生成AIをエンタメとして楽しんだり、真偽が曖昧なフェイクニュースを慎重に見極めたり。「真実ではない」「現実ではない」ことを理解したり、うまく付き合ったりしながら、ものごとを受け止める姿勢が問われている気がします。今の時代において、目利きたちは何を信じ、何を疑っているのか。また、世の中で支持されるものごとは、真偽に対してどんな姿勢を示しているのでしょうか。今回の特集では、5年先の未来を生きていくための、信じること、疑うことの価値観を探っていきます。
大勢が言うから正しい。根拠があるから信じられる。そんな「安心」に身を委ねるうちに、いつのまにか、自分の目で本質を見ることを少しずつ手放してはいないでしょうか。ファクト、データ、エビデンス——。それらは、判断や行動の確かな土台となるものです。けれど、情報が過剰にあふれる今、そうした「正しさ」に頼るほど、かえって「本質」から遠ざかってしまうこともある。
多数派の声や空気に呑み込まれていく違和感に寄り添うように「本質を見る力=まなざし」を問い続けているのが、ハナムラチカヒロさんです。「風景を見る/風景をつくる/風景になる」という3つの軸を手掛かりに、ハナムラさんは環境とコミュニケーション、アートとデザイン、研究と実践の間を軽やかに往来。研究者、アーティスト、環境デザイナー、時に俳優として、独自の表現探究を続けています。
そんなハナムラさんとの対話を通して、常識や正しさに回収されない視点を、自分の内側から見つけ出すための手掛かりを探っていきます。
(文:末吉陽子)
ハナムラチカヒロさん
ランドスケープアーティスト。大阪公立大学准教授。〈一般社団法人ブリコラージュファウンデーション〉CEO。1976年生まれ。博士号を修めた生命環境科学分野のランドスケープデザインと、臨床哲学領域でのコミュニケーションデザインをベースにしたトランスケープ論をもとに、空間アートの制作から映像や舞台などでのパフォーマンスも行う。著書に、『まなざしのデザイン:〈世界の見方〉を変える方法』(NTT出版)、『まなざしの革命 世界の見方は変えられる』『慈しみ主義 ブッダの科学が描くもうひとつの地球』(河出書房新社)など。
世界を見つめ直す時、「当たり前」が揺さぶられる
F.I.N.編集部
そもそも「まなざし」とは何なのでしょうか?「物事の見方」「自分の視点」「人々の世界観」といった言葉と近いようにも思えますが、ハナムラさんはどのように定義されていますか?
ハナムラさん
「まなざし」とは、ものの見方であると同時に、世界と向き合う態度や、世界との関係性の持ち方でもあると考えています。
具体的には私たちが世界に向ける「まなざし」を大きく2つに分けて考えています。1つ目は「物理的なまなざし」です。つまり視覚を中心とした、知覚的な世界の捉え方のこと。もう1つは「心理的なまなざし」、つまり私たちの内面で起こっている意味づけや認知のプロセスです。
F.I.N.編集部
知覚と認知の両方が「まなざし」に含まれているんですね。
ハナムラさん
はい。そして双方は関連し合っています。普段見ている風景は知らない間に私たちの内面に影響を与えています。例えば、どんな風景を見て育ったか、山なのか海なのか、それによって、その後の自然観や世界の捉え方はまるで変わります。これは「知覚」的なインプットが「認知」的な意味づけに影響を与えている例です。逆に「認知」が「知覚」に作用することもあります。例えば「インドに旅行に行きたい」と考えていると、街中のポスターやニュースで「インド」という文字が自然と目に入ってくるような場合。これは頭の中で考えていることが、実際の視覚的に見えるものに影響しているからです。このように「まなざし」とは知覚と認知が結びついたものであり、人はそれぞれ自分の「まなざし」を通して世界を見ています。そして、自分のまなざしで見ている世界がすべてで、それが真実であると思いがちです。だからこそ、まなざしを問い直すことには大きな意味があると考えています。
F.I.N.編集部
なぜ問い直すことに意味があるのでしょうか?
