かっこいいもの、かわいいもの、美しいもの、珍しいもの……。自分が好きになったものをひたすら集めることは、昔から人の心を豊かにしてきたように思います。しかし最近は、ただ単に集めるだけでなく、その先に新たな価値を見出したり、形のないものを追い求めたりする人も少なくないよう。テクノロジーの発達によってあらゆるものにアクセスしやすくなった今、人々は何を集めるのでしょうか。その先に見出すものとは? F.I.N.では、「集める」の先にある価値観を探求します。
好きなものを「集める」ことは、その対象を「推す」ことと密接に結びついているように思えます。その「推し活」は、ここ数年で単なる趣味の域を超え、経済をも動かす社会現象へと発展しました。今後「推し活」が加速した先には、何が待っているのか。そもそも、私たちはなぜ推しを求め、集めてしまうのか。昨年、推しに人生を捧げるコレクターの執着とその暴走を描いた小説『コレクターズ・ハイ』を上梓した小説家の村雲菜月さんと、宗教や文化的背景から人々の心理を研究する柳澤田実さんと一緒に考えます。
(文:大澤景、写真:西谷玖美)
柳澤田実さん(やなぎさわ・たみ)
1973年ニューヨーク生まれ。東京大学総合文化研究科博士課程修了。博士(学術)、南山大学准教授などを経て、関西学院大学神学部准教授。専門は哲学・宗教学。宗教などの文化的背景とマインドセットとの関係を中心に研究している。訳書にターニャ・M・ラーマン著「リアル・メイキング いかにして『神』は現実となるのか」(2024年、慶応義塾大学出版会)など。
researchmap:https://researchmap.jp/maja
村雲菜月さん(むらくも・なつき)
1994年北海道生まれ。金沢美術工芸大学美術工芸学部デザイン科視覚デザイン専攻卒業。商品プランナーとして会社に勤務する傍ら、小説を書き始める。2023年、『もぬけの考察』で第66回群像新人文学賞を受賞。2024年、さまざまなオタクやコレクターの執着と暴走を描いた『コレクターズ・ハイ』を上梓。
「推す」と「価値」は密接な間柄
F.I.N.編集部
おふたりはお会いするのは初めてということで、まずは自己紹介をお願いします。
村雲さん
2年ほど前に、小説家としてデビューしました。普段は商品の企画や開発の仕事をやっていまして、その傍ら、小説を書いています。自分もアニメが好きで推し活もしますし、仕事では推し活に合わせたリサーチや企画をしたりもしていて、そこで気になったことが自分の小説の題材になることもあります。
柳澤さん
私は哲学、心理学の方法を用いて「人間の価値判断」について研究しています。特に宗教における「神聖な価値」に興味がありますが、この価値判断は経済活動にも関わり、何かを良いと思って商品を買うこともまさにそうで、推し活とも密接に関係しています。
人が価値判断を行うにあたって対象に「損得以外の価値」を見出すことがあります。例えば、ただのペンであっても、大切な人からの記念の品だったら、人にあげたり転売したりすることに心の痛みを感じる。そのように、人はモノや概念に、経済的には還元できない「神聖なもの」としての価値を投影することがあって。宗教をはじめ、人のそんな心理に面白みを感じています。
村雲さん
人が本来の体験以上のところに付加価値を見出しているということですね。推し活の場合、推す個人が一方的に価値をつけている部分もありそうです。
柳澤さん
そう、「神聖な価値」というと絶対的なものみたいな感じがするけれど、主観的なものでもあるので、文脈次第で変化するんです。極端なことをいえば、人の臓器を売り買いするなんていうと「それっていいのかな?」って感じがしますよね。だけど「それが誰かの命を救う」という文脈では良しとされる。人は、その時々で都合よくフレーミング(見方によって評価や判断が変わること)するんです。さっきまではすごく神聖だったものが、別の場面ではどうでもよくなってしまったり。
村雲さん
人間の「ゆらぎ」ですね……。
柳澤さん
そうなんです。『コレクターズ・ハイ』でも、そうしたゆらぎがうまく表現されているところが特に面白かったです!
