2025.06.30

「わきまえるって、どういうこと?」上西充子さん×清田隆之さん。

「わきまえる」とは、物事の道理を理解していること。一方で、本来の意味とは異なる道理を強制するニュアンスで捉えられることもあり、「わきまえる」という概念自体を疑問視するような人も出てきました。普段のコミュニケーションにおいても「わきまえる」は悩ましいもので、謙虚でいようと思うばかりに身動きが取れなくなったり、積極的に動こうと思う姿勢が傲慢だと思われてしまうこともあります。「わきまえる」の解釈やバランスが難しい時代。だからこそ、F.I.N.編集部は改めて「わきまえるとはどういうことか」を今一度考えて、5年先の価値観を探っていきます。

 

近年、誰かを黙らせ、抑え込む言葉として使われる場面が増えている「わきまえる」。特に、2021年の当時東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会会長を務めていた森喜朗さんの「女性がたくさん入っている理事会が時間がかかる」発言をきっかけに、「わきまえる」という言葉が社会的な関心を集めました。私たちは、これからの時代に「わきまえる」とどう向き合っていけばいいのでしょうか?今回は、労働問題の視点から社会の構造を読み解く上西充子さんと、男らしさという抑圧的な規範に切り込む文筆家・清田隆之さんの対談から、これからの時代にふさわしい「わきまえ方」を考えます。

 

(文:船橋麻貴/写真:武石早代)

Profile

上西充子さん(うえにし・みつこ)

1965年生まれ。法政大学キャリアデザイン学部教授。専門は労働問題。働き方改革関連法案の国会審議に注目するなか、国会審議を解説つきで街頭上映する国会パブリックビューイングの取り組みを2018年に始める。「ご飯論法」で2018年の新語・流行語大賞トップテンを紙屋高雪氏と共同受賞。著書に『呪いの言葉の解きかた』(晶文社)、『国会をみよう 国会パブリックビューイングの試み』(集英社クリエイティブ)、『政治と報道』(扶桑社新書)など。

X:@mu0283

 

清田隆之さん(きよた・たかゆき)

1980年生まれ。文筆業、〈桃山商事〉代表。ジェンダー、恋愛、人間関係、カルチャーなどをテーマに様々な媒体で執筆。朝日新聞be「悩みのるつぼ」では回答者を務める。著書に『さよなら、俺たち』(スタンド・ブックス)、『自慢話でも武勇伝でもない「一般男性」の話から見えた生きづらさと男らしさのこと』(扶桑社)、『おしゃべりから始める私たちのジェンダー入門』(朝日出版社)など。新刊『戻れないけど、生きるのだ 男らしさのゆくえ』(太田出版)が発売中。

X:@momoyama_radio

わきまえるって、何ですか?

F.I.N.編集部

辞書には「道理を心得ている」などと書かれている「わきまえる」。おふたりはどういう意味合いで捉えていますか?

上西さん

辞書にあるような意味を理解して、「わきまえる」という言葉を使っている人はどのくらいいるのでしょうか。私は「道理を心得ている」という本来の意味を知るまでは、ポジティブな意味として受け取ったことがないんです。「今日はこういう場所だから、こういう格好をしよう」と自分なりにTPOを考えることはあっても、それを「わきまえる」とは思っていない。むしろ、「わきまえる」は、「わきまえなさい」と上から言われる言葉として捉えてきました。だから私にとっては、「わきまえる」という言葉には最初からネガティブな響きがあります。

清田さん

僕も同感です。「わきまえる」には、上から下に対して押しつけるような言葉という印象を持っています。しかもそれは、具体的な行動やふるまいを示すことなく、実体が曖昧にされたまま「わかるよね?」という空気だけを押しつけてくるもの……というか。

 

例えば、自分は就職活動をせず、学生時代のサークル仲間と小さな制作会社を作って出版業界で働き始めたんですね。なので駆け出しの頃は、仕事相手として出会う編集者さんや先輩たちのふるまいを観察し、自発的に学ぶしかなかった。若手は飲み会に誘われたら絶対に行くものだとか、カラオケではバカなことをやって盛り上げるのが正解だとか……。明示的に「そうしろ」と言われたわけではないけど、場の空気を読んで「わきまえる」ように動いていた気がします。

