2024.08.09

体感する

アーティストの草野絵美さんと花形槙さんに聞く、「リアルとバーチャルは正反対にあるわけじゃない」。

デジタルやバーチャルが暮らしに根付いていく一方で、「リアルの重要性」を痛感している私たち。こうした社会の中で、この先どう生きていけばいいのか。F.I.N.では、現実と仮想をそれぞれ体感したり、比べたりしながら、5年先の「現実と仮想の社会」にもたらすヒントを探っていきます。

 

「わっ、平衡感覚がなくなって普通には動けないですね。体が落ちていくような感じもして……」と草野絵美さんが体験しているのは、花形槙さんの作品《still human》。まずは、花形さんにどんな作品なのか聞いてみることに。

 

(文:中村志保/写真:西谷玖美)

テクノロジーによって変化する価値観について

花形

今日は《still human》という作品で使っている装置を持ってきました。身体の任意の場所にカメラを装着して、その映像をヘッドマウントディスプレイで見る作品で、目とは異なる視野を体験できるんです。

草野

なんだか普段見ている景色が果たして正しいものなのか疑いたくなるような感覚になって、面白い体験をさせていただきました。

《still human》の装置を装着する草野さん。《still human》(2023、花形槙)は、肉体の任意の場所にカメラを装着し、その映像をヘッドマウントディスプレイを通して見ることで、目を肉体の異なる場所へと移動させる実験。

花形

身体って通常であることが良い状態だと認識されているものですが、この装置を着けると、通常ではない身体に変わってしまうことを意識させられると思います。自分の制作についてのテーマを言葉で表すときに、実は少し前まで「反転」という言葉を使っていたんですが、最近は「捻転」のほうが近いんじゃないかと思うようになったんですよね。例えば「考えが180度変わる」とよく言うけど、それってきれいすぎるなとも思う。現実では正反対になることなんてあまりなくて、いろんなことがもっとカオスに捻れていて、そのほうがリアルじゃないかなって。そういった捻転というものをテクノロジーを通じて表現できないか?というアイデアをもとに、身に付ける装置を作ったりパフォーマンスを制作したりしているんです。

草野

私は写真家として活動した時期もあったり、Satellite Youngというユニットを組んで音楽も作っていたり、インスタレーションを制作することもあったりと、表現の手法はいろいろなのですが、一貫した興味としてはテクノロジーを扱うことによって人間がどう変化していくのかということにあります。

F.I.N.編集部

異なる形ではありますが、テクノロジーによって価値観が変化する社会や人々をテーマに制作されていることがお2人の制作に共通していると思います。そのようなアイデアにつながる原体験はどんなことが挙げられますか?

草野

私は1990年生まれなのですが、インターネットよりもテレビなどのマスメディアが主流だった時代をぎりぎり経験している世代にあるんですよね。幼稚園の頃には、アムラーがいて、キムタクが着ていた服が大流行する現象をテレビで見ていて、そもそも大衆文化というものへの関心が強い。でも今は、国内で培養されたドメスティックなトレンドもなく、大スターというものが不在の時代だと思います。そのようにマスの影響を強く受けた文化が消えていっていることに興味があるんです。圧倒的で確かなものがあった時代へのノスタルジーというか、あれはなんだったんだろう?って。

 

例えば、画像生成AIを使って制作した《Neural Fad》という作品のシリーズでは、マスメディアに影響を受けて育って、現在インターネットとともに存在する自分をモチーフにしながら、知覚できる限界を超えた情報が溢れたときに人間はどんなことを知覚するのか?ということを考えています。

花形

草野さんは高校生のときに写真家として活動を始めて、原宿でストリートスナップを撮っていたそうですが、例えばもし今、1980年代とか90年代の風景を見てみたいと思うなら、絵画として描いたっていいわけですよね。でもどうしてAIで作るのかなと思うと、写真という媒体ならではの、光景を目の当たりにしながらフレームに切り取る行為が持つ身体性というものが、AIで画像を生成するプロセスにある身体性に似ていたりもするのかなと想像しました。

草野

まさに写真を撮ることにすごく近いと思う。AIが生成するまでに、データセットを選んだり細かなファインチューニングすることは機材や照明を選ぶことに似ているし、プロンプトエンジニアリングは、被写体やポーズなど細かいところをディレクションして撮影するのに似ていますね。さらに最終的にいくらでも生成できますが、人間の目を通してキュレーションしていく作業が写真とかなり近く感じます。それと、私は自分1人で作るものにはあまり興味がなくて、例えば音楽活動でも自分で作詞作曲はするけど、実際の音に落とし込んでくれるメンバーやMVを撮影してくれる人などたくさん関わっています。そうやっていつもコラボレーションして総合的に作るということをやってきたし、誰かと一緒に作りたいと思うんです。

AIによって可視化されるもの

F.I.N.編集部

例えば画像生成AIを使って制作した《Neural Fad》シリーズも、誰かと共同で作っているんですか?

