「私たちを満たすものとは?」の特集で見えてきたのは、目利きの方々は「物質的なもの」ではなく、「無形のこと」に満たされているということ。今、幸せの尺度はより多様化しているように感じられます。そこで気になるのが、「幸せのためにお金を使うなら、何に使いたいと思うのか」。それこそが5年先の「満たされる価値観」につながると考え、探っていきます。
今回お話を伺ったのは、世界的に活躍するバリスタの鈴木樹さん。企業のコーヒー監修やコーヒーカクテルの考案など、コーヒーを軸とした商品開発を積極的に行っています。また、住所非公開・完全予約制のたった4席しかないコーヒー版ファインダイニング〈珈空暈(こくうん)〉では、「Coffee Omakase」と称したコーヒーのフルコースを提供。特別に厳選された空間、原料、そして独自の技術によって贅沢な体験を届けています。マスプロダクトからハイエンドまでコーヒーを届ける鈴木さんは、コーヒーで人々をどう満たしてきたのでしょうか。特別な体験を提供することで広がった、コーヒーという嗜好品の可能性とは?
(文:船橋麻貴/写真:米山典子)
鈴木樹さん(すずき・みき)
〈株式会社BrewPeace〉コーヒーディレクター、バリスタ。
ジャパンバリスタチャンピオンシップにて史上最多の3度の優勝を誇り、ワールド・バリスタ・チャンピオンシップでも輝かしい成績を残している。〈株式会社ロッテ〉のバリスタプレミアムシリーズの監修、デザインオフィス〈nendo〉が手掛けたGACHA GACHAコーヒーの監修や日本酒「久保田」のコーヒーカクテルの考案など、コーヒーを軸とした幅広い商品開発も積極的に行う。〈珈空暈〉ではバリスタとして腕を振るう。2023年に、自身初の著書『絵とマンガでわかる コーヒー1年目の教科書』(KADOKAWA)を上梓した。
1日に何度も人を幸せにするコーヒーの世界へ。
「翻訳者」として豆の個性を届けていく
F.I.N.編集部
バリスタの前はパティシエとして活躍されていた鈴木さん。当時コーヒーの魅力をどう捉えていたのでしょうか?
鈴木さん
私がパティシエからバリスタになったのは、もう20年近く前のこと。当時はコーヒーカルチャーがアメリカから日本に来ていて、お菓子の勉強をしようと専門誌を開くとコーヒー特集が組まれていました。「そんな世界があるなんて面白い」と思いながら見ていたんです。ケーキが人を幸せにできるのはクリスマスと誕生日の年にだいたい2回くらいだけど、コーヒーは1日に何度もそれができるんだなって。どちらも嗜好品ですが、それだけ多くのタイミングで誰かを幸せにできるコーヒーは、なんて尊いのだろうと思っていました。
F.I.N.編集部
実際にバリスタとして腕を磨いていくなかで、コーヒーを「嗜好品」として強く意識するようになったきっかけはありますか?
鈴木さん
バリスタの仕事を通じてわかったのは、1杯のコーヒーには、栽培から収穫、選別、出荷、焙煎、抽出まで、たくさんの人の努力や情熱が宿っているということですね。「From Seed To Cup(フロム・シード・トゥ・カップ)」といったりしますが、それぞれの人が最善を尽くすことで最高の1杯となり、最終的にお客さんを幸せにする。1杯のコーヒーになるまでの過程や背景があることを知ったのが大きい気がします。
F.I.N.編集部
その最高の1杯をお客さんに届けるため、鈴木さんが大切にされていることは何でしょうか?
鈴木さん
当たり前ですけど、コーヒーってしゃべらないし、何も説明してくれないんですよ(笑)。だから私は「コーヒーの翻訳家」として、コーヒーの個性を翻訳してお客さんに届けたいと思っているんです。コーヒー豆がどこでどんな風に作られ、どんなキャラクターを持つものなのか。そしてそれをお客さんにどう伝えたら、理解して楽しんでいただけるのか。バリスタとしての技術ももちろんですが、コーヒーを客観的に捉え、その魅力をお客さんに合わせてわかりやすく伝えることを大切にしています。
F.I.N.編集部
お客さんに合わせて伝え方も変えているのですね。
鈴木さん
そうですね。お客さんの目の前で淹れる時は、その方のコーヒー経験や好みを探りながら、言葉の選び方や味のアプローチを変えています。一方で、商品開発のようなプロダクトとして届けるコーヒーの場合は、それ単体で魅力が伝わるように設計しないといけない。だから、誰がいつ飲んでも「おいしい」と感じてもらえるように、より普遍的な表現をするようにしています。
F.I.N.編集部
鈴木さんご自身としては、どんなコーヒーを届けたいと考えていますか?
