2024.08.21

言葉

言葉の変化は乱れではない。国語辞典編纂者・飯間浩明さんの「変わりゆく言葉」の捉え方。

日頃から私たちそれぞれが思いを伝えるために使っている「言葉」。近年はインターネットやSNSが生活に定着し、以前よりも個人が言葉を発信する機会が増えたように思います。SNSを発端に新しい言葉やそれにまつわる文化が次々と生まれる一方で、不特定多数の人に触れられることから、違う意味合いで思いが伝わってしまうことも。言葉の楽しさにも難しさにも直面している今こそ、F.I.N.ではその可能性を信じて探求していきます。

 

新しい言葉はどのように生まれ、変化し、定着していくのか。そんな疑問を抱えたF.I.N.編集部は、国語辞典編纂(へんさん)者の飯間浩明さんの元へ。国語辞典に掲載するため、飯間さんは言葉がどのような場所で、どんな風に使われているのかを記録し、集める「用例採集」を行っています。辞書づくりに心血を注いできた飯間さんに、現代における言葉の成り立ちや変化、定着について伺います。

 

(写真:大崎あゆみ/サムネイルデザイン:岡本太玖斗)

Profile

飯間浩明さん(いいま・ひろあき)

国語辞典編纂者。1967年香川県生まれ。『三省堂国語辞典』第6版(2008年刊行)から編纂に携わる。著書に『辞書を編む』(光文社新書)、『日本語をつかまえろ!』(共著、毎日新聞出版)、『日本語はこわくない』(PHP研究所)など。特定の好きな言葉はない。その理由は、「1つの言語を自動車にたとえると、個々の言葉はその部品で、どの部品も全部大切だと考えるから」。

X:@IIMA_Hiroaki

「悪いこだわり」がなくなった

F.I.N.編集部

国語辞典を作る仕事は、言葉に相当のこだわりがなければできないと思います。言葉への関心は子供の頃からあったのですか?

飯間さん

言葉へのこだわりは人一倍ありましたね。「こだわり」と一口に言っても、コミュニケーションに役立つ「良いこだわり」と、そうではない「悪いこだわり」があります。より良い表現を選ぼうとするのは「良いこだわり」でしょう。でも、私の場合は、覚えたばかりの難しい漢字をやたらに使おうとしたりしてね(笑)。これは「悪いこだわり」だったかもしれません。

F.I.N.編集部

難しい漢字を覚えるのは「悪いこだわり」なのですか?

飯間さん

自分だけで満足していたという意味でね。この「悪いこだわり」は大学院の頃まで続きました。とにかく難しい文章が書きたかったし、言葉の使い方にも厳格なマイルールを課していました。例えば、「コンビニ」なんて絶対に言わない。ちょっとした会話でも、「コンビニエンスストア」ときちんと言うわけです。1990年代には、世間では「コンビニ」が普通になっていましたが、私は省略しませんでした。「コンビニ」でもいいや、と受け入れたのは21世紀になってからです。

F.I.N.編集部

日常生活で「コンビニエンスストア」と省略せずに言う人は、なかなか珍しいかもしれません(笑)。

飯間さん

そうでしょう。「コンビニ」という省略語は必要に迫られて生まれました。日常生活のなかでコンビニが不可欠な時代になり、1日に何度も話題になります。いちいち長く言っていられないので、省略語を使うことは理屈に合っています。そういう当たり前のことが、私にはわからなかったんです。

F.I.N.編集部

たしかに、私たちは頻繁に使う言葉を短くしがちです。新しい言葉は必要に迫られるから生まれるのですね。

飯間さん

ええ。とくに若い世代は省略語を含め、新語を多く作りますよね。LINEのやりとりでは「了解」を単に「り」と書いたりします。「日本語を乱している」という意見もあります。たしかに、新聞で「り」と書いたら意味不明でしょう。でも、友だち同士で素早く意思疎通するためには、「り」が最も「理に適って」います。思わずしゃれになりましたが……。

F.I.N.編集部

飯間さんは今、言葉への「悪いこだわり」はなくなったのですか?

