「わきまえる」とは、物事の道理を理解していること。一方で、本来の意味とは異なる道理を強制するニュアンスで捉えられることもあり、「わきまえる」という概念自体を疑問視するような人も出てきました。普段のコミュニケーションにおいても「わきまえる」は悩ましいもので、謙虚でいようと思うばかりに身動きが取れなくなったり、積極的に動こうと思う姿勢が傲慢だと思われてしまうこともあります。「わきまえる」の解釈やバランスが難しい時代。だからこそ、F.I.N.編集部は改めて「わきまえるとはどういうことか」を今一度考えて、5年先の価値観を探っていきます。
今回着目したのは、2023年10月に新キャンパスが完成した金沢美術工芸大学の「共通工房」。各専攻だけが使う専門教室とは別に、「工芸」「彫刻・デザイン」「絵画」「メディア」それぞれの工房が等しくひらかれ、どの専攻でも領域を横断しながら制作ができる場として新設されました。互いの技術を理解しながらものづくりを進める共創の現場から、これからの社会に求められる「わきまえる」のヒントを探ります。
(文:竹田理紀/写真:吉田誠、金沢美術工芸大学)
個を引き出す、協働という力
新しい金沢美術工芸大学のキャンパスには塀や柵がありません。街と繋がるように緑あふれる庭があり、地域の人々が散歩で立ち寄ったり、お弁当を食べたり、保育園の子供たちが遊ぶ姿も見られます。そんな開かれた風景を通り抜けた学内にある「創作の庭」を囲むようにして「共通工房」はありました。
新キャンパス内の「創造の庭」を囲むように設置された「共通工房」。ガラス窓で基本的に教室内が見える構造になっている。
「工芸」「彫刻・デザイン」「絵画」「メディア」それぞれの専門エリアに分かれつつも、学生たちが専門領域を横断して利用できる、さまざまな種類の工房が67室。これまでの美術大学といえば、絵画科なら絵画を、工芸科なら工芸を学び、専門性と個の表現を深める場でしたが、交流や協働を促す創造の場へと、空間そのものが変わり始めています。
工芸エリアにある「鋳物場」。その他、鋳金、彫鍛金、陶磁、染織、漆木工など、素材ごとに専門性の高い制作を伝える工房がある。
彫刻・デザインエリアにはデジタル加工にも対応する3Dプリンターなどの設備が充実。工芸科の寺本香乃花さんは、3Dプリンターで模型を作れるようになったといいます。「イメージが可視化でき、表現の幅が広がりました」(寺本さん)。
絵画エリアではデッサン室をはじめ、フレスコ画、モザイク画、版画、シルクスクリーンなどさまざまな表現手法に対応する作業室が充実している。
メディアエリアにはデジタルコンテンツを制作する本格的なスタジオを完備。造形表現を行う学生にとって「見せ方」「伝え方」の思考を養う機会になっている。
「もちろん今でも、『個の表現』を高めるうえでは専門性を深めていく必要があります。ですが、社会の価値観が多様化し、領域やジャンルの境界が曖昧になってきた今、他者と協働しながら表現を編む力がこれからの時代には一層求められています。芸術の世界でも、その変化を強く感じています」
そう語るのは金沢美術工芸大学の山村慎哉学長。
「現代アートでも、異なる素材や技術を組み合わせて作る、ミクストメディアの作品が多く生まれています。あえていえば、これからは『1人で完結する表現』では足りない。思考と素材、技術と他者を結び、対話を重ねながら創造していく力が不可欠と考えています。まさにそうした創造のための土壌として、『共通工房』は設計されました」(山村学長)
動き始めた現場。学生と技術専門員に聞く、学びと気づき
「共通工房」ができたことで、例えば、美術科の学生が工芸(彫鍛金)の工房で金属加工の機械を使ったり、工芸科の学生が彫刻・デザインの工房で3Dプリンターを使ったりと、専攻の枠を越えて設備を自由に活用できるようになりました。
さらに特徴的なのは、その環境を支えるために、各工房に技術専門員を配置したことです。高度な専門知識を持ち、学生と同じようにものづくりをしている、「頼れる先輩」のような存在として学生をサポートしています。技術的なことを教えてくれるのはもちろん、表現のヒントや広がりを一緒に探してくれる心強い味方でもあるのです。
