私たちの感情は大きなできごとだけではなく、人との関わりや日常のちょっとしたことにも影響を受け、日々揺れ動いています。
そんな心身を整えるために、意識的に行動したり、無意識のうちに何かに身を委ねたりすることで、少しずつ自分の力を取り戻しているのではないでしょうか。
F.I.N.では、心身が回復していく過程に目を向けながら、さまざまな目利きとともに、これからの「回復のカタチ」を考えていきます。
地球環境と人間の健康を、切り離さずに考えるプラネタリーヘルス。医師の桐村里紗さんは、東京のほか鳥取にも拠点を置き、土に触れ、食べ物を育てる暮らしを送っています。著書『土に触れる人はなぜ健康になるのか―身体の中の「自然」を育てる』では、5年間の実践から得た知見をまとめています。自然とのつながりは、心身の回復をどう支えるのでしょうか。桐村さんに、日々の暮らしから始められることや、人と自然がともに健やかに生きる未来について伺います。
(文:宮原沙紀/サムネイル写真:提供:江府町、撮影:細田彰洋)
桐村里紗さん(きりむら・りさ)
医師、東京大学大学院工学系研究科道徳感情数理工学社会連携講座共同研究員(2022年〜2025年)、〈天籟株式会社〉代表取締役、〈一般社団法人プラネタリーヘルスイニシアティブ〉代表理事。内科医として予防医療から生活習慣病治療、在宅医療まで幅広く臨床に従事。2022年からは鳥取県江府町に移住し、土に触れる暮らしや腸内環境と食を軸にした生活を自ら実践しながら、プラネタリーヘルスの社会実装として地球再生型経済の確立を目指す「nichtöne(ニッヒテーネ)」を運営。フジテレビ『ホンマでっか!?TV』に腸活評論家として出演。著書に『腸と森の「土」を育てる―微生物が健康にする人と環境』『土に触れる人はなぜ健康になるのか―身体の中の「自然」を育てる』(ともに光文社新書)。
Instagram:@drlisakirimura
自分だけ健康になることは難しい
内科医として、予防医療や腸内環境、生活習慣の改善に取り組んできた桐村さん。その出発点には、日々の暮らしそのものが健康や幸せに繋がる社会をつくりたい、という思いがありました。一方で、診療を続けるうちに、個人への働きかけだけでは届かない問題を感じるようになったといいます。
「健康診断で食生活の改善を勧めても、自宅や会社の周りにコンビニやファストフード店ばかりでは、食事の選択肢が限られてしまいます。社会環境は、その人の生活習慣に大きく影響するんです。健康は遺伝子だけで決まるわけではなく、食事はもちろん、光や音など、生涯を通じて接するさまざまな環境に左右されます。だからこそ、個人の努力だけに頼るのではなく、健康を支える環境そのものを良くしていく必要があると考えるようになりました」
そんな問題意識を抱いていた桐村さんが、プラネタリーヘルスという考え方に出会ったのは2015年。ドイツ・ベルリンで開催された国際会議「ワールドヘルスサミット」に参加した時のことでした。
「人の健康や幸せは、社会や経済、それを取り巻く生態系や地球環境のなかにある。その全体を健全にしていこうという『プラネタリーヘルス(惑星の健康)』の考え方に触れて、『これだ!』と思いました。抱えていたモヤモヤが言葉になり、自分も取り組んでいきたいと感じたんです」
自然や地域に負担を押しつけない経済へ
私たちの暮らしを支える経済活動は、水や土、森林など、自然の恵みによって成り立っています。しかし生産や消費の過程で自然に負担をかけ続ければ、巡り巡って人の健康を支える基盤そのものを損なうことになります。桐村さんが指摘するのは、これまでの経済活動で見過ごされてきた「見えないコスト」です。
「目に見える経済が成長する一方で、生産地で暮らす人たちや自然環境、将来の世代に負担を強いてきた面があります。そうした見えないコストまで含めて考え、再生型の経済に向かっていく必要があると思います」
桐村さんが目指すのは、人が生き、活動することで、人の心身も地域も自然も豊かになる社会です。その手がかりとして挙げるのが、日本の里山で営まれてきた暮らし。人は山や田畑に手を入れながら、食べ物や燃料、家を建てるための木材などを得てきました。自然から恵みを受け取り、その自然に関わり続ける関係が、暮らしを支えていたのです。
「プラネタリーヘルスは欧米から広がった概念ですが、人と自然が一体だという考え方は、日本の昔からの自然観とも馴染みやすいと思います」
土に触れ、食べ物を育てることで戻ってきたもの
社会や経済の仕組みだけでなく、身近な自然との関わりも、心身の健康を考えるうえで大切な視点です。
「都市の緑地とメンタルヘルスの関連を示す研究もあります。自然との関わりは、微生物や自律神経など、さまざまな側面から研究されていますし、『自分は自然の一部だ』と感じることと健康との関係にも目が向けられているんです」
桐村さん自身が暮らしを見直すきっかけになったのは、コロナ禍でした。人の活動が止まった都市では、生き物の気配を感じにくいことに気づき、もっと土に近い場所で暮らしたいと思うようになったといいます。縁があって鳥取県江府町に拠点を持ち、東京との二拠点生活を行っています。そのなかで実感した変化の1つが、睡眠でした。
「東京だけに住んでいた時は、私は寝つきが悪く不眠症でした。でも、鳥取ではすぐに眠れるんです。東京に戻るとまた眠りにくくなる。暮らす環境によって、こんなに変化があるんだと気づきました」
もともと食や腸内環境を研究テーマにしていた桐村さんは、次第に、農業にも関心を持ち、協生農業に挑戦。自分でも野菜を育て始めます。
