未来の住まい定番を発見!5年先のインテリアカタログ。<全3回>
2023.09.14
勝ち負けの今
スポーツや賞レースの勝敗につい夢中になってしまう一方で、順位付けが廃止されたり、「逃げる」という選択肢も肯定されるようになったりと、現在は「勝ち負け」だけにこだわらない世の中となりました。そこで9月のF.I.N.では、こうした社会について教育やスポーツ、エンタメなどさまざまな角度から考えます。
今回は、「サブカルチャーと社会・政治を同時に語る」テキストユニット・TVODの二人に、近年のトレンドやカルチャーをもとに、「勝ち負け」の今について考察していただきました。
(構成:船橋麻貴/イラスト:しまだたかひろ)
TVOD
ライター/早春書店店主のコメカ(左)とライターのパンス(右)による、1984年生まれのテキストユニット。「サブカルチャーと社会・政治を同時に語る」活動を、様々な媒体にて展開している。
現代は、むしろ競争が激しくなっている?
――近年の社会では、勝敗に夢中になるものの、「競わない」という価値観も一般化されているように感じます。TVODはこうした社会について、どうお考えですか?
コメカ
僕たちとしては、「競わない」という価値観が、競争社会からの脱出可能性を持つような形で広がりを見せているとは、正直思っていません。むしろ、「競わない」という価値観すら、競争社会におけるひとつの手札・商品としてしか機能しないのが現在だと考えています。
パンス
最初はスケールのデカい話から始めちゃいます。そもそも近代は、競争の時代でもあるわけですね。誰もが自由に競争して、お金を儲けたり人気を得たりする可能性が広がっていく時代でした。ただし自由なまま野放しにしちゃうと、競争からこぼれ落ちる人もいて、どんどん格差が生まれる。それをなくすために、社会保障などで調整する試みも行われました。基本的にその二つがせめぎ合いながら現在に至っていると考えるのが良いでしょう。それは「自由」と「平等」のせめぎ合いと言ってもいいです。この二つはなんとなくポジティブなものとしてセットのように考えられていますが、実は対立した概念です。
コメカ
近年においても、インターネット以降の情報環境の変化のなかで、個人の選択や行動における自由化はたしかに進行しました。ただ、そのことは同時に、社会における競争を激化させ続けてもいます。今回は我々なりに、そういう社会的現状を、サブカルチャー等を通して考えてみたいと思います。
ドロップアウトという在り方
パンス
ここ十数年を考えると、お金を使わない生き方やスローライフ、ミニマリストといった概念が出てきては結構評判になるけど、結局はトレンドとして少しの間話題になるだけ。つまり、「競わなくていい」という概念や言葉自体が、市場の中で商品になっています。
コメカ
そうだね。あと「競わない」ということで言うと、これはカウンターカルチャーやサブカルチャーにも深く関わってくる論点だけど、かつてはドロップアウトという在り方にある種の希望が託されていたようなところがあった。競争社会・資本主義社会の前線から降りるという形での、オルタナティブな生き方の模索としてのドロップアウトというかね。
例えば、いまそれこそ市場のなかでレトロ愛好的な商品価値を付与されるようになった「純喫茶」というのは、1970年代に脱サラ……ある種のドロップアウトを選んだ人たちによって、始められたお店も多かったわけだよね。その選択に、それまでの高度経済成長期の日本人の、「モーレツ」な世界観とは異なる生き方を求めようとした人も、少なくなかったと思う。しかし、今現在そういうかつてのような形でのドロップアウトが成立するかというと、難しいよね。前線から降りようとしても、市場やコミュニケーション・ネットワークが生活世界全面を徹底的に覆い尽くしているわけで、そこから脱出することは不可能に近い。大資本から離れて自律的に個人店をやろうとしても、それこそウェブサービスやSNS、アテンション・エコノミー的なものから離脱して営業していくことは、ものすごく難しいことになってしまっている。
パンス
今は巡り巡ってレトロということで若者も純喫茶に訪れるようになり、「映える」写真が撮れるスポットはインターネットで評判になるようになりました。しかし、街の中には「映えない」純喫茶も結構ありますよね。おじさんたちの憩いの場としてだけ機能しているような。ネット上の競争に巻き込まれたら、そんな場所は淘汰されてしまうかも。
コメカ