ハナムラさん
人は「あまりにも当たり前にあるもの」には慣れてしまう生き物だからです。身の回りの環境でも価値観でも、ずっと同じ状態が続くとそれが当たり前になり、もはや「見えていない」のと同じになります。空気もそうですよね。空気はなくなったら当然生きていけないくらい大事なものですが、いちいち「いま空気を吸っている」とは意識しない。あまりに近くにあるものって、「あって当たり前」になってしまって、もはや「ないもの」のように扱われてしまい、普段はその存在の価値をいちいち意識しません。それがなくなった時に、初めてその価値に気づきます。
この当たり前のことを見過ごしたまま「まなざしが固定化」することが、本質が見えづらくなる構造を生み出していると思うんです。だから私は「それをもう一度思い出す」ための手段として、「まなざしをデザインする」という実践を提案しています。私たちは自分の見方が変わった時に、それまで何を見ていたのかに改めて気づくことがたくさんある。その気づき直しに、すごく大きな意味があるんじゃないかと思っています。
なぜ、私たちは「本質」を見失うのか。
まなざしを起点に問い直す
F.I.N.編集部
確かに、私たちは「今の生活が当たり前であり、ずっと続く」と思い込んでいるように感じます。
ハナムラさん
おっしゃる通りで、私たちは、今ある当たり前のことを「前提」に生きています。けれど、それらは実はとても不安定なものでもある。自然災害や紛争が起きたり、法律や制度の変化1つでも簡単に崩れてしまったりします。それにもかかわらず、「この状態が続く」となぜか思い込んでいる。
このように、私たちはこれまで「続いてきたこと」や「目の前の当たり前の状況」を正当化して、長期的な物事の変化が見えなくなることがよくあります。それは仕事でも同じです。良かれと思って提供したサービスが、短期的には正しいと思われても、長期的には負の影響を与えることがあります。
例えば、泣いている子供に砂糖菓子をあげる。すると子供は笑顔になり、大人も自分がしたことで子供が喜ぶのがうれしい。また欲しがるからあげる。一見するとどちらも満足という「いい風景」に見えます。でもそれを繰り返して10年続けたら、子供は糖分の過剰摂取で健康を害するかもしれない。これは僕が「砂糖菓子理論」と呼んでいる極端な例えですが、人は目の前の感情にとらわれたり、すぐに出る結果だけを見ていると、長期的な影響には鈍感になってしまう。だからこそ、今の目の前のことにだけフォーカスするのではなく、時間軸を変えて物事を考える習慣が必要だと思います。
F.I.N.編集部
とはいえ、日々の生活や目の前のタスクに追われていると、そんな余裕すらなくなってしまいますよね。
ハナムラさん
まさにそこに落とし穴があります。今の社会は、意図的に「目の前の表層の情報にまなざしが向くように設計されている」と思うんです。特に社会で価値があると多くの人が思い込んでいることのほとんどは、実質的には想像上の情報にすぎないのではないでしょうか。
例えば、「年収◯◯万円になったら幸せだ」とか、「有名企業に入れば勝ち組」とか、そういうものは多くの人が抱く想像上の価値です。それが情報というカタチで社会のあちこちに埋め込まれている。そして私たちは気づかないうちにそうした情報に合わせた行動をしてしまう。
結果として、多くの人が信じる情報、多数派の意見に流されてしまい、人々は「本質」を見るまなざしを持てなくなる。だから私は、意識的にまなざしを本来の価値に向くように「戻す」ことが大切だと考えます。
F.I.N.編集部
大勢の意見に左右されず、「まなざし」を取り戻すにあたって、自分自身の意識にどのようなアプローチをするといいでしょうか?
ハナムラさん
大勢の人が信じていることであってもそれを鵜呑みにするのではなく、自分で確かめる。何か情報に出会った時、「信じる」でもなく「疑う」でもなく、「確かめる」ことが大切だと思っているんです。確かめることができないなら、それはいったん判断を急がずに「保留」にする。人ってどうしても結論を急ぎたくなるので、何かをそのまま「保留」にしておくことは、勇気がいることです。
でも確かめられないことを無理やり判断してしまうと、かえって本質を見誤ることに繋がります。
世界の見え方が変わる思考の補助線。
3つの「り」が導く見方の転換
F.I.N.編集部
では、本質を見る「まなざし」をより深めるためには、どのような意識が必要だと思われますか?
ハナムラさん
私が『まなざしの革命』で提案したのが、「利・理・離」という3つの「り」を意識することです。私たちが世界や他者、自分自身のものの見方を考える時に、この3つの「り」それぞれが判断や行動に影響を与える補助線になっています。
まず1つ目は、利益の「利」です。私たちは日常的に「得か損か」「効率的かどうか」といった利益の観点から物事を見ています。利益を考えること自体は決して悪いことではありませんが、短期的な利益や自分の利益ばかりを追う態度が当たり前になると、結果として社会や環境に大きな損失をもたらすことになります。資本主義ではこうした「利」のまなざしが非常に強調されて、誰もが自分の利益だけを追求する態度が極まりつつあります。
F.I.N.編集部
長期的な視点を置き去りにしてしまうと、ある時突然、想定外の落とし穴にはまって、あたふたしてしまいますよね。
ハナムラさん
それはあらゆる局面で見られますが、身近な例だとコロナ禍のマスク不足や2025年に起きた米不足が記憶に新しいのではないでしょうか。誰もが自分の「利」だけを追い求めると社会は危険な状態になります。
そこで次に、2つ目の「理」で考える態度が社会に持ち上がってきます。これは道理や倫理、感情や共感で物事を考える態度です。「正しいことをせねばならない」「他者を傷つけてはならない」といった視点ですね。誰もが利益や損得を追求した結果として不平等が広がる社会では、「理」のまなざしが大きくなるのは当然です。ただ、「理」が強くなりすぎると、「正しさの暴走」が起きます。自分の正しさが絶対だと信じて、異なる意見を持つ人や違った正しさを主張する人に怒りの拳を振り上げると、それは他者への共感を通り越して、裁きになってしまう。その時、「理」は本質から外れてしまうんですね。
そこで登場するのが、3つ目の「離」。これは、特定の正しさに執着せず一度離れるまなざしです。「正義感」「理想」などを持つことが悪いわけではないけれど、それは怒りの感情とセットになりがちです。そこで感情にとらわれてしまうと視野が狭くなります。だから正しさや利益から離れることが大事で、「今、自分は何かに強く反応していないか?」「この判断は何に影響されているのか?」と問い直す姿勢が大切です。一方で、この「離」が強くなりすぎると、すべてのことがどうでもいい無関係のことになってしまい、無関心に繋がります。
だから、この3つの「り」のバランスが重要なのですが、特にその順番が大事です。最初に善悪や損得から離れた「離」のまなざしを持つ。その次に今の時代、その社会で何が正しいのかという「理」のまなざしを持つ。最後に、それがどういう利益をもたらすのかを「利」のまなざしで考える。つまり、「離→理→利」の順でまなざしを使うことが重要なんです。
妄想をほどくと、「まなざし」は澄んでいく
F.I.N.編集部
この「離→理→利」のまなざしを、個人が日常のなかで実践することで、どのような変化が生まれるのでしょうか?