上西さん

「意見を言ってはいけない」とか、「盾突いてはいけない」とか、でしゃばっちゃいけないっていう感覚ですよね。「場をわきまえる」「身の程をわきまえる」といった意味合いで使われることが多いから、自分の意見や違和感を引っ込めざるを得ないんですよね。

清田さん

そうですよね。僕の場合、原稿の中で自分の意見を少しでも入れると、「お前の意見なんていらない」と言われたりもしました。取材対象者の言葉だけを書けと。そうやって暗に「でしゃばるな」「余計なことはするな」と言われるたびに、「ああ、こういうことをするとダメなんだ」って、自分の中に「わきまえる」が蓄積されていった感覚がありました。

「わきまえた人」が都合よかった世界

F.I.N.編集部

2021年の森さんによる「女性がたくさん入っている理事会が時間がかかる」という発言をきっかけに、「わきまえる」という言葉が一気に注目されました。当時の議論や社会の反応をどう見ていましたか?

上西さん

あの発言を聞いた時、「またか」と思った反面、これまでのようにスルーされなかったのは画期的だったと感じました。問題発言として報じられただけでなく、東京オリンピック・パラリンピック組織委員会の会長職を辞任せざるをえなくなりましたね。なぜそうなったのかを改めて振り返ってみると、実は、森さんこそがわきまえていなかったからじゃないかと。森さんは組織委員会の会長という立場にふさわしい発言や振る舞いが求められていた。にもかかわらず、理事会における女性の発言を封じるようなことを語ってしまったんです。あらゆる差別を認めないオリンピック憲章の価値観を損なうようなことを語ってしまった。その結果、発言を撤回するだけでなく会長の職を辞任せざるを得なくなったわけですよね。

清田さん

そうですね。森さんにとっては、当然のように「わきまえてくれる女性」がいる会議をイメージしていたんだと思います。自分の意見に異を唱えず、空気を読んで場を整えてくれる人たちに囲まれた「都合のいい環境」がそれまで長く続いてきたはずなので。時代や社会の変化とともに、そういった環境が少しずつ崩れてきたなかで、自分が心地良くいられた場所も変わっていたことに気づかず、「最近の会議はやりづらい」と思って出たのが、あの発言だったのかなと想像します。

上西さん

「女性がたくさん入っている理事会が時間がかかる」という言い方って、遠回しに「余計なことを言うな」っていう抑圧なんですよね。理事会という意思決定の場で、女性が発言すること自体を否定している。多様な意見が出されて建設的な議論ができるようにと理事会における女性の比率を高めることを文部科学省は求めていたにもかかわらず、単に女性の話は長いというような言い方で、そのような変化にブレーキをかけようとしたんですね。

清田さん

これまで良しとされてきた女性は褒められ、そうでない人は「空気が読めない」「面倒くさい」とされた。これは森さんのような権力者にとって本当に都合のいい評価軸で、「わきまえる」という言葉のずるさがよく表れていたなと思います。

上西さん

興味深いのは、森さんが「わきまえなかった」からこそ辞任に追い込まれたという逆説的な構図です。つまり、従来は「わきまえろ」と言われてきた側の人たちが声をあげ、「わきまえろ」と求めてきた側に対して社会が「その発言は許されない」と判断した。これは道理の変化を象徴する出来事だったと思います。

清田さん

まさに、「道理」そのものがアップデートされたということですよね。これまでは「年長者の言うことには従うべき」「組織の和を乱すな」という価値観がまかり通っていたけど、「多様な声を拾い、異議申し立てを受け止める」ことこそが道理だとされるようになってきた。そういう社会的な変化でもあったように思います。

今、わきまえておきたい道理とは?

上西さん

「道理」って、ある時代に共有されている「当たり前」なんですよね。でも、その当たり前って、社会の価値観とともにどんどん変わっていくものなんです。かつては「年長者の言うことには逆らってはいけない」とか、「新参者は黙っているべきだ」というのが「道理」とされていた。でも今は、むしろ「多様性を尊重しましょう」「少数意見にも耳を傾けましょう」ということが、新しい「道理」になりつつあります。

清田さん

そうか、「道理を心得ている」という意味から考えると、わきまえるって、自分の置かれた立場や責任に応じてちゃんと行動する、ちゃんと発言するということですもんね。例えば理事会に入った女性には、その人なりの役割や責任があるはず。だから「空気を読んで発言を控える」のではなくて、「私はこの立場として、この会議にいる。だから言うべきことを言う」というのが本来の「わきまえ方」ということになる。

