生成AIをエンタメとして楽しんだり、真偽が曖昧なフェイクニュースを慎重に見極めたり。「真実ではない」「現実ではない」ことを理解したり、うまく付き合ったりしながら、ものごとを受け止める姿勢が問われている気がします。今の時代において、目利きたちは何を信じ、何を疑っているのか。また、世の中で支持されるものごとは、真偽に対してどんな姿勢を示しているのでしょうか。今回の特集では、5年先の未来を生きていくための、信じること、疑うことの価値観を探っていきます。
ジャズピアニストにして数学研究者、STEAM(*)教育者でもある中島さち子さん。2025年の大阪・関西万博では、テーマ事業プロデューサーも務めています。そんな中島さんが「信じる」のは、「人間は誰しも創造性を備えている」ということ。中島さんが「創造性」を信じる理由とは。また、私たちのなかにある創造性は、未来に何をもたらすことができるのでしょうか。中島さんの考えを伺いました。
*STEAM:科学、技術、工学、芸術、数学などを横断する、創造的で実践的な学び方。
(文:片桐絵都/イラスト:いしだいおり)
中島さち子さん(なかじま・さちこ)
1979年大阪府生まれ。東京大学にて数学を専攻しつつジャズに出会い、音楽(ピアノ・作曲)の道も歩み始める。音楽活動・数学研究と並行して 2017年に〈株式会社steAm〉、2022年に〈一般社団法人steAm BAND〉を立ち上げ、多様な「好き」を基軸にしたSTEAM教育を推進。 国や自治体の教育変革に関わる委員会や実証事業に多数携わる。資生堂のグローバルラグジュアリーブランド〈クレ・ド・ポー ボーテ〉による、STEAM分野の教育に貢献した女性を表彰する「パワー・オブ・ラディアンス・アワード」を2025年に受賞(本国初)。
「無数の正解がある」ことを心に留めておく
F.I.N.編集部
「確かな答えがない」といわれる時代ですが、中島さんはどのように向き合っていますか?
中島さん
逆にいえば「無数の正解がある」ということですよね。私はそれを常に心に留めておくようにしています。最近よく取りあげられるハラスメントの問題も、この理解が不足していることが要因の1つではないでしょうか。自分の信じている正解が、相手にとっての正解とは少し違っていたということ。自分の立ち位置からは見えない世界があることを、まずは知る必要があると思います。
F.I.N.編集部
無数の正解があることを知るためには、何から始めればいいでしょうか?
中島さん
自分とは異質なものにできるだけ多く触れるといいと思います。私の原体験は高校生の時に出場した国際数学オリンピック。インドとアルゼンチンに行き、日本とは違う街の匂いやパステルブルーの空に衝撃を受けました。道端では同年代の子供が物乞いをしていて、銃を携えた大人が平然と歩いている。話す言葉も生き方もまったく異なるのに、そこにいる人々は微笑みかけるとニコッと返してくれるんです。さらに数学オリンピックに参加している子たちから、日本の教育や政治について「どう思う?」とたくさん質問を受けました。でも、なぜか思うように答えられない。自分では日本や世界のことを知っているつもりでいたけれど、実は全然知らなかったんだと気づきました。
F.I.N.編集部
自分の信じている正解が、正解とは限らないことがわかったのですね。
中島さん
それがより鮮明になったのが大学生の時です。数学オリンピックのお手伝いでルーマニアに行き、さまざまな国の人と仲良くなって、最終日にプレゼント交換をしました。そこでセルビア人の男性にもらった封筒を開けてみると、血だらけの子供の写真が入っていたんです。「ユーゴスラビア紛争で多くの子供がアメリカの攻撃の犠牲になったのに、CNNでは一切報じないんだ」と。そして、私はかつてのセルビア大統領・ミロシェヴィッチを独裁者と断定していたけれど、目の前にいる優しい彼は「僕たちにはそうは見えなかった」と言うんです。メディアや本は必ずしも唯一の正解とは限らない。世界にはいろんなものの見方がある。自分が素直にただ信じていたものがガラガラと崩れていきました。
揺らいでいるからこそ、価値観が変わるチャンス
F.I.N.編集部
近年ではますます「正しい」の概念が曖昧になっているように思います。
中島さん
危うい時代ですよね。強い意見が出てくると一気に傾くこともありますから。ただ、何をもって正しいとするかが揺らいでいるからこそ、古い価値観と新しい価値観が入れ替わるチャンスでもあるんだと思います。疑心暗鬼になるのではなく、「たくさんの答えがあって面白い」と前向きに捉えればいいのではないでしょうか。
F.I.N.編集部
揺らぎを前向きに捉える。素敵な考え方ですね。
中島さん
これはLGBTQ+などの問題にもいえることで、多様性を受け入れられないのは、多様性の面白さを知らないから。未知のものに出会うのって、本来は楽しいことのはずなんです。でも「多様性を持ちなさい」と命令されると途端に息苦しくなる。楽しみながら多様性を知ることができたら、もっとポジティブに感覚が開いていくのではないかと思います。
F.I.N.編集部
ただ、多様性の存在を理解しているつもりでも、イライラやモヤモヤを感じてしまうことはありそうです。
中島さん
そうですよね。お互いの相性などもあるので、すべての正解を受け入れることは難しいかもしれません。だからこそ、どんな正解があるのかを知り続けようと努力することが大切なんだと思います。あとはメディアの力で外堀から埋めていくのも1つの手かもしれませんね。
F.I.N.編集部
メディアで外堀を埋める、とは?