『コレクターズ・ハイ』(村雲菜月、講談社)
玩具会社でカプセルトイの企画をする主人公は、「なにゅなにゅ」というキャラクターのグッズ集めに夢中。取れないクレーンゲームの景品は、クレーンゲームオタクの森本に頼み、その代わり、森本は主人公の頭を撫でることを求める。そのため、主人公は髪オタクの美容師・品田のサロンで定期的に縮毛矯正をかけ、ツヤツヤの髪を保つ。3人は互いの欲望を交換し合うが、次第にバランスは崩れ始める。持ちつ持たれつの関係が綻び、支えきれなくなったとき、物語は恐ろしい速度で転がり落ちていく。
2020年代における「推し」の定義とは
F.I.N.編集部
「推す」という行為は人によって解釈が色々ありそうですが、おふたりにとって「推す」「推し活」って何でしょうか?
村雲さん
定義は本当のところ、なくなってきているんじゃないでしょうか? 推しの対象にお金を使うのが推し活だって人もいるけど、創作活動をしたり、時間を使うこと自体がそうだという人もいますね。だから思うのは「好きなものに対して、趣味の範囲で自発的に行動すること」それ自体が、推し活なのかなって。
柳澤さん
基本的には「応援すること」ですよね。ファン(Fan)という言葉はFanatic(熱狂的)から生まれてきたものだから、いわば「熱狂的に応援している状態」なのかなと理解しています。「推す」というのは、その言葉の通りより能動的で、単に消費するだけでなく、二次創作したり、ぬいぐるみを作ったりと、参加型の応援になっていく。それが企業コラボや観光PRといった経済活動とも結びついて、より能動性が加速している感じがしています。
村雲さん
その通りですね。
柳澤さん
その動きって推し活に限ったことではなく「SNS選挙」なんて言われますが、政治にも見られるようで。どうしてそうなったかというと、人を集めたり動かしたりする手段として今一番有効なのが「ファンをつくる」ということだからだと思います。カルチャーの領域でK-POPが1つの強固なビジネスモデルになったのがわかりやすいですが、それ以外の分野でも、発信側が、なかなか「ファンをつくる」以外の方法について有効なアイデアがない状況なんじゃないでしょうか。
「推し活」が持つ、表裏一体のパワー
村雲さん
宗教や政治と「推し活」が繋がるというのはとても面白いのですが、そもそも柳澤さんはどうして「推し活」に興味を持ったのでしょう?
柳澤さん
最初は、教えている学生さんの中にこのテーマで研究したい方が増えてきたからですね。BTSがわかりやすい例として挙げられますが、膨大な量のコンテンツの翻訳を無償でやっていたり、ファンの間に贈与的な関係性がある。それによってグローバルなコミュニティが生まれたわけです。こうしたファンコミュニティ全般を、「ファンダム」(「fan」と「集団」や「領域」を意味する「dom」から)と呼ぶようになりました。草の根的に民主主義的なコミュニティを形成させる側面が評価されたりもします。
ファン心理は、人を動かす大きな原動力です。けれど、私の立場としては、『コレクターズ・ハイ』がどちらかというとそうであるように、その負の側面には懸念を持っています。良くも悪くも作用する両義的な心理だと思います。
F.I.N. 編集部
『コレクターズ・ハイ』では、ある種中毒的な趣味をうまく仕事に生かしているように見えていた登場人物が、その裏で常軌を逸した行動をしていたことがあきらかとなりゾッとしました。健全に職業へ昇華させていたと思っていましたが、むしろ推し活に依存気味だった主人公と見え方が入れ替わったというか。
村雲さん
マニアとかオタクって、仕事に還元されるとグッと役に立つところがあると思います。だからといって、仕事を免罪符に好き勝手やる、というのも嫌で……。でも、それを表立って主張していなかったら悪いことではないかな、とも思うんですよ。そういうところを書きたかった。
柳澤さん
昇華、というのは、いい言葉ですね。自分の「キモさ」を大事にするというか、一概にそれが抑圧されるのもよくないと思うのです。何かを大事に思ったり、尊ぶことって、はたから見れば気持ち悪かったりもします。それが一方では、人間の面白さにもなるわけで。
村雲さん
そういう一面を自分の個性として大事にできればいいと思うんです。だけど推し活の一面を考えてみると、特にSNS上では、相手を意識することで過剰に自慢したり比べたりしちゃって疲れてしまうというか。
村雲さん