鈴木さん
私が目指しているのは、「もう1口飲みたい」と思っていただける1杯です。最後までおいしくて、1杯のコーヒーとして完結しているような。そのために、いろいろなコーヒー豆を使ったり、お湯の温度や淹れ方でどんな風味が引き出されるのかを検証してみたり。嗜好性は人それぞれなのでなかなか難しいですが、自分の感覚を信じて表現しています。
嗜好品の可能性を広げる
1杯では終わらない特別な体験
F.I.N.編集部
現在、鈴木さんがバリスタとして活躍する〈珈空暈〉では、コーヒーのフルコースを18,700円で提供されています。こちらではどんな体験ができるのでしょうか?
鈴木さん
茶室のような設えの完全予約制サロンで、1回につき4名様限定、90分間のコーヒー体験を提供しています。現在は1種類のコーヒー豆を使って、6杯の異なるドリンクを順番にお出しする構成です。それぞれのドリンクは、温度や抽出方法、副食材との組み合わせを考えていて「同じ豆なのに、こんなに表情が違うんだ」と感じてもらえるように工夫しています。
F.I.N.編集部
1種類のコーヒー豆から6杯分の表情を引き続き出すのは、すごく難しそうですね。
鈴木さん
そうですね。常に試行錯誤しながら、素材と向き合っています。例えば最近では、いちごを米油に漬けて「いちごオイル」を作ってコーヒーと合わせたりと、新しいアプローチを試しています。米油は他の植物性オイルに比べて香りにクセがなくて、素材の持ち味をきれいに引き出してくれるんです。この「いちごオイル」の香りを嗅いでいたら、一生ショートケーキを食べなくてもいいやってくらい(笑)。それは冗談ですが、副食材の加工からコーヒーとの相性まで、自分なりに「翻訳」しながらコースを組み立てていく作業はすごく楽しいですね。
F.I.N.編集部
副食材として、意外なものも使うのですね。
鈴木さん
にんじんやベルガモットとかと合わせたりもしていますが、最近試してみて面白かったのは「長ネギキャラメル」です。ネギをじっくり火入れすると驚くほど甘くなるんですよ。焦がす寸前まで火を入れて、キャラメルのような香ばしさを加えてみたら、コーヒーとすごく相性がよくて。実はネギを焦がしてしまった失敗から生まれた発見でしたが(笑)、思いがけない素材との掛け合わせがコーヒーの新しい可能性を開いてくれていると思います。
F.I.N.編集部
コーヒーに合わせる副食材はどうやって見つけていますか?
鈴木さん
日本各地のローカルな食材のなかから探し出すのが楽しいですね。例えば鹿児島県や和歌山県、佐賀県などで獲れる「仏手柑(ぶっしゅかん)」という柑橘は、見た目もインパクトがあって香りも独特。地元の人にとっては馴染み深くても、それ以外の人には新たな発見になるんですよね。そういう新鮮な驚きを、コーヒーと一緒に届けたいと思っています。
あと私が大切にしているのは、お客さんとの対話です。なぜなら、コーヒーには人と人を繋ぐ力があると思うから。私自身もこれまで本当にたくさんの人と、コーヒーを介して繋がってきました。仲のいい友人や仕事仲間も、たいていコーヒーがきっかけ。実際、1杯のコーヒーがあれば、同じ言語を使わなくてもコミュニケーションが取れるものだと思うんです。その点、〈珈空暈〉はお客さん4人とバリスタの自分だけの空間ですし、どんなお客さんがいらっしゃるかは当日にならないとわかりません。またとない機会だからこそ、お客さん同士でも一体感を感じて楽しんでいただきたい。コーヒーの知識の深さに合わせてお話を変えたり、「今日はどこに行ってきたんですか?」という雑談をしたり。自分自身もお客さんとしっかりと向き合いながら、人と人が繋がる特別な体験も提供できたらと思っています。
F.I.N.編集部
そういった唯一無二の体験に、お客さんは18,700円という金額を支払っているのでしょうか。
鈴木さん
決してお安い金額ではないですが、コーヒーの新たな一面に出会えたり、特別な1日を作り出せたりしたら、その時間が「満たされた記憶」として残ると思うんです。実際、記念日や旅先の目的に選んでくださったりと、大切な節目に来てくださる方もいらっしゃって、それはとてもうれしく、光栄なことだと思っています。
F.I.N.編集部
鈴木さんは〈珈空暈〉に来るお客さんのコーヒーの捉え方を変えたと思いますが、ご自身の価値観も変わってきましたか?
