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2019.10.04
稲葉俊郎先生と考える、医療の未来。<全2回>
今回ご登場いただく稲葉俊郎さんは東京大学医学部付属病院の循環器科にて医師として仕事をされる傍ら、ジャンルにとらわれることなくさまざまなアーティストとの交流や講演なども行っており、既存の「医療」という枠組みを超えての活動が注目されています。西洋医学の現場に身を置き患者さんと対峙するなかで考えていることや、アートや文芸の中にどのような可能性を見出しているのか?
自分の身体のことを知るヒントとは?そしてそこにアートはどのように関わっているのか?2019年9月25日『からだとこころの健康学』(NHK出版)を上梓された稲葉先生に、医療の未来について、お聞きしました。
◼言葉で規定することでこぼれ落ちてしまうもの
F.I.N.編集部
医療の現場に従事する稲葉先生が人間の身体について考える時に大切にされていることは何でしょうか?
稲葉さん
そうですね。僕は昔の記憶を思い出すのが好きで、暇な時に自分のあらゆる“最初の記憶”を呼び起こして思い出してみる遊びをしているんです。子どもって偏見なくいろいろなことに関心があるものですけど、大人になるにつれて仕事・生活・生き方など、やっていることすべてが専門化して、部分化していくことにすごく違和感を覚えていて。「なんで大人になると生命活動がバラバラに分けられてしまうのだろう?」「仕事は仕事、遊びは遊び、そんな風に明確に分断してしまうのはなぜだろう?」と、思うんですね。いま2歳になる子どもを見ているときも思うのですが、この世界を言葉で認識する以前の時期って、世界全てが切れ目なく完全に繋がっていたと思うんですよね。でも、言葉を学び、物事を概念化してグループ分けをしていく。言葉の学習で得るものも多いのですが、同時に失ったものも多いだろうという気がします。これって言葉の魔力みたいなものだな、と。
F.I.N.編集部
言葉になる前の、曖昧なものこそが本当はすべてを包括している、というような。
稲葉さん
そうですね。ここ最近、若い患者さんとの対話のなかでこういうことがありました。高校生くらいのリストカットを常習する女の子です。なぜ彼女がそうした自傷行為をするのか、その本質的な理由を考えながら話を聞いていたとき、その子の言葉自体の中に、すでに発想の仕方・考え方が植え込まれているなと思いました。「この身体は私のものだから、どうしようと先生には関係ない。売春しようと傷つけようと私の自由だ」と言うわけです。確かに“私がこの身体を所有している”と考えると何をやってもいいとなる。けれども、主語を入れ替えて“身体が私を持っている”と考えれば、身体のほうが大きい概念となって、私のコントロールを超えたもの、になります。それは、“身体”を“命”に置き換えても同じです。ちょっとした言葉の順番で思考パターンが変わることを伝えただけですが、その話をしてから、彼女はリストカットをやめたんです。
F.I.N.編集部
興味深いですね。高校生くらいの患者さんとは、先生の循環器という専門の中で出会われるのですか?