鳥取ではデスクワークの合間に畑へ出て、木の剪定や草刈りをすることも。川のせせらぎや虫、鳥の声に囲まれながら、日常的に土や植物に触れています。夜は真っ暗な環境で自然と眠りにつく。その当たり前が、自分の回復を支えていると感じているそうです。
「今は、自分たちで育てた野菜やお米、自分で仕込んだお味噌、地域の方が持ってきてくれる鹿肉やイノシシ肉などが食卓に並びます。旬のものを食べる喜びを日々実感しています」
食べる喜びに加えて、身のまわりの土地から食べ物を得られることが、生きる自信にも繋がっているといいます。その暮らしを支えているのは、地域の人たちとの関係です。
「田畑は、管理する人を中心に、皆で関わっています。自分が作業できない時には、誰かがやってくれる。日常的に物をいただいたり、お裾分けするなかで、何かあっても助け合えると思えるんです」
食べ物を育てるにも、道具や技術を1人ですべてそろえる必要はありません。持ち寄り、教え合いながら、できることを増やしていく。桐村さんは、そうした関わりを通じて、暮らしに必要なことを自分たちの手で担う力を取り戻していけると考えています。
「食料は買うもの、家は建ててもらうものというように、さまざまなことが産業化されて、自分で何かをする機会が少なくなっています。それは仕方のない部分もありますが、自分でできることを取り戻していくことが大切だと思うんです」
食と旅から始めるプラネタリーヘルス
自然の近くに暮らしていなくても、始められることはあります。公園を歩く、木に触れる、プランターで植物を育てる。都市においても、共同農園などを通じて自然と関わる人たちの輪が広がっています。なかでも桐村さんが、身近な入口として挙げるのが「食べること」です。
「例えば、いつも食べているお米。その背景には、田んぼへと届く水や太陽の光、土やさまざまな生き物の働きがあります。目の前の食べ物に至るまでに、どんな営みがあるのか。少し知るだけでも、毎日の食事の見え方は変わっていきます。
地域や季節を意識して食材を選んだり、どんな生産者が、どんな土で育てたものなのかを知ること。食べることは、生き物や生態系とのつながりを感じられる接点なんです。知識を得ることで、食べることの解像度を上げることができると思います」
桐村さんは、食べ物の背景を知ることを勧めるとともに、自然のなかに身を置き、人と自然のつながりを五感で感じる機会もつくっています。その取り組みの1つが、鳥取県江府町を含む大山流域などで行う「プラネタリーヘルス・ツーリズム」。水や食に触れながら、人と自然の関係を見つめ直す旅。大山流域での3日間のプログラムでは、まず川に身体ごと入り、水を全身で感じることから始まります。翌日は水源の再生や再生型農業の体験を通じて土に触れます。最後は海へ向かい、地域の恵みを食べることで、山から海へと続くつながりを身体を通して感じます。
「いきなり地球全体を自分のこととして考えるのは難しいので、まずは流域を、自分の一部として感じてもらいたいんです。参加した方からは、『自分は自然の一部だと実感した』という声が聞かれます。1年後お話を聞いても、『まだ大山の水が私のなかを流れています』と話してくださる方もいるんですよ。『人間は自然を傷つける存在だと思っていたけれど、自分にもできることがあるんだ』と話してくださる方もいました。自然との関わりを通して、自然の一部であることを感じていただいています」
人と自然がともに回復する、これからの豊かさ
人と自然がつながり直すことで、これからの暮らしはどう変わるのでしょうか。桐村さんは、豊かさの捉え方に変化が生まれると考えています。
「物をたくさん所有することや、高級な物を持つことだけでなく、自分たちで育てた野菜をおいしいと思って食べること、人との関係、自分が手を入れた自然が再生していくこと。お金には換えられなくても、たしかにある豊かさを大切にするようになっていくと思います」
その未来をつくるために、1人で頑張り続ける必要はありません。人と力を合わせることに加え、技術の助けを借りることもできます。桐村さん自身、AIを積極的に活用し、仕事を効率化することで、畑仕事に使える時間を増やしているそうです。
「人間が自然を守りたい、再生したいという考えを持ってAIに指示すれば、人間だけでは考えつかない方法を導き出してくれる可能性もあります。自然と共生する未来を考えるうえでも、助けになってくれるはずです」
電力消費などの課題もあるため、AIの発達がそのまま自然にとっていいとは言い切れません。それでも桐村さんは、どんな未来に向けて使うのかを人が考え、AIと協働する可能性に期待しています。
「自然にも回復する力があります。人間の力だけで何とかしようと抱え込まず、生き物たちの力も借りていく。さらにAIも仲間として、一緒に進んでいくことができると思うんです」
土に触れる。誰かと食べ物を育てる。食卓の向こうにある自然を知る。そんな小さな関わりを重ねることが、自分を支えてくれる環境を見直し、ともに回復していく一歩になるのかもしれません。
【編集後記】
東京に住んでいるとよりいっそう、人が健康に生きていくには、都市はあまりにも過酷なことを実感します。生ごみを堆肥化するコンポストを世話しているのですが、触ると時には熱いくらい温かく、微生物の活発さが感じられ、糖質や脂質をあっという間に分解するさまは人間の内臓と同じだなあとしみじみ思います。毎日少しの時間でとても小さな自然ですが、微生物と戯れる時間は大切なひとときです。食べること、食べるものを選ぶこと、夜は眠ること。あたりまえを取り戻すこと。自分でできる自然とのつながりを増やすこと、それが人を健康にしていく。全てが納得のお話で、桐村さんの言葉たちが1人でも多くの方に届いてほしい、健やかになってほしいと思います。
(未来定番研究所 内野)