2024.12.25

わからないことがあるから満たされる。文芸評論家の三宅香帆さん。

最近「満たされた」と感じたのはいつでしょうか。時代が進むにつれて世の中はモノがあふれ、「贅沢」を味わう手段も増えていきました。一方で、たくさん消費することよりも1点1点の質を重視する人、お金ではなく時間をかけること自体を「贅沢」に感じる人も多いよう。「贅沢」や「豊かさ」の定義が変化する今、私たちを「満たす」ものはどういったものなのでしょうか。目利きたちに自身の経験やアイデアを伺いながら探っていきます。

 

モノ・コトが手に入りやすい現代では、知的好奇心を満たすことこそが贅沢な体験・時間になるのではないかと考えました。そこでお招きしたのは、文芸評論家の三宅香帆さん。幼少期から親しんできた読書について、「自分の知らない外の世界に連れ出してくれた」と話します。読書によって、新たな知識を得たことで起きた変化とは? 人生観を変えた本をご紹介いただきながら、ご自身の実体験とともに伺います。

 

(文:船橋麻貴/写真:大崎あゆみ/サムネイルデザイン:久保悠香)

Profile

三宅香帆さん(みやけ・かほ)

文芸評論家。京都市立芸術大学非常勤講師。1994年高知県生まれ。京都大学人間・環境学研究科博士後期課程中退。リクルート社を経て独立。主に文芸評論、社会批評などの分野で幅広く活動する。著書に『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』(集英社)、『「好き」を言語化する技術』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)など多数。

 

X:@m3_myk

 

「満たされなさ」が心地いい読書の存在

F.I.N.編集部

今回の特集テーマは「満たす」です。三宅さんは今、満たされていますか?

三宅さん

どうでしょう……。満たされていないかもしれません。そもそも「満たされた」と感じることがあまりなくて、どちらかというと「もうちょっと」と追い求めてしまうタイプ。とくに私は本を読むのが好きなので、読みたい本って無限になくならなくて。幼少期から「もっと読みたい」という気持ちがずっと続いているんですよね。

F.I.N.編集部

確かに、一生かけても世の中にある本全部を読み切るのは難しいですよね。

三宅さん

むしろそういう「満たされなさ」が心地いいのかもしれません。読みたい本が無数にあって、その欲を100%満たすことはできない。終わりがないから追いかけ続けないといけないけど、それが自分のモチベーションになっている気がします。

F.I.N.編集部

自分を満たすものを考えた時、やはり読書の存在が大きいですか?

三宅さん

そうですね。本には先人たちの研究や知恵が詰まっているので、それに触れられた瞬間は満たされる感覚がありますね。新たな知識を得ることで、新しい文脈への扉が開ける感じがするというか。その扉が開けたら、そこから付随して知識がさらに広がって深まっていく。もちろん、映画や演劇などほかのエンタメでもそういう感覚は得られると思うのですが、本はいつでもどこでも新たな知識と文脈に触れられる。それが一番の魅力だと思います。

 

あとは、現実や日常から自分を切り離してくれるのも、自分を満たす要素として大きいかもしれません。自分と対峙したり、内省したりする時間は大切だと思う反面、そればかりだとやっぱり疲れてしまう。一方、例えば人文書や批評書を読むことは、社会の問いについておのずと考えることになるので、いつもの自分をかたわらに置いておけるんです。そういう点も踏まえて私にとって読書は、いつもの自分を新たな世界に連れ出してくれる大切な存在。それは子供の頃から今でも変わりません。

F.I.N.編集部

ちなみに、読書のほかに贅沢だと感じる瞬間はありますか?

三宅さん

今着付けを習っているのですが、すごく贅沢な時間になっています。きものを着るという行為自体、手順が多く利便性は高くない。だからこそ贅沢だなって。なかでも一番贅沢に感じるのは、「わからない」と言えること。大人になって仕事をしていると、「わからない」とはなかなか言いづらい。その点、着付けを習っている時は生徒と先生という関係性が確立しているし、先生にとって「わからない」ことは当たり前のこと。必ず受け止めてくれるから、わからないことや知らないことに前向きになれる気がします。そう考えると、やはり自分にとって何かを新たに知るということは、自分を満たす贅沢な体験になっていると思います。

読書はいつだって、新たな世界に連れ出してくれる

F.I.N.編集部

三宅さんはこれまでたくさんの本を読んできたと思います。それでもまだ、新たな知識に出会えるものですか?

三宅さん

はい、新たな知識との出会いばかりです。その中には偶然性がいくつもあって、「この本にはおそらくこういうことが書いてあるだろう」という予想に対して、自分を遠くに連れて行ってくれるものもあります。気づいたら想像していなかったところに来ていた、ということもよくあって、そういう偶然の出会いから好きになったものや面白いと感じたもので、今の自分が形成されたと言ってもいいくらいです。

F.I.N.編集部

三宅さんに新たな知識を授け、未知の世界に連れ出してくれた本、ぜひ知りたいです!