稲葉さん
循環器のなかでも『先天性心疾患』といわれる先天性の病気の人を専門にしているので、高校生や大学生など、若い人を診る機会も多いです。先天性の病気の場合、これまでは小児科が生涯に渡って診ることが多くて、大人への橋渡しをする分野はなかったのですが、成人向けの医師も関与する必要性が分かってから注目されている分野です。子どもと大人の“あいだ”を担当しているので、思春期の気持ちに自分が寄りそうことを大切にしています。
F.I.N.編集部
何かと何かの間の橋渡し、というのは先生がやられているさまざまなことに共通していそうですね。
稲葉さん
すべては巡り合わせで、自分が進む後を振り返ると自分の道ができているのだと思います。先日、画家の横尾忠則さんの文章を読んでいたところ「20歳以降は全部おまけだ」と書いていらして。10台までで僕らの人格の要のほとんどは肉体ですでに経験していて、あとはそれを確かめたり思い出したりする作業に過ぎない、と。僕が先ほど話した、いろいろ記憶を思い出すようにしていることとも共通していると感じました。大人になるにつれ外からの情報が溢れてくるけれど、自分は何に違和感や矛盾を感じているのか、という感受性の土台は10代という多感な時期にほぼ全てが詰まっていると、僕も思っています。
F.I.N.編集部
多感な頃にほとんどは出来上がっているからこそ、その時の感受性を大切に、と。
稲葉さん
でもそうした思春期の視点を“厨二病”と呼んでバカにする人もいるでしょう?あの時期が大切だったと本能的に知っているからこそ、そうして無意識にバカをして距離をとろうとしているのかもしれませんが、僕には理解できません。あの多感な時期こそが、人間としての原型むき出しの時期で、切実に真摯に世界と一対一で対峙して生きていた時期です。“厨二病”の“病”も、“悪いもの”という無意識の前提はありますが、 “身体の表現”と考えればニュートラルなものですから。僕が医者になろうと思った原点も、子どもの頃に身体がとても弱くて、命を助けてもらった記憶が強く残っていて、元気になったら助ける側に回りたいと思ったからです。でも、医者になると実際の医療はジャンルがどんどん細かく分かれてタコ壺化して行く。専門を狭くすればライバルも少なくなり、その道の権威にはなれます。でも僕が生涯かけてやりたいのは部分ではなく全体です。もちろん、0.1mmレベルの局所的な世界でも生命が作られているのも事実です。ただ、もう一度立ち戻って、人間の身体、心、命などの“全体”に戻りたいと、子どもの時代を思い起こすたびに心の奥底が自分に訴えてくるんです。
◼身体全体から考える「健康とは何か」
F.I.N.編集部
西洋医学の最先端をお仕事にしつつも、そういった身体全体に立ち返ることも同時にされているのですね。
稲葉さん
僕らが医学部や医師国家試験で学んだことは基本的に「病気学」です。病気の勉強を延々としていているけれど「健康とはどういうことか?」に関しては何も学んでいません。「病気じゃなければ健康だ」という無意識の前提が隠されているわけです。だけどそう単純じゃないと思います。病気が発症した身体の一部を治療しても、身体や心が健康かというと、そうでもない。実際、僕が担当している先天性疾患も、そもそも“先天性の生まれつきのもの”です。それを「病気だ」として消えないといけないと考えることがあっているのか、と思いますよね。つまり、病気学としての西洋医学にもある面では限界があって、考え方や使い方次第では悪い方向へと持って行きすぎることもあるんじゃないかなと僕は思っています。
では、何をやりたいのか。それは「健康学」としての医療をやりたいと思うのです。音楽を聴いて感動し涙を流したり、絵を見て元気になったり、文章を読んでやる気が出たり、自分の過去の経験を思い出してもたくさんありますが、結局そうしたもの人間の健康にとって大事じゃないかなって、わずかな自分の人生の経験だけでも思うので。そうした大事なことを、今からもっと知恵を寄せ合って考えていく方へと向かいたい、と。
F.I.N.編集部
そういったところへたち戻るきっかけが何かあったのでしょうか?
稲葉さん
たとえば、突然意識を失って病院へ搬送され、僕らは必死で心臓の緊急治療を夜中でも5時間とかかけて必死で治療することもあります。原因としての心臓は治ったはずなのに「殺してもらったほうがよかった。生きてても楽しくない」と言われたりすることがあって、ショックを受けるんです。部分を治しても全体としての幸福感を感じていない人もいる。そういう時、身体は純粋なる“Body=肉体”という部品修理のような話で収まるものではなく、心が満ちることで身体も充実して生き生きとしてくるのだと強く感じます。だから、何を食べ、どこで生活し、どの街で暮らしているかで、心の満ち足りている感じが日々異なり、人によっても違うのならば、僕の中ではそうした身体や心を元気のするもの全部を含めて「医療の可能性」としてとらえたいです。
稲葉俊郎(いなば・としろう)
医師、東京大学医学部付属病院循環器内科助教。医学博士。1979年熊本生まれ。心臓カテーテル治療、先天性心疾患が専門。在宅医療や山岳医療にも従事。西洋医学だけではなく伝統医療、補完代替医療、民間医療も広く修める。2011年の東日本大震災をきっかけに、新しい社会の創発のためにあらゆる分野との対話を始める。単著『いのちを呼びさますもの』(アノニマ・スタジオ)、『ころころするからだ』(春秋社)、『からだとこころの健康学』(NHK出版)など。
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