市場とコミュニケーション・ネットワークが全面化していく状況というのは、もちろん悪いことばかりじゃない。それによって孤立から救われる存在も沢山いるわけだから。ただ、ネットワークからドロップアウトして自立を模索するような在り方・商いというのは、こうした流れのなかではどうしても成立し難くなっていく。でも、ネットワークにひたすら過剰適応するのではなく、なんとか別のやり方・新しいやり方を考え続けることはやっぱり必要だと思うんだよね。どうにかして持たざる側の方で主導権を握り直すやり方というか。そういう方法を、さまざまな人が模索しているのが現状だと思うんだけど。
パンス
歴史上、完全に社会から隔絶された生活を送るってのは結構試行錯誤されてました。「ユートピア」を求める志向ですね。それこそ20世紀には、資本主義っぽい世界を脱したコミューンと呼ばれるような空間がたくさん現れ、実験が行われていましたが、これを継続するのはとても大変。だからこそ、本気でやっている人たちはすごいと尊敬してしまうけど。
コメカ
現状の社会ネットワークの内側で、商品としての「競わない」価値観をただ消費していても、正直言ってそれは消費者としての振る舞い以上のものにはならないのではないでしょうか。それこそ「降りる」=現代におけるドロップアウト(の、ようなもの)の可能性はどのようにあり得るのか、ぐらいのことを、真剣に考えていかなければいけないんじゃないかと思います。
お笑い賞レースと、傷つけないお笑い
コメカ
日本のポップカルチャーのなかでも、お笑いには特に強く競争的な価値観が顕れているところがありますね。『M-1グランプリ』以降の、各賞レースの結果が芸人キャリアの成功条件になってしまっているところも含め。
パンス
それには、お笑いを見る側の社会的意識や倫理性が関係しているよね。
コメカ
お笑いというのは、基本的には共同体に奉仕するものだと思うんですよ。芸人は、笑いによってその共同体のガス抜きをしてリフレッシュさせるトリックスターとして存在している。だから世間に対して「破戒」的であっても、共同体の「破壊」者ではないんだよね。演芸によって共同体を補完する存在として、芸人は生業を成立させている。そういう存在としての芸人に、畏怖を覚えるところがぼくにはありますね。
パンス
閉塞的な世の中を共同体の中で生き抜くための一つに、お笑いがある、と。
コメカ
そうそう。芸人たちは、どんな状況でもその時代の空気を上手く読み、共同体に対する最適解を探りながら生き延びていく。それこそが「芸」であるわけで。そして如何に上手くその最適解を見つけ出すかの市場競争が、これもかつての時代よりも激化・高速化しているわけですけども。例えば今年話題になった、結成16年以上の芸人が競う賞レース『THE SECOND』も、くすぶっている中堅にチャンスを、という意味では一元的な「勝ち負け」とは違う価値観を提示した企画にも見えるけど、実質的には市場のバリエーションを広げ、競争の機会や在り方を更に拡大しているとも言えるわけです。
パンス
一時期流行した、ぺこぱを代表とする傷つけない笑いも、時代に即していた笑いだったわけだよね。
コメカ
そうだね。社会状況のなかでどのような角度でボケてツッコむか、という判断において、あの時期は「傷つけない」という構図の笑いが効果的に観客をくすぐることができた、ということだと思う。実際、別にお笑いが社会に先行して「傷つけない」思想を提示していたわけじゃないからね。そういう世間の空気の変化を上手く読み、観客が今どういうネタなら気持ちよく笑えるかを察知できた芸人が、結果を出すことができるんだと思う。
パンス
時代に受けるかどうかみたいな話だよね。そういう意味で、世間とか社会をちゃんと敏感に感知してるけど、倫理的なメッセージやテーマ性みたいなものを持ってやっているわけではなかった。そこが重要なのかもしれない。
コメカ
で、現代ではトレンドや流行がどんどん変化していく上に複雑に多層化しているし、共同体の在り方自体も目まぐるしく変わっていくわけじゃないですか。そういう時代の芸人たちというのは、最も過酷でエクストリームな競争システムを、ものすごい勢いで泳ぎ続けている人々だとも言える。だって実際、いまどれだけの人が「傷つけない笑い」というテーマ設定を憶えているかというと……。
パンス
結構停滞しちゃったね。
コメカ