中島さん
英語のことわざに「Seeing is believing」という表現があります。日本でいう「百聞は一見に如かず」ですね。つまり、マイノリティーの話を何度も聞くより、その姿を一度見た方が理解できるということ。著名な人だけをフィーチャーするのではなく、多様な人を広く取りあげて、いろんな角度で見られる状況をメディアが意図的につくる。マイノリティーがマイノリティーでなくなる瞬間をメディアの力で生み出すんです。
F.I.N.編集部
それだけ多様な人が前に出て発言できるようになれば、情報を受け取る私たちの視野も広がりますね。
中島さん
1つの正解を求める教育を受けてきた日本人は、正しいことを言おうとしすぎてしまいます。また自分の意見を聞かれることにも慣れていないため、対話が苦手です。今後はそこに一歩踏み込んでいく必要がありますよね。大切なのは「問いを立てる」こと。たくさんの意見に触れて、対話を重ね、自分とは違う世界を知る。そうすれば、物事をただ信じたり疑ったりするのではなく、自ら問いを立て、新たな価値を生み出せるようになると思います。
しかしながら、問いを立て続けるのは難しいもの。例えば「1足す1の『足す』とは何か?」なんて、忙しい大人はずっと考えていられません。でもそれをグズグズ考えるのが数学の面白さだったりもするわけです。だから、ふとした時に何でもないことをするのが大切だと思います。メモ紙に意味もなく絵を描いてみたり、コーヒーを飲みながらひたすら物思いにふけったり。一見無駄に思える遊びのような時間が、無意識のうちに問いを生み出してくれるはずです。
自分を信じ、眠っている創造性を引き出す
F.I.N.編集部
中島さんは2025年の大阪・関西万博のシグネチャーパビリオン「いのちの遊び場 クラゲ館」をプロデュースされています。プロジェクトを進めるうえでも、問いを立てる力は役立ちましたか?
中島さん
そうですね。既存のスキームにはめてスケジュール通りに進行することも必要ですが、それだけだとやっぱり新しい価値は生まれないんですよね。従来のやり方を信じすぎずに、問いを立てて挑戦する。そのための余白を持っておくことが大切だと感じました。もう1つ、「Can」ではなく「How」で考えることも重要です。「Can I do it?」と考えると「できないかも」と不安になるけれど、「How can I do it?」「How can we do it?」と考えると「できそう」と思える。プロジェクトに決断はつきものですが、やる・やらないのジャッジではなく、どうやったらできるかを考えると、希望が見えてくる場合が多いと思います。
F.I.N.編集部
そのほか、中島さんが普段の活動で大切にされていることはありますか?
中島さん
創造性を発揮することです。一方的に正解を正解として受け取る知識は、これからはあまり意味を成さなくなるでしょう。今後求められるのは「自分で創る」「みんなで創る」こと。創り手に回った瞬間に、知の偉大さがはっきりわかると思います。
F.I.N.編集部
中島さんは「創造性の民主化」というキーワードを掲げて活動されていますが、具体的にはどのようなことを意味するのでしょうか?
中島さん
「創造性」と聞くと特別なものに思いがちですが、ここでの創造性は絵を描いたり音楽を作るようなこととは少し違って、いうなれば「その人なりの生きる力」。だから誰しもが創造性を持っているし、本質的には皆が画家であり音楽家なんです。すべての人がそれぞれの創造性を発揮できるようになれば、より良い社会が実現できると私は考えています。
F.I.N.編集部
とはいえ、「自分には創造性がない」と考える人も少なくないのではないでしょうか?
中島さん
そういう人にはまず、自分を認めることから始めてほしいですね。でないと、他人を受け入れる余裕も生まれません。皆ありのままで美しいし、凸凹があるから面白い。もし「真面目すぎるのが欠点だ」と思うのなら、「だから魅力的でもあるんだ」と転換すればいいんです。それぞれが自分のペースでゆっくり進んで、ダメなところも含めて全部認めてあげる。そうすることで、自分のなかに眠っている創造性を引き出せると思います。
F.I.N.編集部
ありのままの自分を信じるということですね。
中島さん
同時に、人間はジェネラティブで日々変化していく生き物でもあります。「さっきまで納豆の気分だったのに、急にピザが食べたくなった」みたいなことってあるじゃないですか(笑)。だからこそ今の自分を信じすぎずに、時には普段やらないことをやってみるのも大切。そうした体験を積み重ねていくと、創造性はさらに広がっていくと思います。
F.I.N.編集部
これから先、自分なりの答えを見出すために心がけるべきことは何だと思いますか?
中島さん
自分のなかに客観性を持つこと。できるだけ多角的な情報を得るようにして、どれも一概には信じない。もちろんデータも重要ですが、どんな集団からいつどのように集めたかによって結果は変わるため、多少なりともバイアスがかかります。1つの統計を鵜呑みにするのは「AIが言うんだから間違いない」と言っているのと同じ。人の気持ちをおもんぱかり、多様性を許容し、データの信頼度を的確に判断する。文系と理系の両面から本質を捉える思考が、これからの未来を創る力になると思います。
【編集後記】
情報環境が多様化しても、自分の身は1つ。予測不能で不確実なことが多い今、知ること、考えられることには限りがあるなかで、何を信じ、疑うかを判断することの難しさを感じていました。しかし、中島さんのお話を伺い、目から鱗が落ちるようでした。自分1人で気づけたり、知ることには限界がありますが、自分にはない価値観や経験を持つ人との出会いによって視野が拓けることに限りはない気がします。中島さんの多様性を受け入れる姿勢や、新しく楽しい価値を提案され続けている姿に、今の時代を前向きに捉える勇気をいただきました。何を信じ、疑うか、いまだに迷うことが多いですが、その過程を楽しみながら日々の生活や仕事に取り組んでいきたいです。
(未来定番研究所 高林)