2023.11.13

取捨選択

目利きに聞く「取捨選択観」。インタビュアー&ライターの尹雄大さん。

情報やものがあふれる現代。膨大な情報やものが毎日のように目に入り、私たちは常に「正しい選択」を迫られます。その一方で、無駄な情報や無意味なものの中に新しい発見があったりと、「正しさ」だけでは到底語れない尊さも秘めているようにも感じます。では、その判断軸は、どこに置くべきなのでしょうか。

 

F.I.N.では、1000人以上に取材し、対話をしているインタビュアー&ライターの尹雄大さんに話を聞きました。さまざまな人たちとの対話は、他者の価値観に流されてしまうこともありそうですが、その中でどのように自分の価値観を保ち、他者に向き合っているのか。尹さんと対話をしながら、コミュニケーションにおける「信じる力」「疑う力」を紐解き、「取捨選択」の拠り所を探っていきます。

 

(文:花沢亜衣/写真:西谷玖美)

Profile

尹 雄大さん(ユン・ウンデ)

インタビュアー、作家。1970年、神戸市生まれ。テレビ制作会社勤務を経てライターになる。主な著書に『つながり過ぎないでいい』『さよなら、男社会』(ともに亜紀書房)、『異聞風土記』(晶文社)、『体の知性を取り戻す』(講談社現代新書)など。身体や言葉の関わりに興味を持っており、その一環としてインタビューセッションを行なっている。

公式サイト:https://nonsavoir.com/

自分が何を感じ、何を思っているのかを知ることから取捨選択は始まる

F.I.N.編集部

最近、いろいろな価値観や情報に触れるため、自分にとって必要な情報とそうでない情報の取捨選択に悩んでしまうことが多いです。日々の生活のなかで、取捨選択をどのように判断していますか?

尹さん

今という時代は、さまざまなことに対して圧倒的に受身にならざるを得ない環境だと思います。たとえば電車に乗ったらデジタルサイネージに囲まれ、遮断しようと思ってスマートフォンを見てもやっぱり情報が入ってくる。そうした情報環境における選択は、より刺激があるものを選ぶことでしかない。そんな状況にあるのだと思います。

取捨選択は、自分が何を感じ、何を思っているのかを知ることから始まると思います。そのためには、まず体験して感じるということが、取捨選択を考える時の原点になるのではないでしょうか。

F.I.N.編集部

自分が何を感じ、何を思うのかを知るのも簡単なことではないように思います。尹さんはどのようにして自分と向き合っていますか?

尹さん

私は長らく武術を学んでいるのですが、稽古をしていると、「イメージの世界にはいられない」ということを実感します。想像の中では、どれだけ上手に動けても、実際には一切通用しない。想定や理想は捨て、自分ができることは何なのかを省みていくしかありません。

思考は、身体の動きに比べてスピードが早いので、「これをしよう」といった先々のことを考えることができます。しかし、身体はそうした時間の進み方とは異なるから、頭の方はイライラするわけです。情報にさらされると思考だけがどんどん先に進み、そのうちに「現実というものは、コントロール不可能なはずがない」と思ってしまう。

私の場合は、武術を通して経験する思い通りにならないことが、自分の身体と思考のタイムラインを引き戻してくれるような気がしています。そうして「できないこと」が明らかになることで自分というものを明確にしてくれます。

わからないことは時間をかけて対話するしかない

F.I.N.編集部

できないことを受け入れるのはなぜ大事なのでしょうか?

尹さん

「できないこと」をネガティブに捉えてしまいがちだと思います。「できないこと」に出会った時、「今、自分ができない」という事実を見つめないまま、解決策を探すというのはよくあることです。

例えば、料理ができない人が「うまくなりたい」と思っても、いきなりうまく作れるわけがない。でも、「まずくても作る」ことはできるし、そこから見えるものがある。できないことは恥ずかしいと思うことも多いですが、できないことにこそ価値や可能性があるはず。

だから、自分自身が実際に体験してみて、どう感じるかが大事。ノウハウは自分の中で作られるものであって、他人の成功体験を流用するというのは、本来できないことなんです。

F.I.N.編集部

尹さんがそう考えるようになった背景はあるのでしょうか?

尹さん

僕は運動神経も悪いし、非常にぎこちない。子どもの頃はぎこちないことはダメなことだと思っていましたが、ダメだと思ったところで直りはしない。そこで「ともかくそうなっている」という自分の「設定」に注目してみました。まず事実を認めようとしたわけです。

そうすると、自分の中にあまりに不器用すぎて、「共感できない人格」がいることに気づきました。他者だけでなく、自分の考えにも納得できない。そんな状態では、自分が何を感じているのか知ることができません。そこで僕は、自分と対話することを選んだんです。

他者とのコミュニケーションにおいても、「そうそう、わかる!わかる!」と共感が使えない場合は、対話を重ねていくしかないですよね。それは自分自身のあり方においても当てはまることだと思います。

F.I.N.編集部

共感できない相手と対話する時に大切なことはなんですか?

