今、興味を持ったことを学ぶ場や手段が、以前よりも多様に広がっています。ただ知識を増やすのではなく、新しい視点と出会い、自分自身の世界が広がっていく。そんな体験に、本質的な豊かさを感じる人が増えているのではないでしょうか。知ったり学んだりする経験は、人や社会に何をもたらすのか。そして、これからの暮らしとどのように繋がっていくのか。さまざまな目利きたちとともに探っていきます。
今回お話を伺うのは、詩人であり、〈学習塾ことぱ舎〉の代表でもある向坂くじらさん。かつてわたしたちが教育のシステムのなかで教わってきたのは、あらかじめ用意された正解に従い、社会のルールに適応するための「お勉強」でした。しかし向坂さんは、柳原浩紀さんとの共著『群れから逸れて生きるための自学自習法』(明石書店)のなかで、「勉強することは服従ではなく抵抗であり、自分が自分として生き続けるために必要である」と語っています。他人に自分の人生や感情を消費されないための「抵抗としての学び」とは何か。向坂さんの考えを伺います。
(文:船橋麻貴/イラスト:ワタミユ)
向坂くじらさん(さきさか・くじら)
1994年愛知県生まれ。埼玉県在住。詩人。著書に、詩集『とても小さな理解のための』(しろねこ社)、エッセイ『夫婦間における愛の適温』(百万年書房)、『ことぱの観察』(NHK出版)など。執筆活動に加え、小学生から高校生までを対象とした私塾〈学習塾ことぱ舎〉の運営を行う。クマガイユウヤとのポエトリーリーディング×エレキギターユニット「Anti-Trench」としても活動。初小説『いなくなくならなくならないで』(河出書房新社)は、第171回芥川賞候補作に選出。各媒体に詩や書評を寄稿するほか、国内外でさまざまな詩のワークショップを実施するなど、幅広く活動を展開している。
〈ことぱ舎〉:https://kotopa.com
X:@pomipomi_medama
撮影:かくたみほ 写真提供:河出書房新社
学びは「思考を誰かに渡さない」ための抵抗
F.I.N.編集部
昨今、大人の学び直しやリスキリング、スキルアップという言葉が当たり前になりました。でも向坂さんがおっしゃる「自分が自分として生きるための学び」は、そうしたキャリアや効率のための学びとは一線を画すように感じます。
向坂さん
そうですね。一般的な学び直しは、社会のスピードや要求に適応するための能力開発として語られることが多いですよね。もちろん受験勉強やスキル獲得のように、いかに社会的なステータスを得るかというのも、生き延びることにとって無視できない話ではあると思うので、わたしも否定するわけではありません。一方で最近では、ビジネススキルとは離れた人文的な学びを面白がる大人の方が増えているようです。何ができるかではなく、どうわかるか・どう考えるかというチャンネルを増やそうとしている傾向自体は、すごく素晴らしいことだなと思っています。わたしの場合、学ぶことはそれに加えて、「抵抗」でもあると考えているんです。
F.I.N.編集部
抵抗ですか。
向坂さん
問題意識の出発点には、まさに「抵抗」として勉強しないことを選んでいる子供たちの存在があります。わかりやすいのは学校に行かないことを選んでいる子供たちや、行ってはいても勉強が身近ではなくなっている子たちですね。その子たちは、学校というシステムや、ときにはその先にある学歴ありきの社会全体に対する違和感を抱いていて、勉強しないでいることがそれに対する異議申し立てであったりもします。でもそれは半分、勉強しないためのエクスキューズになってしまっているところもあって。もちろん大人への反発心や抵抗感から勉強したくないという気持ちにある程度の正当性があることは評価したうえで、それでもわたしは「勉強はしたほうがいい」と子供たちに伝えています。何を信じて何を疑うかを自分で選べるようになるためには、自分で学ぶことが一番だと思っているからです。
F.I.N.編集部
それは、大人になったわたしたちにも同じことがいえるのでしょうか。
向坂さん
