2024.10.14

余白をつくる

余白は想像力が働くための舞台。花道家の渡来徹さんが説く余白のあり方。

余白を持つって何だかかっこいい。余白が潜むものごとに触れると落ち着く気がする。遊び心がある軽やかな人や、ほっと息抜きができる場所……。なにかとせわしない世の中で、余白のある存在や余白の持ち方が注目されているような気がしています。F.I.N.では、そんなさまざまな「余白」と上手に付き合っている目利きたちに取材し、余白についての考え方や取り入れ方を探ります。

 

今回は、日本ならではの余白の精神性に着目。庭園や水墨画などからもわかるように、日本人は昔から余白に「美」を見出してきたように思います。日本の文化や暮らしには「余白の美しさ」が宿るもの。そう思いきや、花道家の渡来徹さんは「余白に美しさや魅力を付与するのは、余白の捉え方を断片的にする」と語ります。渡来さんのインタビューを通じて、「余白」とは何かを考えていきます。

 

(文:船橋麻貴/写真:嶋崎征弘/サムネイルデザイン:美山有)

Profile

渡来徹さん(わたらい・とおる)

花道家、いけばな教授者。いけばな教室「Tumbler & FLOWERS」の運営をはじめ、イベント空間での装花やポップアップなど、いけばなの魅力を幅広く伝えるべく精力的に活動を行っている。

Instagram:@watara_ikebana

余白は副産物に過ぎない

F.I.N.編集部

ファッション誌のライター・編集者を経て、2012年から花道家としてのキャリアをスタートさせた渡来さん。そもそもいけばなを始めたのはなぜですか?

渡来さん

元々、趣味で花の器を作っていたこともあって、その流れで花もいけられたらいいなって思ったんです。ちょうど同じ頃、ライター・編集者として働き始めたのですが、2年、3年と続けるうちに「花で学んだことが編集作業に」「編集作業で気づいたことが花に」というように、相関する場面がいろいろと出てきたんです。出版業界を外からサポートできるのではと思ったのも、いけばな教室を始めた理由の1つでした。

F.I.N.編集部

実際に相互で生かされたと感じたのは、どんなところでしょうか?

渡来さん

対象の捉え方ですね。いけばなは、花の魅力を生かすために取捨選択を繰り返して、1つの作品にまとめるのですが、編集作業も同じだと思うんです。その企画やページで伝えるべき「何か」のために、集めた情報を取捨選択したり、レイアウトしたりと、その焦点を絞っていくための行為を繰り返す。そうした編集作業といけばなのお稽古を行ったり来たりしたことで、対象への向き合い方の土台を形成できたように思います。

F.I.N.編集部

編集作業といけばな、お互いがいい影響と作用を与えていたのですね。今回の特集テーマは「余白をつくる」なのですが、渡来さんが花をいける際、余白を意識することはあるのでしょうか?

渡来さん

余白を意識することはありません。ただ、植物が描き出す空間の構成は意識します。いけばなは引き算の美学だなんて言われることもありますが、一概にそうとは言い切れないと思うんです。花瓶に花をいける時点で足し算になっていますし。

 

初めて花をいける人の中には、「選択肢がいっぱいあるから、何をしたらいいかわからない」とおっしゃる方が多くいらっしゃいます。ですが、実のところ私たちがやれることって本当に少ない。花1つとっても切り花になった後も、やはり光を求めて伸びていく植物の然るべき姿は損なわれず存在しています。住空間にいける時、土地に根付いていた姿を想像し、それに近い形で空間と器に合わせてデフォルメしつつ、そこにしつらえます。その行為を成立させるために、私は少し手を加えるだけ。こうしたポイントは他にもあり、むしろ私たちができることは何もないようにさえ思えます。余白は、こうした植物と植物、あるいは植物と器、植物と空間の関わりの中で結果的に生まれるものであり、いわば副産物に過ぎないのです。

閉塞感があるから、余白が求められる

F.I.N.編集部

とはいえ、庭園や水墨画など日本人は昔から余白に美しさを見出してきたように思います。それはなぜだと思いますか?

渡来さん

そこには日本人の性根にある「曖昧さ」が関係していると思います。自然災害の多い風土にあってある種、曖昧さは共同体として生きていくため個人に必要だった姿勢や態度。他者との関わりの中で白黒つけられない事柄については曖昧に、グレーなものとしてひとまず受け入れておく「ハコ」のようなもの。この曖昧さと呼ばれるハコの中には、美しさや魅力、妬み嫉みなど、いろいろな関係性や感情が含まれていると言えます。こうしたハコの中に、いつしか余白と呼ばれる捉え方が現れた、といった具合なのかなと。

F.I.N.編集部

余白は必ずしも美しいとは限らない、ということでしょうか?

