もくじ

2025.12.15

「褒める」のその先へ。佐伯夕利子さんが語る、「選択に寄り添う」指導のカタチ。

悪い点を指摘するのではなく、まずいいところを見つけて褒める。そんな場面が少しずつ増えてきました。自分自身を褒める動きが見られたり、成果や結果だけでなく「その人らしさ」が褒められたりと、「褒められる事柄」も、以前より広がってきているように思います。

 

では、褒め合うことが当たり前の社会に突入するために、私たちはどんな考え方を持つといいのでしょうか。何をどう褒めるかを見つめ直すことは、これからの価値観にもつながっていくはずです。F.I.N.編集部は、時代の目利きたちとともに「褒め合う社会になっていくには?」を考えていきます。

 

褒め合う文化が広がることは前向きな変化である一方で、褒められることが目的化すると、行動が他者基準に傾いてしまう危うさもあります。では、主体性を損なわずに人の成長を支えるには、どんな関わり方が望ましいのでしょうか。それを教えてくれるのが、スペインを拠点にサッカー指導を続けてきた佐伯夕利子さんです。

 

スポーツの現場から見えてきた、指導する側とされる側の新しい関わり方とはどのようなものか。私たちの日常にも応用できるコミュニケーションのヒントを伺いました。

 

(文:末吉陽子/イラスト:加納徳博)

Profile

佐伯夕利子さん(さえき・ゆりこ)

1973年イラン・テヘラン生まれ。2003年スペイン男子3部リーグ所属の「プエルタ・ボニータ」で女性初の監督に就任。2004年「アトレティコ・マドリード」女子チーム監督や普及育成副部長等を務めた。2007年「バレンシアCF」でトップチームを司る強化執行部のセクレタリーに就任。「ニューズウィーク日本版」で、「世界が認めた日本人女性100人」にノミネートされる。2008年「ビジャレアルCF」と契約、男子U19コーチやレディーストップチーム監督を歴任、2012年女子部統括責任者に。2024年からは「スポーツハラスメントZERO協会」理事に就任。

「褒める」という発想がない。

スペイン流は「正の強化」

F.I.N.編集部

海外で指導されてきたなかで、「褒めることの意味」や「褒めることに対する考え方」について、日本との違いや共通点をどのように感じますか。

佐伯さん

日本の「褒める」という考え方には、ものすごく違和感があるんです。私は18歳でスペインに来て、指導現場に長く関わってきました。そのため、どうしてもスペイン流の人間関係が自分のスタンダードになっていて、その感覚で話してしまうのですが、少なくとも私が指導している現場では、褒めるという言葉はほとんど出てきません。

 

スペイン語には「elogiar(エロヒアール/称賛する)」という言葉があるのですが、人の育成ではほとんど出てこないんです。では、どんな言葉でアプローチしているかというと「正の強化」です。

 

私たちがやっているのは、もっと自然体で、目の前で起こった事象をそのまま「正の強化」としてフィードバックすること。選手たちのいい行動やチャレンジを、栄養として返していく。それがスペイン人にとっての「褒める」に近いものなのかもしれません。

F.I.N.編集部

日本では「飴と鞭」や「人参をぶら下げる」という言い方もあります。褒めること自体に、ある種の呪縛があるようにも感じます。

佐伯さん

褒めるという行為をインセンティブ、人参のように使うと、子供のフォーカスは「監督に褒められたい」に向かいます。矢印が指導者に向いてしまう。でも本来、私たちが焦点を当てなければいけないのは、彼らが行った「選択・行動・言動・プレー」そのものですよね。

 

私たちが飴や人参を与え続けると、子供は「監督が喜ぶこと」を先回りし、承認を得るためのパフォーマンスに集中してしまう。一方で、「今のチャレンジはよかった」「そのトライはいいね」と、行為そのものにフォーカスを当ててフィードバックすると、彼らはその行為の再現を目指すようになります。

 

一方で、叱ることを「負の強化」と呼んでいますが、これは「回避」を生みます。「何やってんだ」と言われた行為を、ただ避けるようになってしまいます。

F.I.N.編集部

確かに、「誰を喜ばせるか」に意識が向いた瞬間に、プレーの質よりもご機嫌取りが優先されてしまいますよね。そして今のお話を伺っていると、「褒める」「叱る」という概念で言葉を投げかける限り、どうしても他者基準の行動から抜け出せない構造になっているのだと感じました。

佐伯さん

「褒める」「叱る」という考え方は、いささか乱暴ですよね。プロセスを飛ばして、「即効性」を求めている感じがしてしまいます。

 

日本語はとても豊かな言語ですが、抽象的な表現も多く、コミュニケーションもふわっとなりがちです。

 