尹さん

時間をかけることですね。自分の中のもう一つの人格にしろ、わかりあえない他者にしろ、やはり時間をかける以外の術はないと思います。現代は滑らかにしゃべるのが良い、聞き上手が良い、共感が大事、結論からわかりやすく……というようなことが強調されています。だけど、自分が本当に大切に思っていることや考えていることを話そうとすれば、そうそう簡潔に、滑らかには話せない。思いの丈を延べるには、時間をかけて話すしかない。

言い淀んだって、言葉に詰まったって良いじゃないですか。それが現時点でのその人の世界の捉え方ですから。

私はインタビューセッションと言って、一般の方と対話をする時間を設けています。強烈な自己否定がデフォルトになっているような方も時折来られます。自己否定をし続けてるということは、常に自分のことを否定する他者としての自分がいるということ。それに従うか抗うことはしてきたけれど、「どうして?」と尋ねたことは案外ないし、また否定している側もなぜそうするかを聞かれたことがない。もしかしたら、その人も困っているかもしれない。ずっと否定的なことを言い続けるのもしんどいものです。互いの対話が必要で、そう難しいことでもありません。

困ってる人が目の前にいたら、「どうしたの?」と声をかけるように、自分に尋ねれば良い。説教でも理解し合うための説得でもなく、相手の気持ちをシンプルに尋ねるために「どうしたの?」と対話を始めれば良いんです。

選択する前に、一旦立ち止まってみる

F.I.N.編集部

今回の記事は「取捨選択」がテーマなのですが、何を選び、何を捨てるのかの判断に迷うことがあります。自分の取捨選択に自信が持てるようになるにはどうしたら良いですか?

尹さん

そもそも選ぶ、選ばないの価値基準そのものを一度括弧の中に入れてみることじゃないでしょうか。そして、「選ばないといけない」という強迫観念がどこから来ているのかを考える。「なぜ選ばないといけないの?」と、自分に問いかけた時に、「そういえば何でだっけ?」となるかもしれないし、「いやいや、ちゃんとした社会人として選ばないといけない」とその焦りを拭おうとする気持ちが出てくるかもしれない。

でも、「選ばないといけない」ことに対して違和感があるから、自信が持てなかったり、焦りが生まれたりすると思うんです。自分の中で意見がズレているということですよね。ズレた状態で何かを選んだとしても、納得できないんじゃないのかなと思います。

F.I.N.編集部

社会のルールや周りの空気など、自分の感情とは別のところにある判断基準を意識して取捨選択をしなければならないときもあると思うのですが、そういうときは何を基準に選択しますか?

尹さん

社会といっても別にひとつだけじゃなくて、実はレイヤーがたくさんあるわけです。自分はどの社会に合わせたいのか。自分がどの社会に属していて、自分にフィットしているのはどのルールなのか、どの社会を望むのか、あるいはどの社会で生きたいのかによって、このルールは守った方が良いなとか、これは無視して良いなというのが出てくると思うんですよ。でも、それもやっぱり自分の主体性がないと選べないと思うんですよね。

F.I.N.編集部

取捨選択は選ぶだけでなく、手放すこともあると思うのですが、尹さんが意識的に手放していることってありますか?

尹さん

意識するという言葉は不思議ですよね。本来、意識は「する」ものではなく「ある」ものだったはずなのですが、いつの間にか意識と言えば、「しなければならない」という状態に自分を追いやる装置みたいになっています。そうして自分自身を追い詰めている。やはりすべてのことをコントロールできるはずだという幻想が強力にあって、互いにそれを信じているからあらゆることに意識的になることがいいんだという考えになるんでしょう。

何かを意識的に手放しているかという質問に答えるとすると、意識というワードを使って暮らす習慣から離れるようにしています。「なんかいやだな」「気が向いたからやろう」とか、その時に感じていることに重きを置いて暮らしています。

F.I.N.編集部

遠く離れた場所の情報も手軽に届く時代です。自分が体験できないことや自分に置き換えられないようなものごとに対しても、何かを選択しなければならないことがあります。そういう時は何を意識して選択していますか?

尹さん

やはり思いを巡らして、考え続けるしかないと思います。50数年生きてきたなかで形成された価値観で見たら、一見悪いことをしているように見えたとしても、その背景にはこちらが知らないだけで何か理由があるかもしれない。今見えている現実はあくまでも結果であって原因じゃないわけですから。

情報に触れて脊髄反射で良し悪しを判断してしまうこともあると思います。それらは多くの場合、2次元の文字情報です。よく考えてほしいのですが、私たちは3次元以上の存在ですよね。2次元の情報だけで良し悪しを決めるというのは、低い次元に落として判断していることになります。私たちは3次元以上の膨らみを持っている存在なんだと立ち返った時に、目にしている情報に対して「これは現実の一部ではあるけどすべてではない」と、ちょっと距離を取れると思うんですよね。

人はみんないろんな言葉にならない思いを抱えて生きてるわけです。感覚や思いは情報にならない。そこに価値があるわけだし、それが生きていることを支えているわけです。そうやって私たちは生きているんだという事実に思いを馳せ、考えていくしかないんだと思います。

【編集後記】

尹さんにお話を伺ってから、常に自分の中に出自不明の焦りのような感情があることに気が付きハッとしました。

例えば壁にぶつかった時、「恥ずかしい」・「苦しい」そんな感情を抱く状況からいち早く逃れるべく、すぐさまネットで検索、もしくは本を読んでノウハウなどの解を求め乗り越えようとする。しかしその壁がどんな壁であるか、焦りの感情はどこから来ているのか、じっくり見つめて考えることはしてこなかったように思います。何を選び、何を捨てるかの前に、まずはその時の事実と感情にじっくり向き合い考える。そうすることで徐々に自分の選択に納得が出来るようになるのだと思いました。

(未来定番研究所 小林)