はい。以前、生徒から「なんでそんなに勉強を教えることに前向きなのか」と聞かれ、「きちんと疑える人を増やしたい」と答えたことがあります。それを突き詰めていくと、結局のところ、どうすれば戦争に反対できるか、と考えているんです。権力が間違った方向に行きそうになったり、もっと日常的な範囲であっても、例えば集団が極端な同調圧力に傾いたりした時に、疑えない、考えない人が多いと、それを止められない。人が言っていることに対して、自分自身で考えることができるか。同調圧力に流されず、1人の人間として思考を捨てないこと。大人になってからの学びもまた、そのための防波堤になることを期待しています。それぞれが考えることで、日常的な衝突はむしろ増えるのかもしれませんが、それはある程度あった方がいい。衝突がない方がいいというのは、それはそれで権力に都合よく利用されやすい論理で、結局、少数派を黙殺することにもなりますから。
楽しくない時間を経由し、自分の足りなさに向き合う
F.I.N.編集部
一方で、世間で語られる学びは「楽しくてワクワクするもの」というポジティブな側面が強調されがちな気もします。
向坂さん
そこは大切にしたいポイントで、「学び=楽しい」と教える側が決めつけてしまうのは、実はすごく残酷で排除的だと思っているんです。「楽しめないなら、あなたには向いてないね」と切り捨ててしまうことになりかねない。それってむしろ暴力的、マッチョイズムだと思っていて。「楽しいからやれ」と言うのは、かえって楽しめる人だけがすればいい、という態度に繋がりかねません。「楽しめない自分でも勉強していいんだ、やったほうがいいんだ」と思える姿勢こそが大切なんです。
F.I.N.編集部
楽しめない自分を責めてしまったり、諦めてしまったりする必要はないわけですね。
向坂さん
わたし自身、そんなに楽しいとは思わない。楽しい瞬間もあるといえばありますが、それって「簡単にはわからなくて悔しいのが、気持ちいい」というどこかマゾヒスティックな、倒錯的な楽しみで、なんとなく後ろめたいようなものでもあります。だから万人に「学ぶことって楽しいよ」とは言えないですし、楽しくなくてもいいからやるという姿勢があっていいと思うんです。例えば本を読んでいて挫折する時、多くの人は「頭が悪いから」と思いがちですが、実際はそうではないことが多い。読めないテキストにもいろいろな段階があって、『群れから逸れて生きるための自学自習法』ではそれを、単語の意味がわからない、単語同士のつながりがわからない、文と文とのつながりがわからない、というふうに整理しました。大人の場合はそこから一歩進んで、「その分野の歴史や背景を知らない」ということも検討するべきところです。一見読みづらいテキストであっても、知識や準備があれば、なんとか補える。もちろん、そんなことをしていると、どんどん「勉強するために勉強する」みたいになっていって、知るべきことが無限に増えていくのですが……。それも含めて、そうやって四苦八苦するのもいいじゃない、と言いたいのかもしれません。
F.I.N.編集部
わからないものを「知りたい」「知識を深めたい」と思った時に、どのように学びを進めていけばいいのでしょうか。
向坂さん
「わかるようでわからないけれど、頑張ればわかるところ」から、ちょっとずつ無理をしていくのがいいと思います。大人がそのプロセスを踏むためには、自分がいかにわかっていないのか、何ができていないのかを考え続けなければいけない。結局はそこから始めるしかないと思います。
F.I.N.編集部
自分の知識の足りなさや誤りに直面するのは、大人にとって少し辛い作業でもありますね。
向坂さん
わたしはどこかやはり倒錯的で開き直っているところがあって、全部わかってしまってはあまりセクシーじゃないと思っているんですよね。わからないところが好きだから、わからなくて悔しいのが好きだからと、自分に暗示をかけているところもあります。でも普通の話をすると、わからなかったものがわかるようになるのは、やっぱり面白いことだし、単純にうれしいことなんですよね。そう思うから、「わからなさ」や「うんざりする気持ち」も、大切に手元にとっておこうと思える。
わたしにも「一生かけても完全には理解できないだろう」と思う本があります。でも読めないからこそ、その周辺にある本を読みながら、螺旋階段を登るように少しずつ理解へ近づいていく。その「わからなさ」に向き合い続けるプロセスこそが、自分で学ぶことの豊かさだと思います。そう思うと、そういう本があってくれることのありがたみといったら、ありませんよね。
〈ことぱ舎〉での発見と、自分の鈍感さに気づくメモ
F.I.N.編集部
向坂さんは〈学習塾ことぱ舎〉で、子供たちが読む力や考える力などを培うために、先生として伴走されています。そうした場に立つなかで、向坂さんご自身の眼差しや感覚に変化はありましたか?