鈴木さん
すごく変わりましたね。昔はコーヒーに対して「こうでなきゃいけない」という思いが少なからずありました。でも〈珈空暈〉でコースを組み立てるなかで、「もっと自由でいいんじゃない?」と思えるようになって。安心して口にできるものであれば、自由な発想で楽しんでいいのではないかって。
いちごを米油に漬けるとか、ネギをキャラメルにするとか、一見すると変わり種に思われる組み合わせも、ちゃんと素材と向き合えばおいしくなるし、何よりお客さんに驚きと喜びを届けられる。そうやって、これまでのコーヒーの「正解」を新たな目線で捉えられるようになったことで、自分の表現の幅もぐっと広がったと思います。
嗜好品としてのコーヒーが
満たしていくもの
F.I.N.編集部
この先、コーヒーという嗜好品はどのように変化していくと思いますか?
鈴木さん
残念なことに、原材料の高騰、生産地の環境変化、為替の影響などさまざまな要因で、コーヒーはこれまでの価格帯では成り立たなくなってきています。そのため、これからどんどん高級品になっていくのではないかと。でもだからこそ、「ご褒美としての1杯」や「最高の状態で楽しむ1杯」としての価値が、今後ますます注目されていくと思います。
ただ、「日常の1杯」も同じように大切だと感じています。コンビニの数百円のコーヒーのような日常使いも、〈珈空暈〉のような非日常の体験も、「満たされる」という意味ではどちらとも等しく価値があるものですから。大切なのは、その人の心の余白に寄り添えるかどうか。それがコーヒーの魅力の1つだと思っています。
F.I.N.編集部
これから挑戦していきたいことはありますか?
鈴木さん
もっともっとコーヒーの可能性を広げたいです。そのためにも、自分がいなくてもお店が回るようにチームを育てていきたいですし、バリスタという職業を続けられるものにしたい。ヘルシーに働けて、でも努力すればちゃんと評価される、そんなモデルケースをつくりたいです。
そしてコーヒーを通して「満たされる」という体験の意味も、もっと柔軟に、もっと多様に捉えていきたい。私自身がそうだったように、「コーヒーはこうでなければならない」という固定観念をほどいていくことで、心はもっと満たされていくはずです。
コーヒーは嗜好品です。だからこそ、自由であっていいはず。大切なのは、自分の心が動く瞬間。それが、その人にとっての「満たされる1杯」になると思います。そんな1杯と体験を、これからも丁寧に届けていけたら。
【編集後記】
鈴木さんに、「これまでに印象に残ったコーヒーはありますか?」とたずねると、「後輩がバリスタのトレーニング中に淹れたコーヒーが驚くおいしさでした」とお話してくださいました。コーヒーは思ったより、味も、人の個性も、ダイレクトに表現されるようです。取材中に鈴木さんが淹れてくださったコーヒーは香り高く、とても華やかでおしゃべりでした。まさに感動を呼ぶ1杯。鈴木さんご自身も思いや希いをのせてコーヒーを淹れることで、満たされているのではないかと思います。未来にはもっと嗜好品としてカップや飲む環境などの価値が変容して、楽しむチャネルが増えそうな予感にときめきました。
(未来定番研究所 内野)
未来定番研究所に来て、ハンドドリップの腕が上達しました。私の忘れられないコーヒーは京都の古伊万里を扱う骨董品さんのカフェで飲んだ1杯です