ここ数年で疲れている人が増えた気がします。情報に常に晒され、他者との関わりの中でも相手を傷つけないようにとどこか緊張感を抱えながら過ごす日々。社会のあり方が変わるにつれ、疲れのかたちもまた変わってきているように思います。私たちはいま、何に疲れているのでしょうか。疲れとどう向き合えば、よりよく暮らしていけるのでしょうか。F.I.N.では、日々疲れの原因や疲労回復を探求する目利きたちとともに、5年先の定番になりそうな「疲れとの付き合い方」を探ります。
スマートフォンやSNSが普及し、いつでも誰かと繋がれるようになった「常時接続」の時代。便利さと引き換えに、常に何かに追われているような焦燥感を抱いている人も少なくありません。この逃れられない疲れと、これからどう向き合えばいいのでしょうか。今回お話を伺うのは、デジタル社会がもたらす「常時接続」の時代について分析する哲学者の谷川嘉浩さん。疲れとどう向き合い、何を受け入れ、どんな可能性が開けるのか。谷川さんとの対話を通して、「退屈」や「悩むこと」が持つ静かな力を見つめ直します。
(文:船橋麻貴/イラスト:黒﨑威一郎)
谷川嘉浩さん(たにがわ・よしひろ)
1990年兵庫県生まれ。哲学者。京都市立芸術大学美術学部講師。著書に、『スマホ時代の哲学』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)、『人生のレールを外れる衝動のみつけかた』(筑摩書房)、『鶴見俊輔の言葉と倫理』(人文書院)、『信仰と想像力の哲学』(勁草書房)など。
心と頭を酷使する「常時接続」の疲弊
F.I.N.編集部
今回の特集テーマは「疲れる」です。谷川さんご自身は、最近疲れを感じていますか?
谷川さん
やはり感じますね。哲学者でもメールは来るもので、そのテキストコミュニケーションだったり、テクノロジーが発展したことで生じる別の仕事だったり。そういう現代的なことに疲れを感じることが多いかもしれません。
F.I.N.編集部
哲学者の谷川さんから見て、現代人を疲弊させる要因は何だと思いますか?
谷川さん
過去と現代を比べてみると、大きく分けて2種類の変化があると思います。まず1つは、心と頭を使う仕事が増えたこと。顧客対応だけでなく、対人関係や職場の空気に合わせるような感情労働が、いろいろな仕事に当たり前に組み込まれている。「笑顔でいましょう」とか、「家庭のような職場にしましょう」とか。そういうメッセージに無意識に適応しているんですよね。
そしてもう1つは、いつでも誰かと繋がれる「常時接続」の時代になり、スマホやネットによって24時間追いかけられるようになったこと。昔の固定電話なら「家にいなければ連絡がつかない」で済んだけど、今はスマホがある。しかも、そこからメールやLINE、SNSの通知も来るわけです。いつどこにいても連絡が来てしまうという状況は、かなり私たちを疲れさせていると思います。
F.I.N.編集部
ネットが普及したことが、現代の疲弊のはじまりになっているのかもしれないのですね。
谷川さん
そんな気がします。昔からインターネットはありましたけど、スマホの登場によって「持ち歩けるインターネット」になったことが一番大きい。しかも、スマホを通じて私たちがやっていることって、たいていマルチタスクなんです。たとえば、家族や友人にLINEを返しながら、仕事の通知も気にして、SNSも開いて……みたいな。
どれも1回1回は2〜3分で済みますが、それが365日何年も続いている。その間ずっと、頭の片隅がいろいろな情報や関係に接続されているんです。これは現代においての、逃げ場のない疲れになっている気がします。ガラケーのテキストメールの頃は、メールをサーバーに問い合わせるとか、ワンクッションあった。それと比べると、現在のコミュニケーションはあまりに滑らかです。
F.I.N.編集部
私たちが安寧を求められる場所はあるのでしょうか?
