2025.10.17

苦しいのになぜ走る?プロウルトラトレイルランナーの宮﨑喜美乃さんに聞く、疲れと喜びの関係。

ここ数年で疲れている人が増えた気がします。情報に常に晒され、他者との関わりの中でも相手を傷つけないようにとどこか緊張感を抱えながら過ごす日々。社会のあり方が変わるにつれ、疲れのかたちもまた変わってきているように思います。私たちはいま、何に疲れているのでしょうか。疲れとどう向き合えば、よりよく暮らしていけるのでしょうか。F.I.N.では、日々疲れの原因や疲労回復を探求する目利きたちとともに、5年先の定番になりそうな「疲れとの付き合い方」を探ります。

 

今回お話を伺うのは、プロウルトラトレイルランナーの宮﨑喜美乃さん。山岳地帯を走行するトレイルランニングのなかでも、100マイル(約160km)も走破する過酷な競技、ウルトラトレイルランニングに挑んでいます。なぜ宮﨑さんは、身体を酷使しながらも走り続けられるのでしょうか。前に進むための、疲れとの向き合い方をお聞きします。

 

(文:船橋麻貴/写真:田中嵐洋)

Profile

宮﨑喜美乃さん(みやざき・きみの)

プロウルトラトレイルランナー。1988年生まれ。山口県出身。小学校から陸上競技を始め、高校・大学では駅伝部に所属し全国駅伝に出場。鹿屋体育大学大学院にて、登山の運動生理学の研究に励み、その知識を元に世界最高齢でエベレスト登頂を果たしたプロスキーヤー・冒険家の三浦雄一郎さんが代表を務める〈ミウラ・ドルフィンズ〉に就職。2014年にトレイルランニングを始め、2022年よりプロとして活躍。現在は、低酸素シニアトレーナーとして活動しながら、自身の実践データを収集・分析しながら世界の頂点を目指している。

https://www.kiminomiyazaki.com/

「褒められたい」が原動力に。

挫折がもたらした痛みと再起

F.I.N.編集部

小学生の頃から陸上競技を始め、高校や大学では駅伝部で長距離走に打ち込んだという宮﨑さん。走ることに夢中になったきっかけは何だったのでしょうか?

宮﨑さん

小学校1年生のとき、マラソン大会で優勝したんです。そのときに親からすごく褒められて、「見てもらえた」「注目された」っていう感覚がすごく残っていて。それがうれしくて、そこからずっと走っているんだと思います。

F.I.N.編集部

「褒められてうれしい」という気持ちが原点だったのですね。

宮﨑さん

そうですね。私は4人兄弟の3番目なんですけど、兄や姉が勉強の成績が優秀ななかで、走ることだけが得意でした。実際に結果も出たので、「走ることが自分のアイデンティティー」というか、走ることで自分の存在を証明できるような気がしたんです。それからは、陸上や駅伝を大学までずっと続けました。

F.I.N.編集部

競技生活のなかで、走る意味を見失うようなことはありましたか?

宮﨑さん

高校3年生の時に、大きな挫折を経験しました。人生で一番トレーニングを積んだにも関わらず、大事な大会で入賞できず、全国大会への道が断たれてしまったんです。そのときの悔しさとショックで、角膜が剥がれて一時的に目が見えなくなってしまいました。あの時は本当に走ることが嫌いになりましたね。体重が急増し、練習も身が入らず、「練習しても意味がない」と思ってしまって。大学でも駅伝を続けていたんですが、走るのは全然楽しくなかったですね。朝練で道路の側溝に隠れて、サボって寝ていたこともありますし(笑)。

F.I.N.編集部

そこまでの絶望から、どうやって走ることに再び向き合えるようになったのですか?

宮﨑さん

そんな状況を変えてくれたのは、チームの存在です。大学3年生の時、ある先輩の駅伝に対する純粋な思いを知り、それに報いたくてキャプテンに立候補したんです。結果的に自分は走らなかったのですが、キャプテンとしてチームを支え、九州初のシード権獲得という結果を出すことができました。自分のためではなく、「チームのため」に動いたことが、私にとっての再起のきっかけになりました。

「走るのは楽しくない」からこそ。

運動生理学が導いた科学的アプローチ

F.I.N.編集部

そこから走る楽しさをどのように取り戻していったのでしょうか?

宮﨑さん

正直、「走るのが楽しい」という感覚は、今もほぼないといっていいかもしれません。走ることは私の強みですが、走ること自体が楽しいかといったらそうではなくて。

F.I.N.編集部

それでは今も走ることを続けているのはなぜですか?

宮﨑さん

大学院で運動生理学を学ぶなかで、「自分の体を知りたい」という知的好奇心が生まれたからです。大学時代、富士山の頂上付近でダッシュしたら息切れがひどくて、環境が違うだけで自分の体が変わってしまうことに興味が湧いたんです。運動によって体がどう変化するかを学ぶことで、自分の体のことを知れて楽しくて。

F.I.N.編集部

トレイルランニングに挑戦されているのも、この運動生理学と関係しているのでしょうか?

宮﨑さん

そうですね。駅伝やマラソンは「いかに速く走るか」がすべてですが、トレイルランニングはそれだけでは体も心も潰れてしまう。「頑張らない最大速度」を出すかがキーポイントになります。その「頑張らない最大速度」を、私は「笑顔で走りきれる最高速度」と表現しているんです。タイムだけを追い求める陸上競技とは違い、山のなかでは天候や標高、食べ物、飲み物、服装、そしてメンタルと、あらゆる要素に対応しないとゴールできない。この多様な要素への対処こそ、大学院で学んだ運動生理学が活かせる分野だったんです。だから今も、走ることを通して自分の体に起きる変化を観察しているんです。そうやって走りながら自分のことを知る時間が、私はきっと好きなんですよね。

宮﨑さんは知人から誘われたことがきっかけで、2014年からトレイルランニングをスタート。他のランナーと励まし合う文化や、岩場や山道に合わせて走る感覚に面白さを感じたそう

極限の疲労を乗り越える

「脳をだます」技術と「Keep Moving」論

F.I.N.編集部

レース中、当然体が悲鳴をあげると思います。その極限の疲労とはどう向き合っているのですか?

