F.I.N.的新語辞典
2024.03.27
挑戦し続ける大人
近年、一度築きあげた価値観や環境を手放し、新しい挑戦をする人が増えたように思います。そんな大人の生き方は、少し先の未来ではより当たり前になっているでしょう。
船乗りやバーテンダーなどさまざまな職を経て、世界を舞台に活躍するアーティストとなった黒田征太郎さん。現状に固執することなく、今なお新しいことに挑戦し続けるエネルギーの源は何なのでしょう。そもそも黒田さんは自身の活動を「挑戦」と捉えているのでしょうか。黒田さんが人生で重ねてきた選択をひも解きながら、生きるヒントを探ってみます。
(文:イソナガアキコ/写真:西澤真喜子)
黒田征太郎さん(くろだ・せいたろう)
画家・イラストレーター。1939年大阪生まれ。米軍軍用船乗務員など多くの職業を経て、1969年、長友啓典氏とデザイン会社〈K2〉を設立。1992年よりニューヨークにアトリエを構え、国内・国外で幅広く活動。主な作品は『KAKIBAKA』『戦争童話集・全4巻』『風切る翼』『もじと絵』『リオ 旅に出た川』他。2004年「PIKADON PROJECT」を開始。2009年、活動の拠点を北九州市門司区に移し、門司港駅改築工事の期間中限定で展示された「門司港ドリームギャラリー」やライブペインティング、壁画制作等を精力的に展開。
僕らは人間として、ただ生まれてきただけ
F.I.N.編集部
黒田さんは若い時から現在に至るまで、常に新しいことに挑戦し続けているように見えます。
黒田さん
僕自身は挑戦しているとは思ってないんですよ。挑戦っていうと、決然としてとかね、敢然としてみたいな、考えて、考えて、「よし!行こう」という感じでしょ。でも僕は、そういう感じじゃないですから。
F.I.N.編集部
なるほど。ただ何にも縛られず、自由に生きていらっしゃる感じが、私たちには挑戦しているように見えるのかもしれません。
黒田さん
僕には「こう生きないといけない」というのはないですからね。僕らはみんな、人として等しく生まれてきているわけで。生まれた時に、どういう風に生きろとか、あんたの将来はこういう風に決まってるんだとか、言われてないですよね。ただ、人間として生まれてきただけです。だから「なぜ生まれてきたんだろう」と自問自答しながら、じっくり人生を味わって生きていく。僕はそれが面白いからそうしているだけです。
F.I.N.編集部
そういう意識は子どもの頃からあったのですか?
黒田さん
小学校で先生が1+1=2とか教えてくれるでしょ。でも僕は、「これって、何してんの?」って思っていました。だから手を挙げて正直に「先生は僕に何を教えたいんですか?」って聞いたこともあります。そしたら「余計なこと考えるな!」って怒鳴られました。もし先生が数の論理を面白おかしく教えてくれていたら、算数を好きになっていたと思うんです。でも学校はそういう場所じゃなかった。何か仕立てあげられていく感じが好きじゃなくて、だから僕は「いち抜けた」って。
自分の何かを探したくて家を飛び出した
F.I.N.編集部
そういえば黒田さんは高校を退学して16歳で家出したそうですね。
黒田さん
そう。もともと高校なんか行く気はなかったんですけど、おふくろの意向を汲んで受験したら合格しちゃったんです。それで通ってはみたけどやっぱり面白くなくて、抜け出すことばかり考えていました。そして16歳のある日、「もう学校にも家にもいたくない!」と着の身着のままで家出して、高校も退学したんです。
F.I.N.編集部
家を飛び出すというのは相当な覚悟があったと思うのですが、どんな気持ちだったのでしょうか?
黒田さん
僕は学校っていうものがのっけから面倒だったんです。それにうちは親父が死んで破産して、貧乏でしたから、母親に食わせてもらうのは申し訳ないという気持ちもありました。後はやっぱり「俺は俺で、何か探したい」という思いが強かったんですね。
F.I.N.編集部
その頃、やってみたい仕事とか、なりたいものがあったのですか?
黒田さん
漫画家になりたかったんです。小学生の時、手塚治虫さんが描いた漫画で、主人公が乗る自動車の車輪が楕円形にギュンとゆがんでいるのを見て衝撃を受けたんです。学校でそんな絵の描き方は教えてくれないでしょ? 自分もこんな漫画を描く漫画家になりたいと思って、『漫画少年』という雑誌にずっと投稿していました。
F.I.N.編集部
黒田さんにとって絵の入り口は手塚治虫さんの漫画だったのですね。
黒田さん
はい。でも結局、漫画家にはなれなくて、家出した後はアメリカ海軍関係の「LST 629号」という船の船員になりました。45人の船員の中で10代は僕だけ。ペンキ塗りとかご飯の配膳とか何でもやりました。船を降りてからは大阪でトラックの上乗りをやったり、バーテンダーの見習いをしたり、いろんな職を転々として、その頃は大きな夢とか何もなかったですね。
一人でできることなんか何もない
F.I.N.編集部
そこから今のような仕事をするようになったのは、どんなきっかけがあったのですか?
