2025.06.24

case5| 〈NICCA イノベーションセンター〉文化から立ちのぼる建築が、地域への窓を開く。

街の一角が変わると、その場で行われる営みが変わり、人々の流れが変わり、街自体が変わっていきます。そんな変化の真ん中にある空間や建物を紐解いていくと、未来の街並みが見えてくるかもしれません。この連載では、街の未来を変えるようなポテンシャルを持った場所を訪ね、そのデザインや企画を担当した建築家やディベロッパーがどのような未来を思い描いているのかを探っていきます。

 

福井県福井市に本社を置く〈日華化学株式会社〉は、84年の歴史を持つ界面活性剤のリーディングメーカー。2017年に以前の研究施設を建て替え、研究開発拠点〈NICCA イノベーションセンター〉として生まれ変わりました。開放的な外観はいわゆる「研究所」の概念を覆し、閑静な周囲の景観にゆるやかに溶け込みます。設計を手掛けた小堀哲夫さんにお話を伺うと、働く場の新たな可能性が見えてきました。

 

(文:片桐絵都、写真:新井隆弘、サムネイルイラスト:SHOKO TAKAHASHI)

NICCA イノベーションセンター

用途:研究施設、オープンスペースほか

所在地:福井県福井市文京4-23-1

施工年:2017年

述べ床面積:7,496㎡

設計:小堀哲夫建築設計事務所

社員が自分ごととして挑む働く場づくり

F.I.N.編集部

〈NICCA イノベーションセンター〉のコンセプトは何ですか?

小堀さん

「Happy Work Place」です。働くことの意義は時代とともに変化し、近年では創造性を向上させる場が求められるようになりました。その先にあるものは何かと考えた時に、出てきたキーワードが「幸せの創造」だったんです。人は大半の時間を働いて過ごすにも関わらず、家づくりにはこだわっても、働く場づくりを自分ごととして捉えることはあまりありません。社員が自分の居場所であると認識でき、働くことに喜びを感じられる場にすることが〈NICCA イノベーションセンター〉の重要なテーマでした。

1階部分はショールームも兼ねている。

化粧品開発のコミュニケーションスペース「ヘアサイエンススクエア」ではセミナーなども実施。

旧施設にあった高い塀を取り払い、盛り土と植栽で緑豊かに。

F.I.N.編集部

どのようにコンセプトを形にしていったのでしょうか?

小堀さん

我々と〈日華化学〉の社員とでワークショップを重ね、建築というハードと、働き方というソフトをドッキングさせながら計画を進めていきました。建築は専門性が高いので、いくらコンセプトを体現する空間をつくったとしても、使い手の理解が追いつかないことがよくあるんですよ。「形はあっても魂がない」という状態です。逆にどんな働き方をしたいか考える場合にも、オブジェクトがなければ言葉やイメージだけが先行してしまい、なかなかうまくいかない。「空間から想起される働き方」と「働き方から想起される空間」を繰り返しキャッチボールできたことは、設計を進めるうえで非常に有効でした。

F.I.N.編集部

ワークショップにはどれくらいの人数が参加したのでしょうか?

小堀さん

設計から竣工までの3年間で徐々に増えていき、最終的には50人近いメンバーが参加しました。何より、使い手の意識が変わったことが大きかったですね。普通オフィスは「与えられるもの」みたいな感覚が強いと思うのですが、ワークショップに参加することで「自分たちの建築だ」という愛着が湧きますし、竣工後も社員自らが空間について語ることができます。建築が地域に根づくには、こうした自走の仕組みを整えることが重要だと思います。

ワークショップの様子。

建築で社内外のコミュニケーションを生み出す

F.I.N.編集部

ワークショップでは、実際にどんな意見が出たのでしょうか?

小堀さん

大きなところでいうと「グランバザール」という概念です。イスタンブールにあるグランバザールのような、人・モノ・情報がごった返す賑やかな市場のイメージですね。そもそもこのプロジェクトが立ち上がったのは、〈日華化学〉の経営陣が「イノベーションを巻き起こせる企業でなければ存在できなくなる」という危機感を抱いたことが始まりでした。従来の研究所というものは閉鎖的になりがちですが、これからはグランバザールのように社外のビジネスパートナーや地域の人々に対しても空間を開き、オープンイノベーションを実践していく必要がある。そこで、広場のようなフリーアドレスの共有空間「コモン」を中央に配置し、周囲を囲むようにガラス張りの研究室と大小のストリートを設けて、街のような建築を設計しました。建物の中を練り歩きながら人や研究風景に出会い、新たな文化とビジネスを生み出すことが狙いです。

共有空間と研究室は驚くほどシームレス。

F.I.N.編集部

そのほか、空間にはどんな意見が反映されていますか?