もうひとつ気になったのが、払う対価です。柳澤さんの評論で印象的だったのが「ファンは、純粋な利益のためにどれだけの価値でも払う」というあり方。ただ、そのお金が汚れたお金であってもいいのか?というのも疑問に思っていて。
柳澤さん
良くも悪くも「プライスレス」なんですよね。ファンだからこそ、わかりやすい損得で処理しきれない。ファン心理の危ういところです。
村雲さん
『コレクターズ・ハイ』では、主人公が推しのグッズをUFOキャッチャーで取ってもらう代わりに自分の頭を撫でさせる、というやりとりがあります。歪んだ自己消費のうえで対価を得るようなやりとりを、いいと思ってやっているのか?っていうのは気になっていまして。まったく罪悪感なくやっているんだろうかと。それが加速していくと、犯罪も肯定しかねないですから。
柳澤さん
危険性という意味では、現実でも、生活への支障がでたり、道徳的に踏み外すということがありますよね。全部根っこは一緒で、プライスレスなもののために、人は簡単に踏み外せてしまう。
信仰の対象のような「神聖な価値」を心理学の側から見ると、自分を超えたものに自分自身を捧げたいという人の欲求は自然に備わっています。ですが、「神聖な価値」に献身することは生きがいや実存に関わってくるからこそ、逆にいくらでも搾取されてしまう怖さもあります。
「推す」と「集める」 ー 日本人の性質
F.I.N. 編集部
推しという行為のなかに「集める」ことが入ってくるのも気になっています。どうして、推し活をしていると集めたくなってしまうのでしょうか。
柳澤さん
モノをコレクションしたり密集させたりしたいという願望は、人にとって普遍的なものですね。例えば、キリスト教では、教会に夥しい装飾を施したり、オブジェを密集させたりというのはよくあります。そうした物神崇拝、偶像崇拝を禁止して、「正義」や「真理」といった普遍的な概念に聖性を与えて、共有できる人を増やしたという大きな変化はありますが、それでもモノへの執着はなくなりませんでした。
村雲さん
推し活では「集める」ということに安心感を覚えている人はすごく多い気がします。自分が集めたものに囲まれていることに、安心感だったり、欠けているパーツを埋めるような気持ちが含まれているのかなぁ、と。
村雲さんがコレクションしているのは、〈コメダ珈琲店〉のメニューを再現したミニチュアフィギュア。一気に大人買いして集めたのだそう。
柳澤さん
結局、何もなかったら混沌としているだけですからね。だから、人は芸術や建築物をつくるときにも、モノを並べて、リズムや秩序を生み出している。今、多くの人が情報の洪水のなかにいるから、そこにモノを並べることで自分の世界をつくっている。そんなふうにも見えます。
大前提として、今の社会では、共同体で共有するものがなくなってきている。そのなかで、昔だったら宗教が受け持っていた「生きがいや価値観を共有できる」という機能が、推し活になっているともいえます。今は小さい宗教がいっぱいあって、それで皆が何とか自分を支えている状況なのかもしれません。
村雲さん
この4、5年で普及してきた推し活の宗教性と宗教の何千年の歴史……。歴史の厚みの差がすごくてなかなか対等には思えないですね。
柳澤さん
もちろん歴史が示すように、宗教もいい面ばかりではなく、熱狂的すぎることもあります。もはや推し活化している宗教の流れというのもありますし。けれど双方に共通するのは、「生きる意味」や価値です。現代では社会が供給できない以上、自分でつくらないといけなくなりました。
そもそも、日本の文化は推し活と親和性が高いと思うんですよね。抽象概念というのは西洋特有の傾向でもあって、日本人は、制度や考え方の基本は西洋化しているけど、抽象的な概念や理念には実際にはリアリティーを感じていないように思います。何らかのかたちでモノや偶像が介在して、そこに自分を超えた価値を感じている傾向が強いんじゃないでしょうか。
村雲さん
たしかに、何をするにしても、持っていることとか、行ったという経験の蓄積に価値を感じる人がすごく多い気はします。
柳澤さん
その結果、推し活でいえばプロダクトやグッズがたくさんつくられていると思います。それは見方を変えたら、西洋で抽象概念や宗教が担っているものが、日本だったらフィクションやアニメといったコンテンツが担っていることになるのかもしれません。
村雲さん
ゆるキャラ総選挙みたいなものもありますね。推しを競わせるというか。それは、宗教でいえば宗教間のバトルになるわけでしょうか?