草野

AIと一緒に作っている感じですね。他の人間がいないという意味で言えば、このシリーズは初めて1人で作った作品と言えるかもしれないけど、1人で作っている感覚はないんです。街に出てカメラで撮影するような要素もあるし、音楽でエンジニアの人たちと音を詰めていくような要素もあって、AIによる制作は写真と音楽の活動を通して培った感覚が活かせているかもしれません。

《Morphing Memory of Neural Fad》(2023、草野絵美)

花形

草野さんにとって、AIが“誰か”という感覚なのは面白いですね。デジタルとフィジカルの間みたいなことを話すときに『シン・エヴァンゲリオン』の最後のシンジとゲンドウの戦いのシーンを思い出します。全部彼らの記憶の中で行われていることなのに実態を持って現れてきて、バーチャルなもの、現場で起きているもの、そして記憶みたいなものが同じ強度で存在しているような場面なんです。今の世界の状況って、そういう感じになりつつあるんじゃないかなと思っていて。バーチャルでモデリングしたものと現実のものが“両方ある”ことがデフォルトというか。

草野

本当にそうですよね。《Neural Fad》は、初めからアート作品として発表しようと考えたというよりも、Midjourney(ユーザーが打ち込んだテキストをもとにAIが画像を生成するサービス)を初めて触ったことがきっかけになっています。それまでの画像生成AIって、AIのいわゆるデジタルっぽい質感を楽しむ感じだったんですが、Midjourneyでは写真に近いものが出てきてびっくりしたんです。あまり深くは考えずに自分が見たいものをひたすらプロンプト(AIに指示を送り回答を促すこと)したら、各時代のファッションスナップのような画像が出てきて、これは面白いなと。

F.I.N.編集部

具体的にどのようなプロンプトを入れていくんでしょうか?

草野

例えば、「原宿」、「日本の公園の風景」、「80年代の日本」といった言葉を検索するとある程度画像が出てきます。どちらかというとアメリカを踏襲した80年代のアジア系の人といったイメージではありますが。でも例えば「竹の子族」と検索すると、そもそも学習元にあまり存在していないためか画質のいい画像はほとんど出てこない。そこで、「サテンの着物みたいなオールインワンを着ていて、グラムロック風のメイク」というように、竹の子族について言語化するために、今度はChatGPTなどに相談するんです。そのプロセスは会話しているような感じで面白いですよ。

 

私はこのプロセスを楽しむことができましたが、それって、誰もがアクセスできる大規模データの中では、日本の文化的に価値が蔑ろにされる恐れがあるかもしれないという問題点でもあるんですよね。一方で西洋のものであれば極めて実際に近い画像が出てくるけれど、アジアのニッチな文化に関するものは出てこない。また、特に初期のMidjourneyなんかは、アジア系の人物はかなりステレオタイプな顔立ちをしていたり。

花形

でも、学習元となる欧米文化のデータを掻き集めたら竹の子族の像ができるというのは、すごく面白い。実は欧米のデータの中にも竹の子族が潜在しているということですよね。今、話を聞いていて思ったのですが、まだ実現されていない/生成されていない絵や画像というのは、たとえ眼前になくても、プロンプトが打てる時点で既に“ある”と言えるんじゃないかと。ないけどある、というか、まだ証明されていないだけというか。

草野

そうですね。AIによって、誰かの頭の中でしか実在しなかったもの、個人的・文化的記憶、ナラティブなどが、可視化されるようになるかもしれません。もちろん、それを生成する元となるデータ内にも人間の偏見や、データの偏りがあるので、それは引き続き問題として取り上げていくべきですが、アートに多様性をもたらすものになるとは思っています。

ディストピアは架空の未来か?

F.I.N.編集部

デジタルテクノロジーを利用することが当たり前になった今の世界を、お2人はどのように見ていますか?