高度な機械を使うことは危険も伴うからこそ、知識と技術を持った専門員が欠かせない。
「技術専門員として学生と関わっていると、日々いろんな 『やってみたい』が飛び込んできます」。そう教えてくれたのは、彫鍛金エリアの専門員である岸洸実さん。
「ある彫刻専攻の学生が銅の着色に興味を持ち、工房を訪ねてきたことがありました。工芸の視点では『こういう仕上がりが美しい』といった基準がありますが、他専攻の学生にとっては、その“正解”が必ずしも目指すものではない。そもそも目指す着地点が違うんです。その学生は大きな作品を作ろうとしていたようで『うまくいかないかもしれないけど、やってみたら?』と声をかけました。結果、その学生はどんどん研究を重ねていったんですね。たとえ狙った色が出なかったとしても、その偶然の色が『むしろ美しい』と感じる学生もいる。新しい表現は、そんな挑戦から生まれるんだなと、私の方が気づかされることがたくさんありますね」(岸さん)
他を学び理解することで、自己理解の深化に
大学院で陶磁を専攻する菅沼稜子さんは、技術専門員のサポートを受けながら技術を学び、他専攻の学生とも交流することで、今までになかった発想が生まれたといいます。
「陶磁コースで器を作っているのですが、共通工房で漆工の技術や草木染めを学びました。そのことで、自分が作った器を入れる箱や、合わせる布小物にも発想が及ぶようになったんです。今は、広くテーブルウェアにも意識を向けて、器との組み合わせを考えたいと思っているところです」(菅沼さん)
そして、他専攻の技術習得の難しさを同時に知り、作品の背景に蓄積された技術力があることも思い知らされたといいます。
「まだまだやりたいことに届かないと感じますね。でも理解が深まることで共通言語が生まれ、他専攻の学生とのコミュニケーションのためにも、こういった機会は必要と思えました」(菅沼さん)
彫鍛金の技術を身につけたからこそ発想できた作品。「陶器と金属という異素材が合わさることによる響きあいを求めて制作しました」(菅沼さん)。
菅沼さんは共通工房で漆工の技術を学び、陶器を入れる箱を制作。
他分野への関心を高める、偶然が生まれる設計思考
「共通工房」によって、他専攻の技術を学ぶための環境は整いましたが、もちろん、それを生かすには、学生自身が他分野に関心を持ってこそ。大学では造形の基礎と幅広い表現への理解を深めるための「基礎科目集中履修」の授業や、 技術専門員による「共通工房ツアー」を行なっているそう。
「デザイン専攻の学生が工芸分野を体験してみる、工芸の学生がデザインをやってみるということを1、2年のうちに学びます。期間は3週間くらいと短いのですが、他専攻の技術の習得にどれだけ時間がかかるかを実感として体験できるわけです。特に工芸科の学生は技術を磨くことにとても時間をかけています。その姿を見ること、実際に体験することで、表現に向かう前に技術の修練があると知ることになる。そこにリスペクトが生まれ、相互を理解し合うことに繋がるのではないかと思います」(桑村佐和子教授/共通工房 工房長・一般教育等)。
そして、新キャンパスの全体の設計自体も、相互理解の循環の土壌になっているといいます。設計は〈SALHAUS〉〈カワグチテイ建築計画〉〈仲建築設計スタジオ〉という3つのアトリエ系設計事務所が協働し、「見えること・交差すること・偶然が生まれること」をコンセプトに進められました。
「通常は1つの設計事務所が担当するところですが、あえて多様な視点を集めて新しい大学のあり方を考えました。これもある意味『共通工房』的な試みになったのではないかと思います」(山村学長)
キャンパス全体を壁で分断せず、ガラス張りによって視線が交差する、ある意味スケルトンの構造。
「廊下を歩いていれば他専攻の制作が目に入る。つまり偶然、他専攻の制作を目にすることがあるわけです。そこから他への興味が芽生えるということはあると思いますね。そんな環境は少しずつ整っているのではないかと思います」(山村学長)
壁などの仕切りを極力減らし、視線や声も交差するような風通しのいい学内。
キャンパスの中心に設けられた「アートプロムナード」と呼ばれる通路。地域の人も自由に訪れることができる。
