野公園噴水広場。全盛期はここに根本中堂が建っていたとは!

寛永寺の境内地は、最盛期には現在の上野公園を中心に約三十万五千坪に及び、現在の上野公園の中央部分、噴水広場にあたる竹の台には、 間口45m、 奥行42m、高さ32mという壮大な根本中堂が建立され、現東京国立博物館の場所には、小堀遠州による名園が作庭されていた、との事です。

江戸時代には格式と規模において我が国随一の大寺院であった事を、上野公園を歩きながら実感しています。

歌川広重の名所江戸百景に描かれている清水観音堂の「月の松」から、不忍池辯天堂をのぞきます。東叡山は広大です。

しかし、本日のメインは、開山堂(両大師)です。
開山堂は、寛永寺の開山である慈眼大師(天海大僧正)と、天海大僧正が尊崇していた慈恵大師(良源大僧正)をお祀りするお堂です。

良源大僧正のお姿を護符にした「角大師」という魔除けの大師が広く信仰され、コロナにもお力を発揮して頂きたいと、お参りしてまいりました。良源大僧正は「おみくじ」の創始者でもあるそうです。

とてもユニークなデザインのお札ですが、すごい効き目!?

このお札を家々の戸口に貼ると、その家の者は疫病に罹らず、また罹っていたも者はすぐ快方に向かったとの事ですが、

自分だけ助かれば良い、という考えはやめて、今、医療の最前線で頑張って頂いている皆さんに心から感謝の気持ちを込め、地球儀に角大師のお札を貼り付けました!

(未来定番研究所 出井)

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