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  • 「わきまえる」を見直す、接客の新しいカタチと『座ってイイッスPROJECT』。

2025.06.09

「わきまえる」を見直す、接客の新しいカタチと『座ってイイッスPROJECT』。

「わきまえる」とは、物事の道理を理解していること。一方で、本来の意味とは異なる道理を強制するニュアンスで捉えられることもあり、「わきまえる」という概念自体を疑問視するような人も出てきました。普段のコミュニケーションにおいても「わきまえる」は悩ましいもので、謙虚でいようと思うばかりに身動きが取れなくなったり、積極的に動こうと思う姿勢が傲慢だと思われてしまうこともあります。「わきまえる」の解釈やバランスが難しい時代。だからこそ、F.I.N.編集部は改めて「わきまえるとはどういうことか」を今一度考えて、5年先の価値観を探っていきます。

 

「お客様は神様」と言われ、常に優先される存在としてみなされてきた接客業において従業員と顧客の距離感や関係性は時代の流れによって変化しています。〈株式会社マイナビ(以下マイナビ)〉が開始した「座ってイイッスPROJECT」は、日本の接客業の「立ちっぱなし問題」の現状を見つめ直して、レジ業務を行う従業員など、立ち仕事の方にむけて椅子を導入し、座って接客することを推進する取り組みです。この取り組みを広めるために、専用の椅子も開発しました。座ってする接客を導入することによってどのような効果が生まれるのでしょうか?また接客における「わきまえ方」は今後どのようなカタチになることが理想なのか?プロジェクトを担当している〈マイナビ〉「座ってイイッスPROJECT」責任者の鈴木里彩子さんと一緒に考えます。

 

(文:宮原沙紀)

Profile

鈴木里彩子(すずき・りさこ)

〈株式会社マイナビ〉デジタルテクノロジー戦略本部 組織ブランドコミュニケーション2部部長。アルバイト求人サイトの広告宣伝プロモーションを担当している。

海外の事例からヒントを得た

「座ってイイッスPROJECT」

F.I.N.編集部

〈マイナビ〉が始めた職場に腰掛けられる椅子を置く取り組み「座ってイイッスPROJECT」について、教えてください。

鈴木さん

働く人の可能性を広げていくプロジェクトです。レジ業務を行う従業員など、立ち仕事の方が、仕事中や仕事の隙間の時間に座れる椅子を導入しています。

F.I.N.編集部

このプロジェクトはなぜ始まったのですか?

鈴木さん

協力会社の担当者が、海外でレジ業務中に座って作業している様子を見て、「マイナビでも導入できないか」と声をかけてくださったのがきっかけです。

F.I.N.編集部

たしかに、海外ではレジで座って接客している光景をよく見かけますよね。

鈴木さん

そうなんです。日本にいるとあまり見慣れない光景なので最初は驚きますが、よく考えてみると、お客様にとって特に不都合があるわけではありませんし、働く側にとっては体の負担が減る分、効率的だといえます。

F.I.N.編集部

なぜ日本の接客業は立って対応するのが当たり前になっていたのでしょうか。

鈴木さん

なんとなく「立って接客することが礼儀」という暗黙の了解のようなものが、日本には根づいていたのかもしれません。座っての接客は失礼だという価値観も、根強く存在していたのではないでしょうか。

F.I.N.編集部

〈マイナビ〉としても、このプロジェクトの立ち上げには前向きだったのでしょうか?

鈴木さん

はい。働きやすい環境を求職者に提供することも弊社の仕事です。企業に「なぜ座って接客をしないのか」とアンケートを取ったところ、「お客様の印象が気になる」という理由のほか、「特に理由はない」「他社がやっていないから」といった曖昧な回答も多く、曖昧な理由で導入に踏み出せない企業も多いことが分かりました。ただ、ほんの一歩でも動き出せば、職場の空気感が変わるのではという期待がありました。求人媒体ならではの、企業側の状況を加味したうえで解決策が打てるのではないかと考えました。

F.I.N.編集部

座って接客をすることに対して、企業や求職者の方からの要望もあったのですか?

鈴木さん

「座って仕事をしたい」という声は、働く方々からSNSなどでも多く挙がっていました。企業側から明確な要望をいただいたことはなかったのですが、プロジェクトを立ち上げる際に「一緒に取り組みませんか?」と声をかけると、「いいですね」と前向きに受け入れてくださる企業が多かったんです。働き方の改善には取り組みたいと考えていらっしゃるものの、「自分の裁量では決定できない」というケースも多くありました。椅子を置くだけのことではありますが、それでも企業イメージやブランディングに関わる、意外と繊細な問題なんですよね。

F.I.N.編集部

導入する企業のメリットはなんですか?

鈴木さん

主に3つメリットがあると考えています。1つ目は、企業としてのイメージ向上への寄与。2つ目は求人への応募数の増加。3つ目は働いた後の定着率アップの可能性があるのではないかということです。

F.I.N.編集部

働く人にも、企業側にもメリットがあるんですね。

鈴木さん

はい。特に日本では労働人口の減少や高齢化が進んでおり、腰痛など健康起因の労災も増えています。こうした課題に向き合ううえでも、働きやすい環境づくりはますます重要になっていると感じます。

「マイナビバイトチェア」の開発

F.I.N.編集部

プロジェクトを進めるにあたり、「マイナビバイトチェア」という独自の椅子の開発から始めたのはなぜですか?