上西さん

そうそう。わきまえるっていうのは、本来「自分の立場を理解して、それにふさわしい行動を取ること」なんですよね。だから、森さんだって組織委員会会長という国際的な立場にふさわしい発言をすべきだった。それをしなかったことが問題だったわけですね。

清田さん

そうやって考えると、権力者ほどわきまえる必要があると、つくづく思います。自分の立場で発する言葉やふるまいがどれだけの影響力を持つのか。それをちゃんと理解して行動するのが「道理をわきまえる」ということだと思うので。

上西さん

辞書の定義に立ち返ると、「自分の置かれた立場をよく理解し、行動を律する」という意味があるんです。つまり、言われる側ではなくて、本当は言う側・上に立つ側にこそ求められるべき言葉だと思います。

誰かのわきまえない言動は、
皆の「異議申し立て」になるかもしれない

上西さんの著書『呪いの言葉の解きかた』、清田さんの著書『よかれと思ってやったのに──男たちの「失敗学」入門』(ともに晶文社)。どちらも、これまでの価値観への視座を変えてくれる

清田さん

自分自身を振り返ると、子どもの頃から「男らしさの規範」みたいなものに縛られてきたように思います。男なら「言われたことは黙ってやれ」「余計なことは言うな」「先輩に逆らうな」。そうやって我慢して、空気を読んでふるまっていくことが知らないうちに「正しい男性像」として刷り込まれていた。

 

そういうものを強いる男社会には、「奉仕の規範」とでもいうべきものが存在しているように思います。上の立場の人に気に入られるようにふるまうとか、場の空気を壊さないように笑いを取るとか、そうやって自分を抑圧し、全体に奉仕しながらヒエラルキーの中でしかるべくポジションに収まっていくというか……。「わきまえる」ことで評価される構造は、かなり根深いものだなって感じています。

上西さん

なるほど。女性から見ると、男性が女性を抑圧している構図に見えがちだけど、実は男性同士の中にもそういう「上下の秩序」が刷り込まれていて、そこで鍛えられた人が、無意識に女性にも同じことをしてしまう、と。

清田さん

そういう傾向があるように思えて仕方ないんですよね……。自由に意見を述べている人を見ると、ふいに苛立ちや反発心が発生してしまう。それはおそらく、根底に「俺は我慢して空気を読んできたのに」って感情があるからだと思うんです。SNSなんかではそれが顕著で、例えば給料や労働環境に対して異議申し立てをしている人が、「俺のほうがブラックな環境だが?」「それくらいで不満を言うな」という「下から目線」の圧力にさらされたり、「それじゃ会社が立ち行かない」「財源はどうするんだ!」といった謎の「経営者目線」で叩かれてしまったりする。本当はその不満って、皆のためになる「異議申し立て」かもしれないのに、それをつぶしてしまう。苦しい立場の者同士で足の引っ張り合いをしてしまうことが、しばしば目撃されます。

上西さん

そういう時に、「辞める/耐える」の二択が提示されがちなのも問題なんです。労働の現場でも、「嫌なら辞めればいい」「それが無理なら我慢するしかない」といわれがちだけれど、本来は「交渉」という道があるはずなんですよね。でもその交渉する力って、学校教育の中でもあまり育まれてこなかった。むしろ「協調性」「統率された行動」ばかりが重視されて、意見を言うこと=反抗的だと見なされてしまう。

清田さん

本当にそうですね。なんか「自主性を重んじます」とか言いながら、その自主性の中身は、空気を読んで全体に従うことだったりしますもんね。

上西さん

それって本当の意味での「わきまえる」じゃないですよね。むしろ、道理をちゃんと見極めて「これは違う」と声をあげる力こそ、これからの時代に必要なわきまえ方だと思います。

道理を育てるために必要なこと

F.I.N.編集部

声をあげることが大事だと思う一方で、実際にそうすることには勇気がいると思います。言うべきことを言うためには、何が必要なのでしょうか?