直接的にものを言うのは良くない、という文化もある。そうした背景があるからこそ、「叱る」と「褒める」という抽象的な発想が根づいているのかもしれません。

フィードバックは「栄養」として返す。

自己確立を支える、日常の民主主義を重視

F.I.N.編集部

結果が出なかったり、ミスしたりした時に、どう声をかければいいか悩むことがあると思います。どんなことを心掛けていますか。

佐伯さん

まず、評価の軸をブラさないようにしています。以前の私たちは、「上手にできたかどうか」を最上位に置いて指導していました。でも今は、「トライしたか」「チャレンジしたか」というポイントに評価の軸を移してフィードバックしています。

 

フィードバックの語源は「フィード=食べ物・栄養」「バック=戻す」。つまり、栄養を与える行為なんですね。目の前にいる選手や指導者、マネジメント層の人たちに対して、その成長と進化を応援し、昨日できなかったことが今日少しでもできるように、栄養を返していく。

 

もちろん、「絶対にダメなこと」ははっきり伝えます。ただ、栄養としてのフィードバックは「タイミングを逃さない」「手を抜かない」「面倒くさがらない」。しつこいくらいするようにしています。

 

ミスをした時も同じです。「なぜその選択をしたのか」を問うことが大切です。「どうして今、その判断をしたんだっけ?」と聞く。一方的なジャッジではなく、コミュニケーションから始めることで、選手自身が自分の行動を理解し、言葉にできるスペースを持てるようにします。

F.I.N.編集部

はっきり言葉で自己表現できる子もいれば、そうでない子もいます。問いかけるアプローチは、どんなタイプの子にも有効だと感じますか。

佐伯さん

私は有効だと思っています。ただし、大人側の働きかけが必要です。スペインでは「ボイスとボート(声と票)」を大切にしています。つまり「意見を持つこと」と「そこに参画し、一票を投じること」です。民主主義社会に生きる人間であれば、本来は誰もが持っていて、認められなければならないものです。

 

スペインの日常生活では、小さな子供でも声と票を持つことが当たり前になっています。クラスで小さな揉め事があっても、「皆どう思う?」と問われ、1人ひとりに意見を言う機会があります。発達段階に応じた言葉で、自分の意見を表現することが日常のなかで求められます。

 

そうした経験を通じて、「意思」が鮮明に芽生えていきます。教育の本来の役割は、知識を与えるだけでなく、「自己を確立していくプロセス」を支えることにあるはずです。ところが日本の教育は、どうしても記憶学習に偏りがちで、「その出来事についてどう考えるか」を問われる機会はほとんどありません。

だから、自分の声や票を持つ感覚が育ちにくいのだと思います。海外で育った子供が「自己主張ができる」といわれるのも、もともとの性格というより、自己を確立するためのプロセスが丁寧に用意されてきたからだと感じます。

大人のインターセプトが奪う「問題解決力」。
「譲れないライン」だけ示し、あとは子供に決めさせる

F.I.N.編集部

日本では、大人が子供を操作してしまう側面も一部ではあるように感じます。叱ったり褒めたりして、既存のルールのなかに当てはめていくような。

佐伯さん

学校でも、校則でがんじがらめにしてトラブルを事前に潰す発想がありますよね。もちろん、生徒を思ってのことだとは思いますが、それが本当に彼らのトラブルシューティング能力を育んでいるのかというと疑問です。

親子関係でも親が「過保護」になってしまい、「こういうトラブルが起こるから、あなたはこう対応しなさい」「あなたは対応しなくていい。ママが解決してあげる」とインターセプト(先回り妨害)することがよくあります。こうした過度な介入が続くと、子供は自分で問題を処理する経験を積めません。

 

スポーツの現場でも、ベンチの監督やコーチの顔色ばかりうかがいながらプレーしている選手がいます。一時的にパフォーマンスを出せても、自分で飛び立っていく力は育ちません。

 

大人がインターセプトして問題の芽を摘みすぎると、将来自立した時に自分の力だけで生きることに限界を感じてしまうのではないか。そこは大人が考え直す必要があると感じます。

 

生きていると、誰にでも必ず問題が起こります。私たちは大小さまざまな問題を1つひとつ解決しながら生きているわけです。問題解決能力というと難しく聞こえますが、本来は日常のなかで起こるさまざまな小さな問題を自分で処理していく力です。

 

スポーツ界だけを見ても、選手たちにそうしたマイクロな問題解決力を身につけてもらうことが、指導者の大切な役割の1つだと思います。

F.I.N.編集部

もしかすると、「失敗が許されない雰囲気」や「落とし穴にはまってほしくないという思い」から、インターセプトしてしまう大人も多いと思います。その発想から距離を置くには、どのような心構えが必要でしょうか。