渡来さん

こうした自己と他者をはじめ、あらゆる事象の間に「ひとまず」と置かれるのがハコ、間(あわい)。これは人として生き抜くための知恵や術であり、そこにことさらに美を求める必要はありません。お茶を濁す、顔色を伺うといった、日本人が風土や暮らしの中で育んできた自己と他者、人と自然との関わり方についてのある種の性根とも言えるかもしれません。その中で特にポジティブな側面を「余白」と呼んだのではないでしょうか。だからこそ、美や魅力といった好意的な言葉が付帯されやすいのだと思います。

F.I.N.編集部

では、特に今私たちが余白を求めているのはどうしてだと思いますか?

渡来さん

社会の回転数が早いのだと思います。情報が次から次へと入ってきては出ていき、今ここに自分を置いておけない。よく言われることですが、日本人は自分以外に興味関心を持ちすぎていて、判断の軸を自分の外に置きすぎなんですよね。他人の視線や思考、理解で自らのアウトラインを作っている節があり、自分と他者の間を捉えづらい。それゆえに居心地の悪さや窮屈さを感じて、余白が欲しくなるんだと思います。

能動的な行動によって、余白が生まれる

F.I.N.編集部

渡来さんは意識していないとはいえ、私たちはいけばなに余白を見出してもいいものでしょうか?

渡来さん

ええ、もちろん。いけばなにおける余白は、いけた花を起点に他者の想像力が働くための舞台だと捉えています。花は想像のスイッチであるとも言えますね。自分としては余白をつくろうとは思ってはいませんが、鑑賞者が植物が描き出した空間に意味を見出したり解釈を加えたりするなら、それはそれですごいこと。私がいけた花が起点になって、そこにある余白へ想像力が働き、皆さんの中で何かが動き出すわけですから。

 

当然、いけばなの余白から何も感じない人もいるでしょう。その違いは良し悪しや優劣は置いておいてただ、経験の違いなのかと感じます。前段として花への共感=経験があり、自分ごとのように余白を捉え何かを投影するのかもしれません。

F.I.N.編集部

余白から想像し、自分ごと化して楽しむのは、豊かなことのような気がしました。

渡来さん

花をいける私からしたら完全に自分の手の離れたところで、誰かの想像力を掻き立てられることは至極光栄なこと。直接的に私自身や生活を豊かにしてくれるわけではありませんが、自分のアウトプットが万倍になる可能性があるのは面白いなと思います。

F.I.N.編集部

そんな余白を自分の中につくるため、私たちは日常でどんなことを意識するといいでしょうか?

渡来さん

余白は目的を達成した後に現れる副産物です。なので、意識的につくろうとするのものではないと思うんですよね。例えば、花を飾るために部屋を片付けることってあるじゃないですか。まさにこれこそが余白が生まれる時ですよね。だからまずは、自分が変わる行為をすること。そういう能動的な行動によって、余白という副産物が得られるはずです。

 

この能動的な行動は、今ここにいる自分と向き合うということにもつながると思います。余計な情報があふれ、今ここに自分を置いておきづらくなっている現代では、五感をバランスよく使うことが大切なのかもしれません。花道家としては、いけばなが最もその一助と言いたいところですが、身近なところでは料理などはいいと思うんです。食材の香り、指先に伝わる感触、見た目、風味、調理時に出る音を感じられたら、今ここにいる自分を実感できますから。五感を等しく使うのは、暮らしに余白をつくるための助走としてはいいのかもしれません。

F.I.N.編集部

私たちのメディアは「未来の定番となる種を探す」がテーマです。「余白」を大切にする人が増えたら、5年先・10年先はどんな世界が待っていると思いますか?

渡来さん

余白が世間に広まったら、メディアやSNSに煽られることなく、各人が心地よいと感じられる生き方を獲得できる気がします。そのためにはまず、自分というアウトラインの手綱を他者に受け渡すことなく、自らが握っておくこと。自分の軸を持って判断すること。それができたら、他者の目や判断に右往左往することもなく、同時に他者との間に余白が生まれ、より生きやすくなるのではないかと思います。

【編集後記】

余白は玉虫色、曖昧さ、お茶を濁すといった日本人の基本姿勢というお話がしっくりきて、ぐいぐいとお話に引き込まれました。二択で解決しない日本人の性根にあるゆらぎ…種のまわりの果肉を思いました。本来は種が本質で果肉は種が運ばれるための機能であろうに、果肉が生物にとっては重視されるような。日本人は自分以外に興味を持ちすぎ、他者にゆだねすぎとおっしゃったのも、この果肉のようなものな気がします。濃厚なお話のあと、目の前でお庭でとってきたばかりのお花をいけていただいた時間は清らかでとても軽やかで、光と影の塩梅が美しく、建物が経てきたであろう年月とあいまって、おいしいお濃茶をいただいたような気持ちになりました。

(未来定番研究所 内野)

撮影協力:Galerie One