ポップカルチャーというのは次から次へと使い捨てられていく消費物であるわけですよね。そしてたしかにポップカルチャーにおいて表現されたものが、社会における価値観を変化させ得る可能性はある。ただ、それが消費文化である以上、そこで表現されたメッセージや倫理観そのものが、次から次へと食い散らかされていく可能性もそこには同時にある。「傷つけない」価値観や「競わない」価値観が使い捨てられていく状況にも繋がりかねないわけですよね。それらは「使い捨てる」という価値観とは正反対のものであるはずなのに。そういう構図そのものに、もうちょっと危機感を持った方がいいように感じています。
サバイバル(=競争)する昨今の人気漫画
コメカ
『鬼滅の刃』とか『チェンソーマン』みたいな近年のヒット漫画でも、基本的に非常に過酷な生存競争が設定されていますよね。この二作でも、ドロップアウトしたアウトローが自由を求めるような姿ではなく、とにかく何が何でもシステム内部でサバイブし生き延びなければならないキャラクターたちの姿が描かれています。自由というのは、もはやある種極端に誇張された形でしか描かれなくなりつつあるというか……。例えば異世界転生ものみたいな作品は、根強く人気がありますね。こういう設定そのものは、古典的なファンタジーの定石ではあるわけですけど。
パンス
いわゆる「なろう系」というジャンルね。これはサラリーマンが主人公のパターンが多いのが、ちょっと面白いなと思っていて。だいたい仕事に疲れたIT系の社員が事故にあって、目が覚めたら転生していてどこかの騎士になっているみたいな(笑)。無双的なチート能力を発揮して、ただただ楽しく勝ち続けるパターンがすごく増えてるんだよね。そういうチート能力のように、異常なスキルを使って勝ちに行くのも最近割と定着したなと思っているんだけど、その辺はどう?
コメカ
うん、もう長いこと、そういうタイプの作品が支持されているよね。なんというか、現代における成長譚の成立の難しさについて考えてしまうというか……。異世界転生にしても、転生先での経験で成長し、現世に帰還してくるという構造だったら、いわゆる「行きて帰りし物語」、通過儀礼の構造になるわけじゃないですか。でも、転生先でただチートで自由な生活を謳歌して現世に帰ってくることのない物語では、読者がそこに自分の現実の人生における努力や成長のモデルケースを読み込みことはできない。ただそもそも今の社会自体が、多くの人間がひたすら過酷な生存競争に晒され続ける、殺伐としたものになっているわけで。そういう社会を生きるなかで「行きて帰りし物語」なんて読みたくない、そもそもこの現実に帰還したくない、という消費者がいることは、まあ自然なことではある。
通過儀礼を経験して至るべき「大人」の姿は上手くイメージできず、ただひたすら競争の中を走り続けるしかない。そういうキツい社会を生きるための、サプリメントというかモルヒネみたいなものとして、広義の「なろう系」的な作品が消費されているところはやっぱりあるよね。
パンス
なるほど。
コメカ
近年の漫画だと、僕は『ちいかわ』がすごく好きなんですよ。絵柄だけ見たらかわいらしいんだけど、この作品の世界って、ものすごく資本主義的なのね(笑)。労働や搾取、支配の構図が、劇中にガッチリと成立している(笑)。ちいかわたち=「なんかちいさくてかわいいやつ」らは、鎧さんたちの管理の下で一生懸命労働しながら日々を過ごしている。ただ、ちいかわたちは何かのきっかけで、キメラのような怪物に変異してしまう可能性を持っていることが示唆されている。つまり『ちいかわ』の世界でも、成長し成熟することの不可能性、「大人」のイメージの不成立が結果的に描かれてしまっている。「なんかちいさくてかわいいやつ」から「大人」になることができず、「ちいさくてかわいい」ことをやめることは、怪物のようになること=社会から追放されることにしか結びつかない。ちいかわたち自身は成長しようと熱心に資格の勉強をしたりするので、そこがとても胸が詰まる構図になっているんですが……。無限に続く労働世界(しかも、ちいかわたちは結構ハードな労働システムを生きている)を、「なんかちいさくてかわいいやつ」として生き続けるしかない。ただただ荒涼とした現実が描写されていて、この外部性の無さが、読者にもある種の現代的なリアリティを感じさせるんじゃないでしょうか。
リアリティショー番組の流行と、MCバトルの台頭
パンス
テレビや配信系メディアでのリアリティショー番組が最たる例だけど、「勝ち負け」をエンタメとして観て消化するという感覚もしばらく根付いているよね。僕はヒップホップが好きなんだけど、ここ10年くらいはその一要素であるMCバトルが日本では流行していて。本来のヒップホップの魅力はそこが主ではないんだけど。ってこれもよく言われる話ではあるんだけど、なぜこんなに流行るのかは興味深い。とりあえず、みんな他の人が戦っている、わかりやすく衝突しているのを見るのが好きだという。