小堀さん

代表的なものを3つ挙げると、1つ目が1階にあるカフェテリアです。さまざまな人を招いて活発にコミュニケーションが取れるよう、講演会やシンポジウムなどのイベントにも対応する2層吹き抜けの空間にしました。ワークショップでは「将来、研究成果でノーベル賞を獲った時にプレスリリースを行いたい」「ファッションショーを開催したい」などのアイデアが出て、空間の可能性がどんどん広がっていきました。

2つ目は、自然光を多く取り込んでいる点です。福井の日照時間は東京に比べて半分ほどで、年間を通して曇天が多いため、社員にとって日の光はテンションが上がるもの。しかし夏場の暑さなどの兼ね合いから、オフィス空間に自然光を取り入れることは基本的にタブーとされています。そこで着目したのが地下水です。福井は白山連峰に囲まれた盆地で、豊かな水に恵まれています。〈NICCA イノベーションセンター〉の敷地で使われる水も90%以上が地下水でまかなわれているため、コンクリートの中に地下水を循環させ、取り込んだ自然光の熱を冷やして光だけを獲得する仕組みをつくりました。要は「打ち水」ですね。

3つ目が「白テーブル」というキーワードです。〈日華化学〉にはさまざまな研究部署があり、以前はそれぞれフロアや棟が分かれていて、お互いに何をやっているのかわからない状況でした。一方で、通路に白いテーブルが置かれていて、そこで意外とコミュニケーションが生まれているという話が出たんです。その白テーブルは無目的かつ多目的で、単にポンとあるだけなんだけど、誰かがお土産のお菓子を置いて、自然と人が集まって、何気ない会話が交わされる。コミュニケーションの活性化には、こうした機能に縛られないフラットな余白が必要だということがわかりました。そこで、お互いの研究風景が見えるオープンなワンルームの中に「白テーブル」的なフリースペースを点在させ、コミュニケーションを誘発する設計にしました。

あえて用途を定めないフリースペースに社員が集う。

生活と仕事の感覚が溶け合う空間

F.I.N.編集部

〈NICCA イノベーションセンター〉ができたことによって、どんなイノベーションが起こりましたか?

小堀さん

部署間での情報共有が円滑になり、新たなプロジェクトも立ち上がっていると聞いています。全国からの来訪者も爆発的に増え、社外の研究者と毛髪科学の共同研究を進めたり、木材協会や家具メーカーとコラボして独自のポリウレタン塗装技術を開発するなど、さまざまな成果が生まれているそうです。

F.I.N.編集部

2017年の完成から8年が経ち、その間にはコロナ禍もありました。改めてどんなことを感じますか?

小堀さん

本当にたまたまなのですが、デスクを可動式にしていたので、すぐにソーシャルディスタンスを保つレイアウトに変更できたんです。また、屋根裏をオープンにして風を取り込む自然換気の仕組みを採用していたのも功を奏しました。奇跡が重なった部分は大きいですが、5年先の多様化する働き方に対して、先んじた動きができていたのかなという気はしています。

 

また裏通りに設けた「こもり部屋」というブース状の小さなスペースも有効に働いています。これもワークショップの意見を反映した空間で、「オープンなコミュニケーションが必要なのはわかるけれど、そうはいっても1人で閉じこもりたいのも研究者の特性なんだ」という社員の本音がもとになっています。コロナ禍以降、顔を合わせることの素晴らしさを再認識するとともに、プライバシーを保ちながら働ける場の必要性も浮き彫りになりました。社員の声がなければ、この空間は生まれていなかったのではないかと思います。

小さな「こもり部屋」はWeb会議などをする際にも活躍。

F.I.N.編集部

働き方が多様化したことによって、働く場にはどんな課題が生まれていると思いますか?