谷川さん
アメリカの社会学者のA・R・ホックシールドが書いた本『タイムバインド――不機嫌な家庭、居心地がよい職場』(筑摩書房)では、職場では予測可能なトラブルしか起こらず居心地がいいのに対し、家庭は感情が爆発することもある不確実性が高い場所であり、むしろ家庭の方が疲れるのではないか、と指摘しています。調査はアメリカの話ですが、事情は日本でも同じです。職場では気持ちよく働きつつ、テクノロジーに疲れさせられ、家庭では別の気遣いが発生する。ずっと頭と心をフル稼働させないといけない。そしてSNSが当たり前の今、友人関係でも疲れる。これが今の私たちの状況です。
もちろん、悲しいことばかりではありません。家庭で対等性が確保されるのも、SNSで友達と繋がれるのも、素晴らしいことですから。常時接続のすべてが悪いわけではないですよね。
退屈の価値と、すきま時間の罠
F.I.N.編集部
常時接続が当たり前となった今、なぜ私たちはこのせわしなさから逃れられないのでしょうか?
谷川さん
タスクを積み重ねすぎている私たちは、いつでもどこでも「すきま時間」を作って活用しないといけないという強迫観念を抱えています。この自ら作ったすきま時間に頭と心を使ってしまって、疲れるというループが起きているのではないでしょうか。
F.I.N.編集部
確かに「すきま時間を活用したい」と、無意識に思ってしまいます。
谷川さん
昔はそもそも「かたまり時間」しかありませんでした。例えば、小学校低学年の頃を思い出してみてください。学校には授業があり、休み時間には友達との交流がある。放課後も、友達と遊んだり、本を読んだり、テレビを見たり、家族としゃべったりするだけ。単に時間を満喫していたはずです。「すきま時間」という概念自体がありませんでした。
F.I.N.編集部
今はそのすきまにまで動画やSNSを差し込んでしまう、と。
谷川さん
そう。現代人は退屈が怖いんです。何もしていないと不安になる。だからついスマホを取り出してしまう。でも、本当に退屈しているのは、スマホを見てる時の方かもしれません。ショート動画やSNSを眺めている最中は暇を埋めて充実している気になっているけど、記憶に残っていないですよね。
F.I.N.編集部
「何かをしていれば退屈じゃない」と思い込んでいるけど、実際にはただ情報を処理しているだけかもしれません。
谷川さん
退屈の定義が変わっちゃったんです。何もしていないこと=退屈だと思い込んでいる。何かしていれば安心、という不安回避の儀式みたいになっているというか。すきま時間を作ってスマホを触るのは、口寂しいのに近いんです。お腹が空いてるわけじゃないのに、お菓子をつまんじゃうのと同じで、ショート動画やSNSを開いたところで本当の安心感や満足感が得られるわけじゃない。それをやってるうちは心や頭は休まらないし、ぼーっとする時間もどんどん奪われていく。これが、現代的な疲れの特徴の1つだと思います。
「人間らしい疲れ」を取り戻す
F.I.N.編集部
この現代特有の疲れから、私たちはどうしたら解放され、より良く生きていけるのでしょうか?
谷川さん
そもそも、スマホからくる情報処理の疲れと、人間的な感情を使い切る疲れは違います。だから、もっとちゃんと「人間らしい疲れを取り戻す」ことをやっていいのかな、という気がしています。今はすきま時間でショート動画を見たり、SNSで他人のキラキラした暮らしに傷ついたり、インフルエンサーの煽りに飲み込まれたりして情報処理に疲弊していますが、もう少し「まともな疲れ方」があると思うんです。
先日、文芸評論家の三宅香帆さんとお話しした時に、「疲れるまで悩むって大事」という話になりました。悩みは誰しも抱えているものですが、「もう悩み疲れた」とスッキリ思えるくらい悩む時間を持てているか、ということを考えてもいいのかもしれない。飲み会で笑い話として話して悩み相談を済ませたことにするのではなく、いろいろな角度から、いろいろな方法でずっと悩んでみる。そうすると、普通に疲れるはずです。そこまで悩むことができれば、「もうこれ以上悩んだって仕方がないわ」というところまで到達できますよね。
F.I.N.編集部
確かに、忙しさを言い訳にその手前で諦めてしまっているかもしれません。「疲れるまで悩む」ということ以外に、人間らしい疲れを取り戻す方法はありますか?