黒田さん
絵を描くのだけはずっと大好きでしたから、時々ハガキに絵を描いて誰かに送ったりしていたんです。そんな僕を見て、ある親切な人が「お前がやろうとしていることって何なのか分かってるか?」って言うから「いや、分からない」と言うと「図案家だよ」って。当時はまだ「デザイン」って言葉がなかったですからね。「図案家になるためにはどうしたらいいかわかるか? 有名な図案家の先生のとこに弟子入りするんだ」って教えてもらって、「有名な図案家」を探しまくって、巡り合うというか出てきたのが早川良雄先生でした。それから毎日先生の事務所に通って、最後は丁稚奉公のような形で入れてもらいました。
F.I.N.編集部
早川良雄先生の事務所に飛び込んだことで、黒田さんの人生が大きく動いたわけですね。
黒田さん
僕の相棒だった長友啓典と出会ったのも、早川先生の事務所でした。長友が偉い先生の紹介状を持って夏期実習にやってきたんです。早く来すぎてじっと待ってたから、おせっかいな僕は早川先生はまだ当分来ないことを教えてあげなくちゃと思ったんです。でも「こんにちは」って声かけるのも変だから「良い靴下履いてるね」って言ったら、長友も「いいでしょう?」って。それが彼との最初の出会いです。それからものすごく仲良くなって、毎晩一緒に飯食って、1969年にデザイン事務所〈K2〉を立ちあげました。長友という相棒がいたから、僕は50年間ずっと絵を描いて食ってこれたんです。一人でできたことなんて、何もないですよ。
F.I.N.編集部
でも色々なエピソードを聞いていると、黒田さんの好奇心というか行動力によって、いつも新しい扉が開いたのだなという気がします。
黒田さん
僕は扉を叩いて開けるタイプではないんですよ。扉が勝手に開いちゃうんです。僕が世間から「イラストレーター」と呼ばれるようになったのも、和田誠さんとの出会いがあったからです。
〈K2〉を立ちあげる前、ニューヨークに行ったんですけど、「俺はこんなことやってる」と誰かに喋りたくなって、ハガキに絵のようなものを書いて、何の期待もなく当時創刊したばかりだった雑誌『話の特集』に送り続けたんです。その雑誌のアートディレクターが和田誠さんで、「黒田は面白い」って気に入ってくれて、雑誌に連載してくれたんです。
F.I.N.編集部
それも決して「運」だけではない気がしますが、黒田さんはそう感じておられるということでしょうか。
黒田さん
人運がいいのかな。気がついたら誰かと何か始まっていて、かたちになってる時もあるし、自然消滅してしまう時もある。計画を立てて「こうやって始めましょう」というのはないんです。ラッキーとアンラッキーとが常に両方あって、うまくいかなくても「まあ、しょうがないなあ」という感じ。それくらいがいいなと思ってます。
何でも試して、面白がって生きたらいい
F.I.N.編集部
黒田さんもうまくいかないと思う時もあると聞いて、なんだか少し安心しました(笑)。これまでにあった失敗のお話や、しんどい時にどうやって乗り越えるのかも、お聞きしたいです。
黒田さん
僕なんて、しんどいと言えばずっとしんどかったし、失敗といえば、もう失敗だらけです。そりゃ「黒田征太郎」というやつと一緒に生きているわけだから、それだったら失敗もしょうがないだろうということですよ(笑)。僕は「黒田征太郎」のことを「ただ絵を描いてるだけやん」って思っていて、決して「アートやってるんだ!」とは思ってないですからね。プラスでもなく、ゼロでもなく、マイナスから見てるから、失敗しても落ち込むことはないんです。
F.I.N.編集部
そういう心持ちで挑めば、失敗を恐れず何でも前向きに取り組めそうですね。黒田さんは今、何か新しく始めようと思っていることがありますか?
黒田さん
実は僕、ずっと美術館で展覧会というものをしたことがなかったんです。本気でやりたいと思ったことがなかったし、照れくさいっていう気持ちがあったからなんですが、縁もあって、いよいよ北九州美術館と他にもいくつかの美術館で展覧会をすることになったんです。
F.I.N.編集部
今までしなかったことをしようと思ったのは、どんな心境の変化があったのでしょうか?
黒田さん
ニューヨークに住んでいた時、9.11で亡くなった消防士の子どもたちと一緒に絵を描いたり、阪神淡路大震災や東日本大震災の時も被災地でもライブペインティングをしたりして、絵というものが結構人の役に立つということを体験してきたわけです。そういうことが僕は面白いし、僕のやりたいことで、それを美術館でもできないかなと思ったんです。だから展覧会といっても「俺の絵を見てほしい」というわけではなくて、「絵を描くことは面白いんだ」ということ、そして「絵は誰かの役に立つんだ」ということを皆さんに伝える場にしたい。展覧会中にそういうことをみんなでできればいいなと思って、することにしました。
F.I.N.編集部
絵を描くことを心から楽しみながら、今なお、その活動領域をどんどん広げておられる黒田さんですが、最後に、これから何か新しいことを始めたいと思っている人に向けて助言をいただきたいです。
黒田さん
僕は朝起きたらカーテン開けて、窓開けて、空気入れて、「まあ、今日もうまいことやっていこうぜ」って、自分で自分に言うんですよ。伝えたいとか、そんなオーバーなことではないですけども、言いたいのは「僕らは自然と一緒やで」ということ。自然ってお日さんも風も掴むことはできないけども、お日さんがいてるから朝が来るねんで、ってこと。それってすごいことですよね。
そしてうまくいかない時やしんどい時は、自分で自分を騙していったら、面倒くさいことも面白いと思えてくる。何でも面白がったらいいんですよ。試して、試して、試して、失敗しても「ご破算で願いましては」とゼロにしてしまったらいいんですから。
【編集後記】
取材時間はわずか90分でしたが、黒田さんの物事に取り組む姿勢や考えに触れることで、いくつものヒントとエネルギーをいただきました。あまり難しく考えすぎず、ポジティブに捉えることの重要性を学ぶことができたように思います。日々挑戦する人々にとっても励みとなる話をしていただけたのではないでしょうか。
(未来定番研究所 榎)
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