宮﨑さん

持久系競技の疲労は、体を動かす指令を止める「脳のブレーキ」、その原因となる「エネルギーの枯渇」、エネルギーを運搬する工場である体がパンクした状態の「身体の限界」の3種類があります。これらの限度を超えれば体はまだ動くはずだ、と。

F.I.N.編集部

 

そこまでして体を動かしていくのですね。

宮﨑さん

そうなんです。この世界でよくいわれるのは、「脳をだます」ということですね。ケガや病気でない場合、レース中はメンタルをどう取り戻し、ポジティブに変換して体を動かすかという作業をしていくしかありません。

 

海外のランナーからは、「Keep Moving(動き続けろ)」とよくいわれています。走るとか歩くとかではなく、とにかく動けと。動けば絶対的にゴールに近づくし、マインドも良くなる。止まるとマインドはネガティブな方向しか考えないんです。

F.I.N.編集部

動き続けることが、メンタル維持の最善策なんですね。完全に心が折れてレースを棄権したことはありますか?

宮﨑さん

メンタルが原因で辞めたことはないですね。先日のレースで低温による関節の冷えと腫れで途中棄権したんですが、それは体の危険が最優先の判断基準だからです。その点、心の問題なら仲間の力を借りて進める。体と心は切り分けて考えて、その線引きを明確にすることがトレイルランニングにおけるゴールの鉄則だと思います。

F.I.N.編集部

メンタルの疲れはどのように回復しているのですか?

宮﨑さん

美しい景色に巡り会えたり、一緒に走る仲間の声かけで気持ちが切り替わることもあります。私自身、過去のレースで体も心も限界に近づいて、足を止めたことがあったんです。通りがかりのランナーに「後ろを見てごらん、モンブランが見えてるよ」って声をかけられて振り返ってみると、悪天候でずっと見えなかったモンブランの姿があって。実はモンブランは大切な友人が命を落とした山なんです。だから、その景色に出会えた瞬間、「やっと顔を出してくれた」「友人が見守ってくれている」と感じ、もう一度進もうと思えました。

自分の心と体の変化を知り、

疲れを「成長」に変えていく

F.I.N.編集部

今走ること自体の楽しい感覚は薄いとおっしゃいましたが、どんな瞬間に楽しさを感じますか?

宮﨑さん

運動生理学の知識を生かして、日々のトレーニングと回復を数値で管理しています。感情も含めて自分の状態を見える化していて。そうすると、体がちゃんと応えてくれるというのがわかるんです。毎日走ることが楽しいと感じているわけではないけれど、続けていれば「いつの間にかこのペースが楽になった」とか「疲れなくなった」といった体の変化や、それに伴うマインドの変化を感じられるんです。走っている最中よりも、走ること全体を通しての「成長」を感じるのが楽しい。勝った時や優勝した時はもちろんうれしいですが、実はデータで変化を見ている時が一番楽しいのかもしれません。

宮﨑さんは出場するレースに向けて日々のトレーニングデータを取り、疲れの回復状態をグラフにしている

宮﨑さん

そして私が今すごく考えているのは、「自責」という考え方です。以前、指導者の言う通りに練習して怪我をした時、「あの人のせいで」と人のせいにしてしまったことがあったんです。その時、機能的に問題ないのに痛みがどうしても取れず、内臓と感情が繋がっているという観点から専門家に診てもらったところ、自らで判断しなかった「自分に対する怒り」が原因だとわかりました。それがわかってからは自分でデータを管理し、自分で納得してレースやトレーニングに出るようにしました。人のせいにしていた方が楽ですが、今は「自責」を主軸にしています。そうすることで、納得感が生まれ、もし失敗しても「自分で選んだこと」として解決策を導き出せるようになります。

F.I.N.編集部

私たちが日々の疲れと向き合い、よりよく暮らしていくためのヒントとして、宮﨑さんのデータ化や自責の考え方は応用できそうですね。

宮﨑さん

人は自分の成長を感じられるからこそ、何かを継続できる気がします。そのためには、まず「基準」を作ることが大事です。数値やデータがあれば、今の自分が良いのか悪いのかがわかりやすいし、人と比べた時に外れていても、それを「強み」としてうまく使うことができます。

 

データ化やジャーナリングもそうですが、とにかくデータを取り、自分で考えて行動する。そして、その結果の責任は自分で引き受ける「自責」を主軸にする。これが、無用な心の疲労を断ち、成長という喜びに繋げるためのヒントになるんじゃないかと思います。

【編集後記】

レースでの極限状態を想定した宮﨑さんの疲れとの向き合い方は、まるで求道者のようでした。疲れを知ることは自分を知ることなのかもしれません。どんなに備えても体調には浮き沈みがつきものですが、私も自分を観察しながらちょっとした成長ポイントをみつけ、よりよい方向に前向きに進んでいきたいと思います。トレイルランニングのように脳をだます必要があるほどの疲れを経験することはなかなかないかもしれませんが、毎日を過ごしていくにあたって大切にしたい、たくさんの教訓をいただきました。

(未来定番研究所 高林)