花形

リアルもバーチャルもどちらもが共存する今、社会システムのすべての起点になっているのは、実は肉体なのかもしれないと思うんですよね。感覚を呼び起こすものとしての、身体。痛いとか、歩くとか、上下左右といった概念も身体が基準にあるわけで。

草野

デジタルやインターネットが今は当たり前にあるものなので、なかったらどうだったんだろうとは思うものの、最近は自分たちが生きている世界がディストピアに向かっている感覚は、例えば10年前より強くなっていると思う。もちろんテクノロジーによって私自身もエンパワーメントされている部分は大きいですが、2010年代前半の手放しでソーシャルメディアで繋がることへの喜びみたいなものは確実に薄れているなと。

 

また、今まで私たちはエンタメやアートを通して架空の未来を想定して「こんなディストピアは怖い」といったネタのぶつけ合いをやっていました。しかし、それが効かないほど現実社会のほうがディストピアになってきている感覚があります。まるで諦めているような怖さもあります。もっと議論すべきことはあるはずなのに。

花形

僕も近い考えを持っています。僕は1995年生まれで、ガラケーを持ったことがなくてスマホから入っているんですが、気づけばSNSやYouTubeを見ていて、逃れられないっていう思いが強い。しかも見ているものを自分で選択していないことが多々あるんですよね。

 

《Uber Existence》という作品は、僕が実際にUber Eatsで配達員をしていた経験が原点になっています。でも、他のバイトをやってもよかったし、フレキシブルで働きやすいという理由はあったものの、絶対にやりたくて選んだバイトではなくて。気づいたら、次に配達しに行く場所も選べないままひたすらアプリに指示されて動いているという感じでした。

 

そう考えると、最近、日常生活の中で主体的に選び取ったものなんてあるのかな……と思うんです。唯一形式的に守られているのが、読みもしない同意書の類だったりするのかもしれないと思うし、そのような“免罪符”がどんどん自動化されていく感じもします。ブラックボックスともいえる超テクノロジーみたいなものをエンジニアが作っていて、僕たちはその中身を知ることはできないし、他の選択肢もない状態で同意書を提示されて承認するみたいな。

《Uber Existence》(2020-2021、花形槙)

身体感覚の重要性やリアルの面白さ

F.I.N.編集部

作品を通じて、表現したい、伝えたいと考えていることを改めてお聞きしたいです。

草野

今すごく混沌としたディストピアな世界になっているし、アルゴリズムに影響されすぎているんじゃないかと日々感じているものの、それを批判するとかディストピア的に描くだけだと物足りない気がするんですよね。描くことで単純にハッとさせられる世界では既にないから。だから私は、制作を通じて何かにプロテストするというよりも、人間の面白さと愚かさといった両義牲みたいなものを淡々と描写しているのかもしれません。私の作品を通して、議論を起こしてもらえたら本望ですね。

花形

芸術作品というのは、この世界にあるだけでプロテスト的だとも思うんです。というのも、この世界のシステムの中で論理的には導き出されないものをあえて存在させていると思うから。だから存在する時点で何かしら反発的になるはずで。ただ、個人的には、批判や抗議をしたいわけではない。すべてのものには両義的なものが含まれていると思うし、極論を言うと、巨大企業が作ったアルゴリズムに支配されていく世界が全部悪いかというと、一概にもそうは言えないような気もするんです。

 

僕がUberEatsのバイトをしていたときも、何も考えずに少しトランスっぽくなる感じや気持ちよさもあって、善悪を判断できない身体感覚みたいなものが僕にとってはめちゃくちゃリアルだった。今こうやって話していて、「確実にここにある、この身体」みたいなものを探求したくて制作しているんだなと改めて思いました。システムに導かれてしまう世界の外側を体験できるものを作りたいと。

F.I.N.編集部

花形さんは自身の身体を使ってパフォーマンスをすることも多いですよね。また、草野さんは《Synthetic Reflections》のようにAIでセルフポートレートの作品も作られています。自身が演者となったことに理由はありますか?

《Synthetic Reflections》(2023、草野絵美)

草野

演者としての自分という側面もあるし、自分も作品の一部という感覚があります。でも、もともとポップスターになりたいとも思っていて(笑)。でも、《Synthetic Reflections》で自分の顔を使ったのは、ファッション誌『WWD JAPAN』の表紙ビジュアル(2023年6月19日号)を依頼していただいたことがきっかけですね。最初は実在しないモデルで作っていたんですが、著作権や肖像権のトラブルを回避する理由もあって、自分の顔を使うことにして。自分の顔をAIに学習させてみたら、どこか似ているのに別人だったり、顔は一緒でも実際の自分の表情とはまったく違ったり、少しバランスが崩れるだけで自分ではなくなって、その歪みがすごく面白かったんですよね。自分自身の“拡張”みたいな感覚もあるし、自分の顔を何百枚も生成していくと、だんだんと単なる“素材”に見えてくるんですよ。セルフポートレイトシリーズは、なぜそれをやっているのか明確な答えはまだ出ていないんですが、アイデンティティの拡張について考える要素は大きくあると思います。