鈴木さん

プロジェクトを始めた当初、ちょうどいい椅子が市場に見当たらなかったんです。調査した範囲ですとレジ業務専用など用途を限定した製品がなく、「ならば自分たちで作ろう」となりました。また、企業側も「椅子を導入したいけど、どれを選べばいいかわからない」ということが多いはず。椅子も含めて提案するほうが導入しやすいと考えました。

F.I.N.編集部

「座ってイイッスPROJECT」というネーミングも秀逸ですね。

鈴木さん

広告代理店さんが提案してくれたんです。親しみやすく、気軽に取り入れていこうという感覚になれて、とてもいいと思ったので即決でした。

F.I.N.編集部

椅子のこだわったポイントはどこですか?

鈴木さん

接客の現場で使いやすいよう工夫しました。日本のレジスペースは狭いので、まずコンパクトであること。そしてスタッキングできること。さらに、さまざまな体格の方が使えるよう高さ調整ができるようにしています。また、“座っている感”が出にくく、姿勢よく見えるデザインにもこだわりました。最初から深く腰掛けるような椅子では、お客様もスタッフも違和感があるかもしれないので、自然な距離感を意識しています。

F.I.N.編集部

実際に導入してみて、反応はいかがでしたか?

鈴木さん

調査の一部ですが、従業員からは「引き続き座って働きたい」が約7割、「どちらでもよい」が約2割、「座らなくてもいい」が1割以下と、好意的な声が多数でした。とくに腰痛持ちの方には「本当にありがたい」と言っていただきましたし、動きの多い店舗でも、少し座るだけで休憩したような感覚になるとの声もありました。お客様からのクレームは、今のところ聞いていません。「座っていることに気づかなかった」という意見もあったので、気にならなかったという方も多かったのかもしれません。ただし、「お客様の目線がまだ気になる」といった声もあり、完全に「座ってOK」という空気ができているわけではないと感じています。定着率まではまだ測れていませんが、求人の応募数については「このプロジェクトを知って導入店に応募しました」という方もいて、成果は出始めていると考えています。

従業員と顧客との距離感の変化

F.I.N.編集部

「立って接客しないとわきまえていない」という価値観は変わってきていると思いますか?

鈴木さん

全国的に調査をしたわけではないので断言はできませんが、特設ページに設置した「ご意見ボックス」には「このプロジェクトをぜひ進めてほしい」といった励ましの声が多く寄せられています。SNSでの反応もほとんどがポジティブで、世間の価値観は少しずつ変わりつつあると感じています。

F.I.N.編集部

「お客様に失礼では?」という不安や壁はどう乗り越えたのでしょうか?

鈴木さん

まずは「慣れること」が必要だと思っています。そのために、チラシやステッカーを店舗に配布して、「スタッフが座っているのはこういう理由です」と周知する取り組みを行っています。また、CM動画を通して、「新しい接客のカタチ」として提案するようにしています。実際に導入店舗を増やしながら、PR活動も続けていく予定です。

F.I.N.編集部

実際にやってみると「こっちの方がいい」とお客様が感じるケースもありそうですね。

「働きやすい環境」とはなんなのか

F.I.N.編集部

5年先、10年先の未来には、接客における従業員の「わきまえる」という感覚は変わっていくと思いますか?

鈴木さん

日本は他の国と比べて、独特な慣習があると思います。ですが、近年では「その慣習を変えたほうがいいのでは?」という世間の声も大きくなってきていますし、お客様を極端に“上”に置くような関係性は、今後は変わっていくと思います。ただ、変化の方法については、各企業や店舗ごとに選択できるカタチが望ましいと感じています。正解は1つではないし、選択肢が多いこと自体が「働きやすさ」に繋がるのではないでしょうか。働くことに限らず、個人の「幸せの追求」はもっと柔軟であっていいと思っています。

でもその一方で、今の日本の接客における「丁寧さ」や「礼儀」「気遣い」は大切だなとも感じています。それはお客様のためだけでなく、働く側のプロ意識ややりがいにも繋がる要素でもあるからです。互いに敬意を持ち心地よく過ごせる空間ができることが、理想の働き方に繋がるのではないでしょうか。

F.I.N.編集部

今後、取り組んでいきたいことはありますか?

鈴木さん

プロジェクトを進めるなかで、「これをきっかけに、少しでも働く環境をより良いものに変えていこう」という想いが私自身にも、チームにもあります。先ほどお話しした特設ページの「ご意見ボックス」には、レジ業務中に水が飲めないといった切実な声や、働きづらさに関する細かな課題が多く寄せられています。今のところ、その内容は社内チームだけが見られるようになっていますが、社外に公開して、より多くの人とディスカッションできたらいいなと思っています。

F.I.N.編集部

課題を可視化し、対話が生まれる場になるのはとても意義がありますね。

鈴木さん

これまでの「正しさ」に縛られず、議論し、試してみる。そんな挑戦から、これからの働きやすさを育てていきたいと思います。

座ってイイッスPROJECT

【編集後記】

多くの人の生活に関わる接客業。それだけに「座って行っていいのか?」という問いには、百人百様の答えがありそうです。接客する側とされる側、それぞれの心に寄り添いながら、「座ってイイッス」と軽やかに新たな選択肢を提案する鈴木さんのお話を、とてもワクワクしながら伺いました。また、このプロジェクトを通して働きやすさの幅を広げられる一方で、長く続いてきた慣習に働く人の誇りを見出し、尊重されている様子が印象的でした。今の世の中にあわせて当たり前のカタチが変わっていくことは多々ありますが、時代が変わっても変わらない、人の心の在り方を見失わないようにしたいと感じました。

(未来定番研究所 高林)