ハナムラさん
まずは、自分自身の心が落ち着いてくると思います。「焦らなくなる」ということが一番大きいです。今の社会は誰もが、「何者かにならなければ」「もっと頑張らなければ」と、常に何かに急き立てられている。でも、まずは自分自身への執着から離れる「離」のまなざしを持つことで、そうした焦りやプレッシャーから距離を取れるようになります。
F.I.N.編集部
確かに、少し引いて自分を見ると、「なんでこんなに焦ってたんだろう」と思う瞬間があるかもしれません。
ハナムラさん
自分自身から離れるということは、「自分のあり方」に余白を生みだすことだと思います。自分の価値を「外」に求めるのではなく、「内」から感じられるようになる。すると、他人と比較する必要もなくなるし、無理に何かを演じることも不要になります。そうやってまずは自分を内から感じる状態こそが、本来の「自由」の入口なんじゃないかと思います。
そうした自由な個人が増えていけば、社会の空気も変わっていくでしょう。例えば、他人の意見にすぐ反応して攻撃したり、誰かを「正しさ」で封じ込めたりする風潮も、少しずつ和らいでいくと思うんです。
特に不安に取り憑かれた今の社会は、多くの人が妄想や幻想にすがろうとする「妄想文明」になっていると思っています。「こうすれば幸せになれる」「これを持てば成功だ」といった幻想がビジネスや政治に誘導され、多くの人のまなざしが何かに縛られている。でも、冷静になって「それって本当にそうなのか?」と一人ひとりが問い直し始めた時、その妄想は次第に力を失っていくのではないでしょうか。
F.I.N.編集部
社会全体を変えるのではなく、まずは一人ひとりが自分の「まなざし」に気づくところから、ですね。
ハナムラさん
その通りです。変化は外側からではなく、自分の内側から始まる必要があるのだと思います。私たちは何を見ていて、何を見過ごしているのか。その自分のまなざしに気づくことです。気づきがないと私たちは、誰かが見せる幻想にまなざしが奪われてしまいます。何をいかに見るのかの選択を自分に取り戻すことで、まなざしは少しずつ変わっていきます。具体例を挙げると、今スマホは私たちのまなざしを完全に奪っているものの1つでしょう。だから朝起きて、スマホを開く前に「今日はどんな1日にしたいか」と少し考える。スマホにまなざしを奪われるのではなく、自分が自覚してスマホにまなざしを向けるんです。自分のまなざしを取り戻すことは、人生を取り戻すことにも繋がる。これは決して特別な人だけができることではなく、誰もが始められることなんです。
結局のところ、世界を形づくっているのは私たちが「何を見るか」ではなく、「どう見るか」なのだと思います。その「どう」を少し変えるだけで、見える風景も、世界の関わり方やあり方も、大きく変わってきます。そうした「まなざしの力」で、自分の見方を自分でデザインすること。それによって誰もが社会の幻想から逃れて自由になれる可能性を私は考えたいと思っています。
【編集後記】
今回は「まなざし」を中心にお話をうかがいましたが、同じくらい印象に残ったのが「風景」という言葉です。自分がどのようにまなざすかによって見える風景はいかようにも変わるもので、それは自然の風景だけでなく、あらゆる情報や出来事や自己認識に対してもいえることでしょう。そのなかで「信じる」「疑う」の判断を急がない・まなざしを固定しない姿勢とは決して主体性を手放すようなことではなく、「たくさんの風景を見たい」とでもいうような、ものすごく前向きで豊かな感覚なのだと思いました。
(未来定番研究所 渡邉)