花形

どうして自分がパフォーマンスをするのかというと、僕は表立って顔を出したいという願望は全然ないのですが、自分の身体がこの世界とは違う場所に行く感覚を自分が味わいたいからなんだと思う。身体に対して予想もできないことが起きた瞬間だけはここにいる実感を持てる気がして。だから今のところ僕は振付家になりたいという欲望はないし、自分のために作っているところも大きいかもしれません。

F.I.N.編集部

『F.I.N.』では5年先の未来はどうあるのか? ということをテーマに掲げているのですが、最後に、お2人にとって5年後はどんな世界だと想像するかお聞きしたいです。

花形

今、AIが人間の知能とほぼ変わらない、分野によっては超えてしまったレベルになって、一方で、戦争が現実として起き続けている。いつかはわからないですが、ある点を超えた瞬間に一瞬で世界がなくなるんじゃないかと本当に思うことがあるんです。だから、5年先が今と同じとはまったく思わないし、近いうちにまったく異なるシステムを持った世界になる可能性はあると思っています。

草野

現在、世界各地で資本主義や民主主義の限界が来ていると思うので、テクノロジーを使って、より倫理的なアプローチで、ハイブリッドな仕組みを作る方法はないのかなといつも思います。これまでずっと、自分の子どもや孫が生きる世界はより豊かになるという体験が続いていきましたが、このままだとそれも叶わないではないかと恐れています。もうディストピアになる事は決まり切っているから、と匙を投げずに、これからも、人間性とは何か、倫理観を社会に実装していくにはどうしたらいいか。思考停止せずに議論を続けたいですし、それにまつわる作品を世に出し続けたいです。

花形

資本主義システム自体が個人主義でもあると思うし、最大の利益を追求する経済主体が基本単位として置かれている時点で、協力し合うとか愛を持って他者と関わるといったことがすごくオプショナルな世界になっている気もする。協力する暇があったら自分に投資して、自分がより強くなればいいという風潮もありますよね。全体主義は良くないけど、個人主義も良くない。中心を持たず、かつ個人主義でもない社会というものを想像すると、古来のアジアや日本が持っていた思想や、実は自然な感覚に近いんじゃないかなとも思うので、もっと見直されていくんじゃないかなと思ったりもしています。

草野

次の5年で、人間性を取り戻していくプロセスに入るのではないかと思います。より自然に還る可能性や、土や草に直接触れる。そんなことがさらに重要になってくるのかもしれません。

Profile

草野絵美さん(くさの・えみ)

1990年生まれ。レトロフューチャリズム、若者文化、最新テクノロジーをテーマに創作活動を行う。東京に生まれ、高校時代に原宿でストリート写真家デビュー、〈FITミュージアム〉や〈ヴィクトリア・アンド・アルバート美術館〉で発表する。AIアートを中心に手がけ、〈オークションハウス・クリスティーズ〉、Bright Moments、Unit Londonなど世界中で展示を行う。

 

花形槙さん(はながた・しん)

1995年、東京都生まれ。慶應義塾大学 SFC 卒業、多摩美術大学 修士課程 美術研究科 デザイン専攻 情報デザイン研究領域 在籍。テクノロジカルに加速する資本主義の中で揺らぐ「私」の身体性への関心のもと、肉体と意識、自己と他者、人間と非人間の境界をパフォーマティブに再構築する実践を行う。

【編集後記】

花形さんの作品「still human」を私も実際に装着させていただきました。足の甲にカメラをつけ、ゴーグルでその視界を得た瞬間、かつて感じたことのないくらい概念が混乱しました。「そんなことが起こるはずはない」と何を根拠に信じていたのか?ふとしたきっかけで目に見えないことが現実に定着してしまうかもしれないのに。これだけデジタルで様々なことができるようになっても、実際に五感で湿り気や匂いや感触を味わうことにはときめいてしまうし、またスマホで情報を眺めたりSNSで自分の世界を作ってしまうのでした。子供の頃の自分に今のリアルを伝えたら相当驚くであろう、現実&バーチャルとの関係。もはや5年先すら想像がつかない、と改めて思います。

(未来定番研究所 内野)

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