飯間さん

不必要に難しい言葉を使ったり、省略しない言い方で押し通したりすることはなくなりましたね。とりわけ、辞書の仕事をするようになってから、言葉に対する見方は変わりました。

F.I.N.編集部

言葉の見方が変わったのはなぜですか?

飯間さん

私が『三省堂国語辞典』の編纂に参加したのは2005年頃からです。初めのうちは、「この言葉は誤り」と断定することに強い疑問は持ちませんでした。でも、先ほどの「り」でわかるように、どんな言葉にも存在理由があります。簡単に「この言葉は誤り」とは決められないんです。なぜなら、「誤り」とされる言葉や使い方は多いですが、一方で、その言葉に馴染んで使っている人もいるわけですから。仲間同士で意思を伝え合うという目的は十分果たしています。そういう言葉は「俗語」「若者言葉」かもしれませんが、必ずしも「誤った日本語」とは言えないでしょう。

 

辞書づくりの仕事を通じて、私は「この言葉だけが正しい」というこだわりを捨てて、「言葉は、みんな違って、みんないい」という、別のこだわり方をするようになったと言えます。

言葉が変化し、定着するまで

F.I.N.編集部

そうは言っても、「誤用」とされる言葉を使って指摘されると、やはり恥ずかしい気持ちになります。

飯間さん

よく例に出される「誤用」の大半は、実はすでに定着しています。意思疎通のうえでは問題にならないことがほとんどです。例えば、「檄(げき)を飛ばす」は、「監督が選手に檄を飛ばした」などと激励の意味で使うのは「誤用」だと言われますね。

F.I.N.編集部

えっ。恥ずかしながら、今初めて知りました……。

飯間さん

いえ、誤用だという指摘があるものの、「監督が選手に檄を飛ばした」という言い方は、活字でも放送でも普通に使われているんですよ。では、本来の意味はというと、「檄文(げきぶん)を大勢の人に飛ばす」ということでした。「檄文」というのは、人々に決起を促す主張を書いた文章です。それを大勢に送って訴えかけるのが「檄を飛ばす」です。

 

でも、そんな意味でしか「檄を飛ばす」が使えないとなると、一体、この言葉を使う局面はあるのかという話になります。普通の人は、世の中の人に決起を促す文章なんか書きません。私だって書かないですね。すると、せっかく「檄を飛ばす」という成句があるのに、「言葉の持ち腐れ」になってしまいます。「檄を飛ばす」は、元の意味ではほとんど使う機会はありませんが、人々が無意識に意味を変化させたことで、言葉が有効利用される結果になりました。これは合理的なことです。

 

メディアによっては、「檄を飛ばす」を激励の意味で使うことは避けています。でも、それはあくまで、そのメディアの内規にすぎません。

飯間さんがパソコンで記録している用例採集。「檄を飛ばす」がどこでどう使われたかが書かれている

F.I.N.編集部

そう聞くと、たしかに「誤用」と決めつけるのは難しいですね。

飯間さん

これが「言葉の変化」ということです。言葉は、より使いやすい方向へと変わっていきます。「言葉が乱れて、壊れていく」という捉え方は適切ではありません。ズボンが体に合わなくなってくると、ウエスト部分を直したりして、再びはけるようにしますね。それと同じで、言葉が世の中に合わなくなってくると、語形や意味を変えたりして、再びその言葉を使えるようにするのです。また、お気に入りのズボンは、できるだけ長くはこうとします。同じように、言葉も人々が愛着を持って、いつも使うようになれば、いくらでも長持ちします。私はこれを「言葉の定着」と言っています。

F.I.N.編集部

言葉の場合、どのような状態になれば「定着」と言えるのでしょうか?