人との関わり合いの中で「伝える」力は育まれる
学内中央には「アートプロムナード」という通路があり、学生だけでなく地域の人も行き交います。その周辺には「アートコモンズ」というギャラリーが設置され、学生たちがさまざまな展示をしています。つまり学生はもちろん地域の人も作品に触れることができるのです。
「作品を教員が見て終わりではなく、仲間や偶然通りかかった人の目にも触れる仕掛けは、作品をどう伝えるかという思考も育んでいると感じます。また、イベントの際には販売も行うのですが、人に受け取ってもらう経験は学生自身のチャレンジ精神を高める機会になっているようです」(安島諭教授/共通工房・デザイン科)
通路に面した場所にもギャラリースペースがあり、地域の人々も気軽に入ることができる(公開展示の場合のみ)。
夏に行われる大学主催の「市民講座 KANABI OPEN STUDIO」という地域イベントでは、技術専門員が中心となり、各工房で技術を教えるワークショップも。そのこともまた、自己理解を深めることに繋がっているよう。
「実際に手を動かして体験してもらうと、純粋にものづくりを楽しんでいる様子や、新鮮な驚きの反応があって。それを見ながら、自分自身が忘れていた感覚を思い出しました。この技術には人を夢中にさせる魅力があるんだと思えたのがうれしかったですね。そして、改めて表現の世界には正解がないということも、実感として染み込んできた気がします」(寺本香乃花さん/工芸科・彫鍛金コース4年)
彫鍛金の工房では金属加工の技術を学ぶ。1本の金属の棒がスプーンなど使える道具になる様子を見るだけでも、素材の面白さを知る体験になりそう。
互いを理解し合う「わきまえる」力は
答えのない世界を泳ぐ櫂になる
「共通工房」ができて約2年。自分にはないものを他者が持っているということ、それに費やされた時間があるということ。そんな他者理解の深まりに、本当の意味での「わきまえる」意識の芽生えを感じます。実際、互いへのリスペクトから、工芸と日本画の学生がグループ展を開くなどの活動も生まれているそう。
「新しいことを始める時には試行錯誤が伴うわけで、今もその最中です。工房を活用しながら、専門性を深めつつどう広げるのか。教員と工房と連携してカリキュラムを考えていく必要性を感じています。そしてクラシカルな分野では技術的な答えもありますが、『共通工房』ができたことで、必ずしも答えは1つではなくなりました。だからこそ、それぞれが持っている専門性、視点を尊重しながら理解し合うための関係性づくりが大切だと思っています。学生は最終的に大学を出て、多くの人と関わるようになるわけです。その意味でも『共通工房』での体験がいい作用を生むのではないかと期待しています」(桑村教授)。
社会全体を見渡しても、いまや多様な働き方が広がり、個人の技能や意思を多角的に理解することが求められる時代になりました。だからこそ、「共通工房」のように異なる専門性が交わり、互いに学び合う環境づくりは、これからの暮らし方や働き方のヒントになるように思います。
まずは、自分自身の強みと弱みを知ること。そのうえで他者を理解し、支え合う関係を築いていくこと。それは、5年先に向けて必要な「わきまえる」のあり方なのかもしれません。
金沢美術工芸大学
住所:石川県金沢市小立野2-40-1
HP:https://www.kanazawa-bidai.ac.jp/
【編集後記】
「わきまえる」の意味として冒頭に示した「物事の道理の理解」とはおそらく、他者や世界との関係のなかで少しずつつかんでいくものなのだと思います。とはいっても、自分とはまるで違う価値観を想像し、他者の苦労や困難に目を向け、さらにそれらを尊重し関心を持ち続けることは本当に難しいことです。今回の取材でも学生や教授などさまざまな立場の人がそれぞれの難しさに直面しているようで、しかし同時に誰もがその難しさを引き受け、それぞれの言葉で考え続けていることがとてもいいなと感じました。自分が誰かや何かと理解しあうために、難しさ、つまり答えが1つでないことにぶつかって考える機会がもっとあってもいいような気がします。
(未来定番研究所 渡邉)