2023.03.24

贈る

私たちはなぜ贈るのか? 「贈与」を哲学する7つの問い。

3月のテーマは「贈る」。「あの人に、何を贈ろう?」と日頃から贈り物について考えることも多いですが、哲学者たちにとっても「贈与」は関心を寄せるテーマでした。人類学者のマルセル・モースから始まり、今だに議論を呼ぶ「贈与論」について、そして私たちはなぜ贈るのかという根源的な問いについて、『世界は贈与でできている』の著者である近内悠太さんに伺いました。

 

(構成:蓮見亮/文:松田美保/写真:小野真太郎)

Profile

近内悠太さん

1985年神奈川県生まれ。教育者。哲学研究者。慶應義塾大学理工学部数理科学科卒業、日本大学大学院文学研究科修士課程修了。専門はウィトゲンシュタイン哲学。リベラルアーツを主軸にした統合型学習塾「知窓学舎」講師。著書に『世界は贈与でできている』(NewsPicksパブリッシング刊)がある。

質問1:贈与とは何ですか?

贈与に対しては、過去にいろいろな哲学者が論じてきました。わかりやすい考えでいうと、人類学者マルセル・モースやレヴィ・ストロースが分析した「互酬性(ごしゅうせい)」です。贈り物をされたら、贈り返すこと。モースは、贈与とは共同体を維持するための一つのシステムなのではないかと考えました。

彼が言及しているケースの一つに、ニュージーランドのマオリ族による、「タオンガ(品物)」を贈り合う風習があります。マオリ族には、タオンガを受け取ったら次の人に渡さなければいけないという決まりというか信憑(あるいは信仰)がありました。なぜなら、タオンガには「ハウ」という霊が宿っており、元の所有者のところに戻りたがる傾向があるから。ずっと持っていると呪いにかかって最悪の場合は死んでしまうのだとか。また贈与された人は、返礼もしなければならないとハウが命じるのだそうです。モースは、贈与とは富を循環させていくことでコミュニティを維持するシステムであるという点に注目したんです。

タオンガに似たような例で、日本には「廻り地蔵」という風習があります。仏壇ぐらいの大きさのお地蔵様を回覧板のように渡していく、神奈川県あたりに古くから伝わる慣習です。渡す際にきっと、「お元気ですか? 最近はどうですか?」というコミュニケーションが生まれますよね。私の自著『世界は贈与でできている』でも書いたのですが、贈与とはつながりを維持するシステム、「つながりを回復するもの」だと思います。

質問2:なぜ近年「贈与論」が注目されるのですか?

「有用性」に疲れてしまったからではないでしょうか。他者とモノのやりとりをすると、その意味や価値を考えます。フランスの哲学者バタイユはそれを「有用性」と表現しました。「生産性」と言い換えてもいいでしょう。私たちは仕事をしている時に、​​「これに何の意味があるのか?」とか「それはコストに見合ってるのか?」などと考えますよね。それに対するアンチテーゼが贈与や、利他、あるいはケアという概念です。他人をケアしたところで、自分が得をするわけではないし、無駄になるかもしれない。でも、贈り物をしたり、他人のために何かをして喜んでもらったら、生きている実感がありませんか?

モースが贈与論を提唱した頃も、似たような背景があったのだと思います。20世紀前半にヨーロッパが世界に先駆けて近代な市場経済に基づく社会を実現し、主体が、共同体から個人へ移っていった時代。商取引も自由に行われる中で、モースは改めて連帯を結び直す必要があるのではないかと考えたのでしょう。

市場経済や「近代」というシステムは、人のつながりを断ち切る方向に動きます。対価さえ払えば、その人自身については問われません。等価交換はとても楽だし、スピーディーです。ただ、その「交換」に人々は疲れてしまった。さらに言えば、有用性、生産性を重んじる社会では格差の広がりを止めることができない。それで、見返りを求めずに何かを贈ったり、譲ったりすることで、人のつながりを回復し、心の充足を図ろうという贈与論が、改めて注目されているのではないでしょうか。

社会の基本ルールは「交換」であることに間違いはありません。私としては、「贈与」は、資本主義の隙間を埋めるものというくらいがちょうどいいものであると思っています。

質問3:「贈与」はモノだけとは限りませんか?