佐伯さん

まず、大人側で「譲れないライン」をはっきりさせることです。サッカーはチームスポーツなので、例えばボールを奪われたあと、全員でディフェンスに戻らなければいけない場面がありますよね。そこで手を抜いて戻らない選手は、チームスポーツの前提を壊してしまう。ここは妥協してはいけないラインです。

 

そうした「絶対に守ってほしい約束事」を、チームのなかでせいぜい10個程度に絞って明示するといいです。アスリートであれば「手を抜かない」「チームメイトを馬鹿にしない」「チャレンジできるのにしない」などですが、普遍的に外せないところだけをはっきりさせます。

 

それ以外の部分は、「トライしたならいいじゃないか」とフォーカスを変える。あくまで本人の選択にスポットを当て続けることが大切です。

「大切に扱われなかった経験」が、

ハラスメントの根本にあるのではないか

F.I.N.編集部

日本の部活動では、いまだに暴力や暴言による指導が問題になっています。その風潮が根強く残る背景には、どのような構造があると見ていますか。

佐伯さん

日本人は、「人として大切に扱われない経験」をあまりにも多くしているのではないか。これが私の実感です。

 

それは、家庭内暴力のような極端な例に限りません。家庭を一歩出た先で出会う大人、先輩、先生、上司などから、雑に扱われる経験がとても多いのではないかと感じます。罵倒されるだけでなく、小馬鹿にする視線や態度、言葉にならない扱いも含めて、です。

 

自己認識は、「自分が思う自分」「なりたい自分」に加え、「他者から思われている自分」「他者から望まれている自分」のミックスでつくられます。そのため、他者から雑に扱われ続けることで、「私はこの程度の人間なんだ」と自己認識が歪んでいくことがあります。

 

私自身、10代の頃、夏休みに日本に一時帰国してレストランでアルバイトをした時、来店客からぞんざいに扱われ「自分はここにいるべきではない」と感じた経験があります。だから、早々に辞めました。

 

でも、逃げられない環境にいる子供たちはどうでしょうか。高校の部活で、監督や先輩からずっと雑な扱いを受けている子は、簡単には逃げられません。そのなかで心は病み、脳は傷つき、自己認識は大きく歪んでいきます。

 

やがて、立場が変わり、自分が指導者や先輩になった時、溜め込んできたものを爆発させるかのように、同じことをしてしまう。これが日本におけるハラスメントのメカニズムなのだと思います。人として大切に扱われた経験が多い人ほど、ハラスメント行為はしません。

健全な関係性をつくるのは、

目を見て「ありがとう」と言うことから

F.I.N.編集部

健全な関係性をつくるために、まず何から取り組めばいいのでしょうか。

佐伯さん

本当に小さな日常の変化からでいいと思います。日本に帰るたびに感じるのは、コンビニなどで店員の方と目を合わせない、「ありがとう」も言わない人がとても多い。

 

日本人は、マニュアルがあると行動しやすい文化でもあります。であれば、「コンビニに行ったら、店員さんの目を見て『ありがとうございます』と言う」「レジ袋がいるか聞かれたら、『いります/いりません』を言葉で返す」といった、家庭などでごく簡単な礼節マニュアルをつくるのも1つの方法かもしれません。

 

ビジネスの文脈では、「関係性の質を高める」といった難しい言葉で語られがちですが、もっとシンプルに「目の前の人を大切に扱っていますか?」と、自分に問い続けることが大切です。

 

礼節に含まれるのは、相手の目を見ること、言葉にして伝えること。そんな小さな目標を自分に課すだけでも、人との関わり方や相手の感じ方は変わっていくはずです。

 

私たちは、毒を与え続けるのではなく、栄養を与え、豊かな土壌を育む環境をつくらなければいけません。1人ひとりの意識がそこにシフトしていけば、流れる空気や風向きは、今とはまったく違うものになっているはずだと感じています。

【編集後記】

評価する際の軸を「結果」から「挑戦」に移す。言葉にするだけなら簡単ですが、実際にはとても難しいことだと思います。なぜなら、無意識に「自分ならこうする」という基準で見てしまい、判断が異なると「良くなかった」と評価してしまうのではないかと感じたからです。この構造を変えるには、佐伯さんのおっしゃっている「譲れないライン」を設定し、それ以外の選択については余白を持つこと。そして「なぜその選択をしたのか」をお互いに確認しながら前に進む姿勢が必要だと思いました。

この話は決してスポーツの現場だけの話ではなく、企業活動においても重なるはずです。まずは、「自分の基準を絶対視していないか?」という問いを持つことが、組織の意思決定や学びの仕組みを変える第一歩になると感じました。

(未来定番研究所 榎)