三宅さん

例えば、小学校5年生の時に読んだ『クローディアの秘密』(E・L・カニグズバーグ、岩波書店)は、自分の感情に言葉を与えてもらった1冊です。優等生の主人公が多い児童文学の中で、この作品に登場するクローディアは自分の意思をしっかりと持っているタイプ。それまでも児童文学をたくさん読んでいたのですが、登場人物に共感を抱く体験は初めてでした。

『クローディアの秘密』は、主人公のクローディアが弟を誘って家出をし、ニューヨークのメトロポリタン美術館に向かう物語

三宅さん

あとは、新しい漱石観が書かれた『夏目漱石』(江藤淳、講談社)。文芸批評というジャンルの面白さを知り、文芸評論家になるきっかけになった本です。現在、批評=批判という認識になっている部分がありますが、実は文芸批評はそうではありません。作品から問いを立てて社会に対する影響を提示したり、芸術的価値や史的位置などをわかりやすく解説したり。フィクションの作品を読むのとはまた違って、新たな知識との出会いがたくさんあります。

 

それから、欲望をテーマに執筆していた時に読んだ『人生のレールを外れる衝動のみつけかた』(谷川嘉浩、筑摩書房)も、たくさんの新たな知識に出会えた1冊。欲望のもっと先にあるのが衝動だと思うのですが、そのバランスを取るのって難しい。この本に出会って衝動の根底にある推進力の素晴らしさを学びました。

京都在住の哲学者・谷川嘉浩さん著の『人生のレールを外れる衝動のみつけかた』。「衝動とは何か」「どうしたら衝動を生活に実装するのか」といったことが説かれている

F.I.N.編集部

どの本も新たな知識との出会いがいっぱいありそうですね。

三宅さん

新たな知識や未知の世界に触れられる漫画『ゴールデンカムイ』(野田サトル、集英社)も、自分にとっては大切な1冊です。これまで描かれることの少なかった日露戦争やアイヌの文化などを教えてくれ、漫画としての面白さはもちろん、いくつもの知識の扉が開かれます。

明治時代末期、日露戦争終結直後の北海道周辺を舞台に、金塊争奪戦を繰り広げる漫画『ゴールデンカムイ』。アイヌの食や文化も多く描かれている

「わからない」は人生を彩ってくれる

F.I.N.編集部

たくさんの本をご紹介いただき、ありがとうございます。そういった本に出会うための秘訣はあるのでしょうか?

三宅さん

本屋さんに行った時、小説以外の棚を覗くようにしています。やっぱり小説だと好きな作家を選びがちなので、新書や人文書、ビジネス書の棚を見てみるんです。そうすると、自分が興味のありそうなタイトルの本が見つかりやすい。パトロールするような気持ちで本屋さんを回遊してみるのがおすすめです。

F.I.N.編集部

書店パトロール、面白そうです。そうやって出会った本で好奇心が満たされる一方で、わからないことや新たな問いがさらに出てくることもあると思います。その場合、どう向き合ったらいいでしょうか?

三宅さん

私の場合、わからないことや問いを日記に書いたりします。言葉に整理することで、新たに出現した問いについて、知りたくなったり調べたくなったりとさらに追求したくなるんですよね。新たに知りたいことが見つかるのは、この先の長い人生を楽しく過ごすテーマが増えたということ。だから、とてもいいことのような気がします。

F.I.N.編集部

人生において、新しい知識を得ることはやはり大切なのですね。

三宅さん

仕事やプライベートでも、自分の世界だけだとどうしても行き詰まる瞬間があると思うんです。そんな時に新たな世界に連れ出してくれるような媒体があれば、違った選択肢が見えてきたりする。もちろん本じゃなくたっていいですが、新たな扉を開いてくれる存在があると、人生に迷ったときの指標になってくれると思います。

F.I.N.編集部

最後に、この先「満たす」という価値観はどう変化していくと思いますか?

三宅さん

SNS社会となった今、満たされている人や贅沢している人を見て、嫉妬心や批判的な気持ちを抱く人も少なくないと思います。それはやはり、自分がどうしたら満たされるかがわかっていないからではないでしょうか。自分を満たすものは何か。私自身、その答えが100%出せるわけではありませんが、その答えに近づくために問い続けることをやめなければ、満たされないという不全感を払拭できるはずです。

【編集後記】

5年先で定番になってほしい価値観は何か?と考えるとき、「豊かさ」という言葉が思い浮かぶことが多々あります。それがどんなイメージなのかというと「とにかくたくさんある」のではなく「いろいろな世界に接点がある」状態というのが近そうです。

本を読んでも読んでも満たされない、もっと知りたい、と感じ続けることは、三宅さんの表現をお借りすると扉を開き続けることなのだろうと思います。そうやってたくさんの世界にアクセスできることが本を読む楽しさであり、例えば本を読むことで知らない世界・わからない世界を面白がり続けることできれば、それは自分が豊かであることに少し似ているかもしれません。

(未来定番研究所 渡邉)

撮影協力:青山ブックセンター