必要としているにも関わらず、お金で買うことのできないもの、市場経済では手に入らないもの、その移動も「贈与」に含まれると私は考えています。

2011年3月11日東日本大震災の時、これまでの日常がいかに尊いものだったかと感じませんでしたか? 当時、私はまだ大学院生で、地震が発生した時は井の頭線の車内にいました。揺れによる直接的な被害はありませんでしたが、電車が止まり、線路上で降車しました。徒歩で渋谷に向かい、そこで初めて東北地方の被害状況を知ったんです。その日は帰宅できず、品川の映画館まで歩いて行って夜を明かしたのですが、その時、思ったんです。都市機能や文明というのは、こんなに簡単に止まるのだと。

反対に、毎日、都市生活を送れていたのは、誰かが日常を支えていたからだと気がつきました。電車、エレベーター、エスカレーター……。日頃、私たちが命を預けているものはたくさんあります。これを保守点検したり、日常が日常で在り続けることをサポートしてる人たちは、「功績が顕彰されない影の功労者、歌われざる英雄=アンサング・ヒーロー」です。

モノの受け渡しだけでなく、アンサング・ヒーローが行っているような、見返りを求めずに、誰かに何かをしてあげることも贈与になるのではないかと思います。

質問4:贈り物に対し、気持ちが重くなる時があるのはなぜですか?

贈り物が、人と人とを結びつける以上に、他者を縛りつける力に転化したとき、贈与は「呪い」になることがあります。僕は「届いてしまった年賀状」と表現しているのですが、こちらが年賀状を出していない相手から年賀状が届いてしまったら、それは「負い目」になります。

贈り物は、時に暴走することも。贈り主が受取人のためにしてあげたことが、結果的に贈り主の後ろめたさを解消する目的だったり、受取人をコントロール・支配する目的だったとき、贈与の負の側面が発動します。親が子どもに「あなたのためなのよ」といって勉強や習い事をさせることが「呪い」になることはありますよね。

学校や予備校で仕事をしているとときどき耳にする話なのですが、受験で不合格になったことを申し訳なく思って先生や予備校側に報告できないという子がいます。そうならないために「合格という結果と交換してもらうために頑張って教えていたわけじゃないんだよ。先生たちは、君に贈り物をさせてもらえただけで嬉しいんだから」という思いが伝わるように普段から言葉を選んだり、身振りや関わり合いの中で示したりして、「交換の呪い」にはまり込まないように努めます。

ちなみに贈与が負担にならない方法はいくつかあり、一つは笑いに転化すること。ユーモアを絡ませると、相手の負担になりにくいのです。外国映画やドラマで、プレゼントを受け取った相手が「Thank You」とお礼を言ったら、贈り主が笑顔混じりに「My pleasure」と返すシーンを見たことはありませんか?「僕がやりたくてやったことだからさ」と軽くおどけた一言ですが、これもユーモアだと思います。ここには、芝居を打つ、嘘をつく(=冗談を言う)という所作があるからです。あるいは、「贈与」であるのに「交換」であるとあえて偽っているとも言える。相手に負担をかけないジェントルな表現です。

質問5:日本は、贈り物が多い国ですか?

お中元やお歳暮、年賀状、確かにいろいろと日本には風習がありますね。ただ、例えばアメリカでもクリスマスカードやプレゼントのやりとりは行われているように、何かを贈る習慣は日本と同様に多いのではないでしょうか。

言えることがあるとすれば、日本と海外の違いは、個人間のやりとりか、所属する集団でのやりとりかという点です。日本の場合、自分のアイデンティティは、自分の帰属する集団が大きく関わってきます。例えば、私たち日本人が自己紹介をするとき、学生なら「○○高校の△△です」と学校名を語り、社会人なら「○○社の△△」と、所属組織を名乗ることが多いと思いませんか?それから日本で特徴的なのは、誰かに呼びかけるとき、目上の人は役職で呼ぶんです。「社長」「部長」と。でも、同僚だと名前を呼びますよね。他にも、「お兄ちゃん」と呼びかけるけれど「おい、弟」とは言わない。それから、年齢も気にしますよね。年上なのか、年下なのかで、敬語なのかタメ口で話すのかが変わる。自分を指す言葉も「私」「僕」「俺」と、場と話す人との関係性によって変わることがあります。関係性と場によって自分が規定された上で、日本の多くのコミュニケーションは成り立っています。

よって私たち日本人は、関係性の確認として贈り物をすることが多い。「私はこの組織に属しており、あなたと取引があります」という関係性を明示するために贈り物が使われているのだと思います。

質問6:オンライン時代ならではの贈与はありますか?