コメカ
ヒップホップの本質とはちょっと違う部分が、日本では注目されているということなのかな。
パンス
そう。お笑いと比較すると、お笑いは大きなマーケットになっていてビジネスとして成立している。ヒップホップも欧米ではそうだと思うんだけど、日本ではどうか。少し前に話題になったフリースタイルのプロリーグ化を掲げる『FSL トライアウト』って番組がありました。予告編が出たときにラップというよりそこで起きたトラブルなんかを映し出してて、ほとんど「ガチンコファイトクラブ」みたいな状態で驚いたんだけど、実際見たら「口喧嘩バトル」っていうのをやっててまた驚いた。競争もそうだし、そこからルール的なものを逸脱した騒乱状態みたいなものを見て楽しむ、みたいな感覚も根強く存在するよね……。
コメカ
なるほどね。
パンス
世界観がアマチュアの格闘技大会『BREAKING DOWN』に近づいてる。ゴチャゴチャしたところにあるカタルシスを楽しんでいるというか、ヤンキー漫画の延長線上にあると言えばそうなんだけど。
コメカ
さっき成長譚について話したけど、「大人になる」という構図が破綻してしまっている現状では、とにかく競争を制圧して勝者になる、ぐらいに成熟のモデルが単純化されがちになっているところは世間の中にあるのかもしれない。
パンス
「勝ち」方法が『ドラゴンボール』の敵みたいにインフレを起こしているというか。
コメカ
だからやっぱり今あるのは、「競わない」どころか、すべてが「勝ち負け」の問題に短絡化されるような強烈な状況なんじゃないかなあ。しかし繰り返しになるけど、なにか「勝ち負け」とは違う基準での生き方、自分なりに自立したり、他者とともに助け合って生きていくようなビジョンが人間には言うまでもなく必要なわけで、そのためのヒントを探していきたいですね。
パンス
わかりやすく言うと現代は、平等で安全な世界を求める人、自由だけど殺伐とした生き馬の目を抜かれるような世界を楽しめる人、この2つに二極化していると思う。SNSだとそれぞれが別個に盛り上がっていて、ときに過激化しているような状態になってるけど、相互の交通があまり見られないのが不思議。とりあえず個人的にはどっちにもそれなりに理解を示しつつ、極端な方向に向かうのはイヤだし、巻き込まれたくない。でも実は巻き込まれないのって割と簡単で、ネットと距離を置くだけでよかったりもする。インターネットじゃない現実世界で、「競争」からかなり距離のある新しいムーブメントが出てくるかもしれない。こういうことを言うと古くさいな人だと思われるかもしれないけど、これだけネットが当たり前になった現時点で小学生くらいの人がもう少し大きくなったら、逆にそういうことを始めるかもしれないよ。
コメカ
あとは、理念的なレベルとは違う水位に、経済格差の問題というのもあって、例えば富裕層だけが「平等で安全な世界」……それこそ「競わない」価値観を豊かに共有できるような……を生き、低所得者層ばかりが「生き馬の目を抜かれるような世界」を生きざるを得ないような時代になったりしたら、本当に嫌だなあと思ったりします。やっぱりできるだけ多様な人々がアトランダムに出会い混じり合うことから、何かが生まれてくると思うので。閉塞的なネットワークや過酷な競争状況が不可避であることは認めつつ、それでもそこからこぼれ落ちようとするような面白いチャレンジが、さまざまな人々によって試みられていくことを期待したいし、自分でもなんとかそれをやっていきたいな、と考えています。
【編集後記】
「競わない」という価値観ですら、競争社会において商品化されるというお話から、自分自身が資本主義社会の中で生きているということを改めて認識させられました。あらゆるものがネットワークでつながった現代においては、常に誰かに監視されているような状態で、そこから逃れることは限りなく不可能に近い。そんな閉塞的な社会への風通しを確保するため、これからはアナログ的なものに回帰するような、一時的にネットの外側に出るような行為によって、競争の世界と自分自身との距離感を調整し、バランスを図りながら現代社会と向き合っていく人が増えていくのかもしれません。
(未来定番研究所 岡田)
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