谷川さん
少し退屈だと感じるくらいの活動がいいと思います。ゲームや動画のようなエンタメ性の高すぎるものは、刺激的すぎるので別のものがいいかもしれません。作業中の多少の退屈さや余白があるようなもの……、例えば「料理」はどうでしょうか。自分なりのこだわりを持って、めちゃくちゃ真剣に、疲れるぐらい料理してみる。複雑なことをする必要はなく、ただただ餃子を包むとか。黙々と作業するのって楽しいじゃないですか。スマホに比べると退屈かもしれませんが、別の楽しさがある。刺激は大きくないけれど、その物事にちゃんと向き合えて一生懸命になれる。そういった活動にリソースを割くと、スマホや現在の労働環境からくるタイプの疲れとは、ちょっと違う何かを見出せる気がします。
疲れ切った先で、関係性の回復が始まる
F.I.N.編集部
人間らしい疲れに、意味や可能性はあるのでしょうか?
谷川さん
例えば、「対立」がヒントになるのではないかと思います。「もう言うこともやることもない、かける言葉もない、感情も使い切った」と疲れ切るまで対立すれば、お互いに取り繕う顔がなくなり、「ちょっとまともに話そうか」という雪解けが始まります。それくらいの「やり切る」対立って、逆にポジティブな転換になり得るかもしれません。ドラマや漫画でもそういう描写はよくありますよね。エネルギーを使い切った先にある「人間らしい疲れ」は、新しい関係性や世界を築く可能性を秘めていると思います。
F.I.N.編集部
ここまでお話を伺って、現代における「疲れ」のありようが見えてきました。では、この常時接続の社会のなかで、私たちはどうすれば疲れと上手に付き合っていけるのでしょうか?
谷川さん
まず、「すきま時間を活用する」という呪いから、少しずつ距離を取っていくことが大事だと思います。現代人は「1分でも無駄にしたくない」という強迫観念のもと、スマホを触り、動画を見て、通知に追われている。これをいきなりやめるのは難しいけど、「0勝10敗」だったのを「1勝9敗」にするだけでも、常時接続による疲れは減っていくはず。それを少しずつ増やせたら変化としては十分です。
もう1つは、「退屈」に対する見方を変えること。現代では、何もしない時間を「無駄」とか「退屈」と感じてしまいがちですけど、本来、退屈は心と頭を休めるための貴重な時間なんです。スマホを触らないことは、最初は落ち着かないかもしれません。でも、その不安の先に「ぼーっとできる」「何かを考える余地が生まれる」時間が待っています。
この先も、「常時接続時代」特有の疲れのあり方はおそらく変わりません。だからこそ情報処理に使うリソースを少しだけ減らして、自分のリズムを取り戻す。その繰り返しが、今の時代における疲れとの正しい付き合い方なんじゃないかと思います。
【編集後記】
私は「退屈でいたくない」と思う割に、時間がかかることには途方のなさやうっとうしさすら感じます。疲れに対しても、それは不本意な停滞であり、不安の種にほかならないと思っていました。退屈、継続、疲れ。常時接続のなかでは、そういった不安をなるべく感じたくないという気持ちが先行してしまうのかもしれません。
しかし今回の取材で「人間的な“使い切る”疲れ」を意識できたことで、なかなか想像できなかった「疲れる意味や可能性」が少し明らかになった気がします。それは、とにかく続けることや時間をかけることの大切さとともにあるように感じました。
(未来定番研究所 渡邉)