柳澤さん
集団ができると集団間の争いになるのかもしれないですね。そうやって宗教を代替する機能を持つポップカルチャーが経済活動と切り離せなくなってしまっていることに、私はある種の危惧を感じていて。モノや経験をいくら集めて推し活をしても、自分を超えた価値に向かわない限り、それだけでは満たされない人も多いからエスカレートするのかなと。だからこそ、作り手側が、モノを超えたところの何かを提示していけるといいなと思います。
売れてほしいけど、ファンを消費したくない。作り手のジレンマ
村雲さん
でも作り手や売り手からしたら、どうやってファンをつくるか、競合とどう対抗するか、という競争意識からなかなか抜け出せないなぁと思います。
これは仕事にしている商品企画の立場と、物語をつくっている小説家の視点も入り混じっていますが、消費者に楽しんでほしいというのは前提ではあるものの、作り手の生活や売り手の経営を安定させるためにも買ってほしいし、売れてほしい。だけど、そのために消費させるということに加害性がないとはいえないんですよね。幸せにしているつもりでも、いいことだけではないかもしれない。そんな葛藤は、常にあります。
柳澤さん
純粋に経済活動の活性化を考えれば推し活ってプラスだし、皆が楽しいから盛り上げていこうという市場の動きがある。しかしそれだけじゃない問題があるということは私も常日頃考えますね。
今はコンテンツも多すぎて、その1つひとつが消費者を縛りつけて時間とお金を使わせようとしているわけじゃないですか。大学で教えている学生さんたちを見ていると思うのですが、そのような情報環境にいる結果、興味がないものには「ない」と切り捨てる印象があります。
村雲さん
たしかに、そうですよね……。TikTokなんて、自分が気に入るであろうものをAIが自動的に出してくれる。それを見ているだけで時間がなくなるし、本当に好きなものを見つけることって、実は難しくなっているんだろうと感じます。
柳澤さん
最近、行列のできるお店が増えている気がするんです。それって、SNSの影響で「点」的な情報が増えて、自分の関心と消費活動がダイレクトに結びつくようになったことのあらわれなんじゃないでしょうか。そうなると、本来、街に出たら「街並み」という目的地までの「線」が立ち上がってくるはずだったのがなくなっていく。私たちが生きる空間もいつの間にか点的な消費に合わせたかたちで変化していくと思うんです。それって、多分、あまり幸せではないんじゃないかな。
村雲さん
それでいうと、価値観自体も変わってきていますよね。最近、推し活に夢中になる人のなかに、恋愛しない人が一定数いるなと思うんです。もしかしたら、推し活だけじゃなくて趣味やコンテンツが多様化して生活に占める割合が増えることで、恋愛や結婚自体が趣味の一環になっているのかな、と。本来は社会的活動に結びついているものなのに。
柳澤さん
そういう現象はたしかに身近でよく聞きますね。例えば、同じ職場に気になる相手がいるという若者がいて、旧世代の私からすると「付き合っちゃえばいいじゃん」って思うのに、「推しでいい」っていうんです。面倒な部分、傷つく可能性は排除して、純粋な思いを保つための「推し」だっていうんですね。それが自分を高める動機にもなっていると聞くと、本当に宗教とか恋愛の代わりに「推し」がなってきているんだなって思いました。
実際かつては人類共通の価値だった「愛」に対する共通の価値観というのもなくなってきていますよね。恋愛も結婚も本来共同体にとって必要なことだったのが、その必要性と結びついた「愛」を神聖なものとする価値観もなくなって、すべてが個人の消費中心になっているように見えます。