飯間さん

定義するのは難しいですけどね。私の場合、その言葉が広まって10年経ってもまだ使われていれば、一応「定着した」と考えます。例えば、2019年に突如として「タピオカドリンク」のブームが起こりました。その後、急速にブームは終息しましたが、言葉も一緒に消えたわけではありません。街のなかでも「タピオカドリンク」という言葉を目にします。手元のメモによると、私が初めて「タピオカドリンク」という言葉を雑誌から拾ったのは2006年のことでした。それからもう20年近く、この言葉は存続しています。ブームの有無とは関係なく、「タピオカドリンク」は言葉として必要とされ、定着しているのです。

言葉はどう変わっていくのか

F.I.N.編集部

言葉が変化し、定着していくプロセスはよくわかりました。こうしたプロセスを繰り返しながら、言葉はこの先、どのように変わっていくのでしょうか。

飯間さん

非常に難問です。未来のことはわからないとしか……(笑)。ただ、世の中の変化に応じて、それに一番ふさわしい形に変わっていくだろうと考えられます。

 

少し前には、新型コロナウイルスの感染拡大によって、社会が一変するという状況がありました。人々は外出を控え、出歩く時はマスクをするようになりました。こうした「コロナ禍」の時代には、それに必要な言葉の変化が起こりました。「クラスター」「ソーシャルディスタンス」「ステイホーム」など、膨大な数の新語が現れたし、「ちょっと密だ」(混んでいる)といった新用法も生まれました。社会の激変に合わせて、言わば「大急ぎで」言葉の変化が起こったのです。

F.I.N.編集部

社会の大きな変動に伴い、言葉も急ピッチで変わるのですね。

飯間さん

コミュニケーションの環境も、ここ十数年の間に大きく変わりました。SNSの使用が全世代で広がって、家族同士でさえ、大事なことはLINEでやりとりする場合も多いですね。そうすると、SNSというコミュニケーションの形にふさわしい言葉の変化が起こります。先ほどの「り」は象徴的です。それ以外にも、絵文字を駆使して意思を伝えるようになりました。どういう気分の場合はどういう絵文字を使う、というルールも何となく一般化しています。

 

こういった社会の大きな変化、コミュニケーションの形の変化は今後も考えられるでしょう。私はよく「昨日の言葉で今日は語れない」と表現します。その時代に必要な言葉は、その時代に作るしかありません。

F.I.N.編集部

そうなのですね。では、明日の世の中も今日の言葉では語れませんね。これから先、例えば、絵文字の使用頻度が今よりも増える、ということはありうるでしょうか?

飯間さん

必要ならばありうるでしょう。絵文字のルールが厳密になって、漢字のように決まった使い方が定着するかもしれませんね。あくまで空想ですが。ただ、もしそうなったとしても、それは人々が無意識に言葉の使い勝手をよくしていった結果だと考えられます。現代では不合理と思われる言葉の使い方が、未来には自然で合理的になることだってあるでしょう。言葉は決して「乱れて、壊れていく」ものではないと、私は楽観的に考えています。100年先の未来には、言葉はもっと使い勝手がよくなるに違いありません。

【編集後記】

取材中、日々目まぐるしく変化していく社会において、言葉だけが取り残されていくのはたしかに不自然だよなあ……と考えながらお話を伺っていました。「言葉は生き物」というフレーズが使われることもありますが、今回の取材をきっかけに、実感を伴ってその意味を理解したように思います。

また、飯間さんは言葉の変化について、本文中の内容以外にもさまざまなお話をご紹介くださいました。例えば最近よく耳にするようになった「エモい」という言葉は、辞書で引くと「心がゆさぶられる感じだ」などといった説明とともに、「古語の『あはれなり』の意味に似ている」という文言でも紹介されているそうです。「言葉が失われると心も失われる」と言われることがありますが、それぞれの時代に合わせて、私たちが潜在的に持つ感覚や価値観は変わらずに引き継がれていくのだと思うと、ほっと安堵しました。時代は移り変わっていくものですが、変わりゆく言葉をおおらかに受け止めながら、社会の変化を楽しんでいきたいと思います。

(未来定番研究所 岡田)