上西さん

まず大前提として、「声をあげること」に対しての風当たりがまだまだ強すぎますよね。特に日本では、波風を立てないことが美徳とされるので、違和感を口にすること自体が「わきまえていない」と見なされてしまう。でも私は、変化を起こしてくためには、そのような抑圧から解放された社会をイメージすることが大事じゃないかと思うんです。

 

森さんの発言が大きく取りあげられた時に、心に残ったのは、在日ドイツ大使館が「Don’t be silent」=「沈黙しないで」というメッセージをSNSで発信し、女性スタッフと男性スタッフが共に手を挙げている姿を添えていたことです。「今、あなたたちは発言することを抑圧されているかもしれない。でも、ここでくじけてしまわないで。女性も男性も、言うべきことは遠慮なく発言する、それが日本でも当たり前になるように、私たちも願っています」というメッセージが込められているように感じました。

ドイツ大使館が投稿したポスト。男女ともに手を上げた写真と、「Don’t be silent」というメッセージが掲げられている

清田さん

初めて知りましたが、勇気づけられるメッセージですね。「わきまえなきゃ」っていう思考が、自分をすごく狭くしていたんだなって、改めて感じました。今でも自分の意見を言うことに恐怖心はあるんですが、仕事でも普段の人間関係でも、「それってどうなの?」「ちょっと違うと思う」と意見を投げかけてみることで、結果的に対話や変化が生まれることもたくさんあるわけですよね。

上西さん

道理って、個人で完結するものではなくて、対話の中で育っていくものだと思うんです。最初から全員が「これが正しい」とわかっているわけじゃない。だからこそ、「こういう風に見えました」「こう感じました」と言葉にしていくことが大切なんですよね。

清田さん

それができる社会って、きっと息がしやすいはずですよね。「場をわきまえる」ことが黙ることじゃなくて、誠実に話すこととして認識されるような、そんな未来が来るといいなって思います。

未来に残す、「新しいわきまえ方」とは?

F.I.N.編集部

これからの社会において「わきまえる」という言葉や態度を、どうアップデートしていけばいいでしょうか?

上西さん

私は、「わきまえる」という言葉を悪者にしすぎないことも大切だと思っています。もともとの意味である「道理を心得ている」という中にある「理」は大切にしたい。また、配慮や分別、謙虚さも、それ自体が悪いものではないはずです。

 

ただ、わきまえることを一方的に求める構造、特定の人にだけ強いる構造こそが変わるべきだったんです。だから今後は、「上に立つ人こそ、わきまえることが求められる」「声の大きな人こそ、自分の発言の影響をわきまえる」という方向へ、意味を転換していけたらいいなと感じています。

清田さん

「わきまえる」という言葉そのものを全部否定してしまうのではなく、「わきまえる=自分の立場や状況を正しく理解し、そのうえで配慮ある行動をとること」と再定義する。これは本当に大事なことですね。

 

例えば今って、職場の部下や後輩に対する接し方に悩んでいる人も多いと思うんです。そういうときって「これ言ったらパワハラになるかな」「面倒くさい時代になった」「関わらないほうが安全」といった発想になりがちですが……本来の「わきまえる」には、関係性を丁寧に結ぶためのヒントもたくさん含まれている気がします。我慢や服従じゃなく、対話や相互理解のための姿勢として見直していきたいです。

上西さん

「わきまえろ」という命令形ではなく、これからの時代にふさわしい形でお互いに「わきまえたいね」という共感や選択の表現として、未来に残していく。そういう言葉の運び方をもっと意識していきたいですね。

清田さん

言葉って、使い方次第で鎖にもなるし、道しるべにもなりますもんね。だからこそ、時代に合った使い方をアップデートしていく必要がある。これからは、そんな新しいわきまえ方を取り入れていけたらと思います。

【編集後記】

会議やミーティングの場でどうにも居心地が悪くなったり息苦しくなる場面があります。他のメンバーがした提案や企画に意見を求められると、粗探しまたは重箱の隅つっつき系が意見だと思っている節も。わからないなら質問し腹落ちさせればいいし、自分がいいと感じたなら「これはいい」と褒めたり提案に同意することは、立派な意見だと思います。今回おふたりのお話を伺って、力を持っている人こそが道理を心得た発言を自覚してすること、異なる意見を尊重し合って対話ができる社会になればまさにエレガント!と思いました。

常識のラインが少しずつ変わっていっていることを認識して、自分をアップデートしながら多様な意見を受け止めあい、それぞれが道理を心得たわきまえた社会になれば、これからの会議はきっと楽しくなりそうです。大切な言葉がたくさんあり、折々この記事を読み直したいと思います。

(未来定番研究所 内野)