小堀さん

家で仕事ができる心地良さを知ってしまったと同時に、生活と仕事の場を切り分けられない弊害も生まれましたよね。そこを解決するには、働く場においては家のような癒しが得られ、家においては生活の一部として働くことに喜びを感じられるような、双方の感覚が溶け合う空間をつくることが重要なのではないでしょうか。それが働くということに対する意識を変えるきっかけにもなると思います。

その場所にしか成立しない建築が重要になる

F.I.N.編集部

〈日華化学〉への入社希望者の数もかなり増えたと聞きます。〈NICCA イノベーションセンター〉の存在が、働く環境への意識を変えることにも役立っているのではないでしょうか?

小堀さん

そう考えるとうれしいですね。見学に来て「この空間で働いている人たちと一緒に仕事がしたい」と思ってくださる方も多いようです。その人の部屋を見れば何となく性格がわかるように、環境はすごく大事なんです。これは住居だけでなく街にもオフィスにもいえることで、自分のいる場所が文化をつくり、生活をつくり、その人の性格をつくっていきます。福井を代表する一企業がオープンイノベーションに挑戦した結果、社員の思いを体現する建築が生まれ、地域全体の盛り上がりに繋がった。これは僕としても想定以上の出来事でした。

 

さらに影響は施設外にも広がっていて、「〈NICCA イノベーションセンター〉を見て感動したから」と、火事で全焼してしまった福井・あわら温泉の老舗旅館〈べにや〉から我々に再建の依頼がありました。旅館は地域経済を支える存在なので、街に開いて還元できる場にしようと縁側を設けたところ、年に1回は宿をお休みにして、その縁側で地域の人との交流イベントを開催するようになりました。実は〈日華化学〉の元経営陣もそのイベントをお手伝いしているんですよ。あわら温泉は今、どんどん盛り上がりを見せています。建築を通してこうした関係性が生まれるのは、本当に素晴らしいことだなと思います。

〈べにや〉で開催されたイベントの様子。提供:光風湯圃べにや

F.I.N.編集部

〈NICCA イノベーションセンター〉が「幸せの創造」の連鎖を生み出しているんですね。

小堀さん

文化は土地から引き離すことはできないんですよ。文明は可能ですけどね。例えばフレンチはどこでも食べられるけど、やっぱり一番感動するのはその土地のものをその土地の技法で食べることじゃないですか。建築も同じだと思うんです。そこに住む人の生活様式や特有のエネルギー、文化から立ちのぼってくるような、その場所にしか成立しない建築が今後重要になってくるのではないかと思います。

 

昔、スイスの山を歩いていて、とある教会にたどり着いたんです。中に入って小さな窓から外を見た時に、あまりの景色の美しさに愕然としたんですよね。外にいるほうが自然を感じているはずなのに、そこに屋根があって、椅子がポンと置かれた瞬間に「私って素敵なところにいるんだ」みたいな感覚、ありませんか?それがなぜなのかは説明できないけど(笑)。建築の力はそこに尽きると思っていて。建築は新たな世界への窓であり、人と地域を繋ぐものなんです。

Profile

小堀 哲夫さん(こぼり・てつお)

1971年岐阜県生まれ。法政大学大学院工学研究科 建設工学専攻修士課程(陣内秀信研究室)修了後、〈久米設計〉に入社。2008年、〈株式会社小堀哲夫建築設計事務所〉設立。2017年「ROKI Global Innovation Center –ROGIC-」で「日本建築学会賞」、「JIA日本建築大賞」を同年にダブル受賞。2018年に〈NICCA イノベーションセンター〉で2度目の「JIA日本建築大賞」を受賞する。同施設は、海外でも、風土、地域社会、歴史を踏まえたクライアントとのワークショップを通して、極めて質の高い建築を設計、建設したということで、「デダロミノッセ特別賞」を受賞した。

【編集後記】

「建築は窓である」という言葉からは、目には見えないものを体現し気づかせてくれる建築のパワーを改めて認識させられました。特に企業にはいま、地域性や歴史をふまえて現在地を誠実に確認すること、未来に向けたビジョンを提示することなどが組織の内外から求められているように思います。多くの場合そういったものは言葉やイメージで発表されますが、働く場である建築にこそ、その組織の背景やビジョンを存分に表現できる可能性があるのではないでしょうか。〈NICCA イノベーションセンター〉や周辺地域のお話からは、そのようにして場所が人々の働く感覚を新しくし、そこから生まれた喜びを起点に生活や文化も活性していけるような未来が感じられました。

(未来定番研究所 渡邉)

未来場スコープ

case5| 〈NICCA イノベーションセンター〉文化から立ちのぼる建築が、地域への窓を開く。