向坂さん
すごくありましたね。例えば、ある生徒がアルファベットの「a」や「m」を独特な書き順で書いていた時、ハッとしたんです。わたし自身、書き順って別に書道の問題であって、読んだり書いたりできさえすれば、ある程度適当に書いて間違えてもいいと思っていたんです。でも、本当に基本的なことが身についていないうちは、「適当に書く」さえできない。つまり、わたしが「すでに書ける側」にいるからこそ、「書き順なんてどうでもいい」と言えていただけであって、基礎的なことができていない子にとっては、時に有害なことだったなとすごく反省しました。
F.I.N.編集部
教える側に立っているからこそ、自分の「当たり前」が解体されるような瞬間があるのですね。
向坂さん
そうですね。それが必要だとも思っていて、指導に関しても、それ以外のささいな考えごとに関しても、細かな日記のようなメモをずっとつけ続けています。人はどうしても忘れてしまう生き物ですし、頭の中で何とも関連づいていない情報は消えていってしまう。だからこそメモを見返すことで、「自分は忘れていたんだ」「なんて世界を大雑把に見ているのだろう」と、自分の鈍感さやいい加減さを自覚することができるんです。
F.I.N.編集部
自分の鈍感さや、見落としていた認識に気づくためのメモなのですね。
向坂さん
メモを残すことで「自分はいかに何も見えていないか」「認識がいかに大雑把か」に気づくことができる。自分の考えの至らなさや鈍感さを知るための、すごく有効な手立てだと思っています。
集団に身を置きながら、「1人で考える個」であり続ける
F.I.N.編集部
自分の内面を整えるだけでなく、知識や学びを通して自分以外の「外側の世界」に触れていくことも、学びの大切な要素なのでしょうか。
向坂さん
そうですね。特に詩人として人前に出ることがあると、「自分らしさを表現するには」と訊ねられることが多々あるのですが、わたしは自分の内面にそんなに面白いものはないと思っていて(笑)。それよりも、自分の外側にある解読しきれないややこしい世界や、自分とは違う他人の論理の方が、ずっと面白くて興味があるんです。自分の内側だけに閉じこもらず、自分から離れたところにある他人の論理や、物事のありように触れていく。そうやって世界を観察する目線が、結果として自分を自由にさせてくれるのだと感じています。
F.I.N.編集部
そのようにして自分とは違う他者の論理を知り、「1人で考える個」となっていくことは、既存のルールや同調圧力から自分を守ることにも繋がりますね。それは社会や人間関係から孤立することとは違うのでしょうか?
向坂さん
「群れから逸れる」というのは、社会やコミュニティから完全に逃げ出すべきだということではありません。集団や組織の中に身を置きながらも、思考までその集団に飲み込まれず、「1人で考えられる個」としてそこに存在することがいかにできるか。とは言えわたし自身は、あまり無理して集団に入らない道を選べてきてしまった人間なので、偉そうなことは言えませんが……。組織やコミュニティの中にいながらも「1人の個」としての思考を持ち続けること。それは、多くの人たちに追随していくような集団の暴力的なダイナミクスから身を守るための、数少ない方法なんだと思っています。
F.I.N.編集部
1人で考える力を持つことで、自分の生きづらさや世界の見え方は変わっていくのでしょうか。
向坂さん
正直に言えば、短期的にはむしろ生きづらくなるでしょうね。「空気」を読んで、他人に判断を任せておいた方が、その瞬間瞬間の衝突は減るでしょうから。でも、そうやって他人と摩擦を起こさないことを第一にした選択をし続けることこそが、結局は社会全体の長期的な生きづらさや、権力の暴走を止められないといった深刻な事態に繋がっていくと思うんです。だからこそ、自分の目で世界を見つめ直す人が増えてほしいですね。
F.I.N.編集部
安易な生きやすさに流されず、自分の頭で考え続ける人が増えることが、結果として社会を根底から変えていくのですね。
向坂さん
大人の学び直しにしても、手軽な要約や効率に流されず、手間のかかる読書や思考に耐えられるチャンネルを自分の中に残し続けること。1人ひとりが思考を手放さない姿勢を持ち続けることこそが、巡り巡ってこの先の社会を少しずつ生きやすくしていくのだと思います。
【編集後記】
考えることをやめない、ということが今とても大切だと感じます。「やめない」ためには、自分の「わからない」「想像できない」に何度も向き合ったり、考える方法を何度でも試してみたり、考えたことのないものを考えてみたりすることになるでしょう。向坂さんのお話にあったとおり、それは時として楽しめなさや生きづらさとなるものです。でも、そういった壁にぶち当たって初めて自分の内側や外側が見えてくるということや、生きづらさを感じる自分の想像がいつか誰かの生きづらさを少し和らげるかもしれないことについても考え続けたいと思います。
(未来定番研究所 渡邉)