私が面白いなと思っているのは、オンライン上で人とつながってプレイするゲームです。というのも、ゲームの中では、贈与や利他がわかりやすいんですよ。例えば、大人気の「エーペックス レジェンズ」というゲームは3人ひとチームで戦うのですが、誰かが倒れたら、仲間は救助してあげないといけません。自分も撃たれる可能性がある中で救助にいく。明らかに利他的な行動です。サッカーでもそうです。相手を引きつけた上で味方に点を取らせる、献身的なプレーというのがあります。仲間と連携してプレイするゲームでは「カバーする」「サポートする」という言い方が自然なことが多くあります。献身、カバー、サポート。これらは「ケア」と総称することができると思います。こういったものがゲームの内部であれば、互いに見て取りやすい。

実生活は何が献身的なのかがわかりにくいですが、ゲームやスポーツはあらかじめルールが設定されているので、その中での行動は、贈与なのか、利他なのか、もしくは交換なのかがはっきりしています。ですからオンラインゲームを仲間と一緒にプレイすると、信頼関係が構築できるのではと思います。贈与や交換のコミュニケーションのトレーニングになっているかもしれません。

ちなみに、贈り物の中には、ECサイトで使えるギフトカードというものがありますね。経済的な側面で考えれば、ギフトカードは自分が本当に欲しいものを買えるので最も合理的です。でも、なぜか寂しさを感じませんか?人類学者の中沢新一さんが『愛と経済のロゴス』の中で語っていたのは、紙で包装するというのは「さっきまで商品だった」という連続性を断ち切るためだそうです。包装紙はすぐに剥がされてしまう無駄なものですが、値札を外し、包装し、リボンをかけることで、ただの商品から「あなただけのためのもの」になる。ギフトカードや現金が寂しいのは、商品としての履歴を切断しにくいということが理由なのではと思います。

質問7:「贈る」価値観は、今後どう変わってきていますか?

今、私が注目しているのが「ケア」という概念です。僕の定義では、「ケア」は、その人が大切にしてるものを一緒に大切にすること。なぜ医療職や介護職が「ケアラー」と呼ばれるかというと、身体、生命、健康は多くの人とって大切なもののはずで、それを一緒に大切にサポートしようという関わり方だからです。なので、必ずしも「治療」とは限りません。「緩和ケア」は、病気を根治するより、患者さんの命をサポートし、寄り添うからです。

そして、「ケア」は、自分の時間を他者に贈与しています。他のことに費やすこともできた時間を、その人のために使う。例えば、友人の、大切なご家族が亡くなったとします。自分がその亡くなった方との直接的な関係性がなくても、友人を慰めるために葬儀に駆けつけなくちゃと思う。それは、一緒に悲しみを受け止めてくれる仲間がいるという、時間と機会と可能性を贈っているということだと思います。

今は共通の財が見えにくくなっている時代です。共通の大事なものといえば、かつては水や食べ物がそうですが、今はみんなありますよね。そして価値観も多様になっているので、贈りたいものが見つからない時代。そんな今でも、皆が唯一貴重に思っているのが「時間」なのではないでしょうか。

一緒に食事をする、一緒にどこかに行く。最近、体験型のプレゼントが流行しているのも時間を贈るということの一つなのかもしれません。生きている心地を回復するものを「贈与」とするなら、時間を贈与することや他者が生きることをサポートするという意味で、「ケア」を贈るということに変化していけたらいいのではないかと思っています。

■F.I.N.編集部が感じた、未来の定番になりそうなポイント

・贈与を負担に感じさせない方法の1つは笑いに転化すること。受け手にボールが残っている状態である贈与を、交換に見せかけることでボールを消失させてあげ、負担を軽減することができる。

・生産性を重視し価値観が多様化し共通の財がわかりにくくなった今、見返りを求めずに何かを贈ったり、ともに過ごす時間を贈るなどのケアを通したりすることで、心の充足を図ることができる。

【編集後記】

「Z世代は店員さんによる接客が嫌、苦手だと感じている」とよく耳にします。

この行動も、「贈与」や「交換」の話に置き換えることができるのではと思いました。店員さんの接客・サービスが彼ら彼女らにとって「交換の呪い」になってしまっているから、何かを返さないといけないという申し訳なさを感じているのではないかと。

またコロナ禍で、あの人は今どうしているだろう?と思うことが増えました。

マスクも解禁され規制が緩和された今、誰かを思って商品を包み「贈り物」をすることで大切にしてきた関係性を再確認することが重要な気がします。

(未来定番研究所 小林)