「推し」の先にあるものとは
柳澤さん
消費活動を促す人は、今後、関心の対象となっている点と点の「間」の部分をどうつくるかが課題になっていくんじゃないでしょうか。少し前は「ストーリー消費」に関心が向けられていたのが、今や点だらけになってしまった。そういう傾向に対して、どうやって文脈やつながりを見せるかというのが面白いし、勝負どころなんじゃないかなと思います。
村雲さん
推し活も消費者の立場からしたら可処分時間の奪い合いになってきて、正直なところ「もうないよ」と感じます。そうなったら私は、この熱狂もいつか落ち着いてもう少し「自分」を大切にするようになるんじゃないか、と思っていて。推しを愛でるんじゃなくて、自分を愛でる。その流れが、もしかしたらくるのかもと。
柳澤さん
どんな宗教であれ、宗教に入っている人は健康で長寿であるという統計もありますが、推し活だって、そもそもは自分のためのものですよね。消費者の時間配分が限界を迎えようとしている現状からしても、自分自身で見つける「途中の過程」が大事になるはずです。その意味でも線、「間」で勝負する小説というものがこれから持つ役割も大きいと思います。
村雲さん
私は、自分で書き始めてから小説をいろいろ読むようになったんですが、好きな作品を発見する過程に、無駄かもしれない何十冊がありました。それもまた面白いな、と感じます。あと、私も自分の推し活でライブに遠征しに行くこともあるんですけど、そこで観光地をまわったりおいしいものを食べたりするのが楽しいんです。自分の中の楽しいものを一点集中じゃなくて興味を増やして分散させていくというか。
柳澤さん
推し活も、おおもとでは自分にとって特別な何か、価値を求めているわけですよね。だから熱狂的な状態もありつつも、一歩下がって「自分」に目を向けていかないといけない。
村雲さん
そうだ、推し活のいい面なんですが、自分自身を語ることより「好きなもの」について語るのって、ハードルが低かったりもしますよね。推し活が定着してきた結果、自分のことをより語りやすくなったということは言っておきたいです。
柳澤さん
たしかに「個人消費しかない」という現状にも希望はあって、ある意味では、西洋的な押し付けではなくて、日本的な個人主義が立ち上がってきたともいえますね。
もしかしたら、個々が何かを深めて「私はこれが好き」というのをそれぞれが自分自身でつくっていって、「自分」が立ち上がっていく契機なのかもしれません。受動的に消費していると、永遠に考えないで済んじゃいますから、「推し活」やモノの収集が、有限な時間のなかで、自分に向き合う契機になるといいですね。
【編集後記】
私も推し活をしていて「尊い」という表現をよく使いますが、それはまさに推しに聖性を見出していたのだなと思いました。本来自分を超えたところにあるはずの価値が物質的・空間的に還元されたモノを手元に集めることで、安心したり、満たされたりする感覚は私自身とても身に覚えがあります。
損得なしに大事にしようと思えるものに出会えることは人として幸せを感じる瞬間の1つですが、「プライスレス」の名のもといつのまにか主観も客観も埋没してしまう、そのややこしさを改めて認識しました。あらゆるものが個人単位で最適化できてしまう今、改めてその均衡を保つ難しさを痛感させられます。
集めるのか、集めさせられているのか。推し活実践者として、サービスを展開する組織の1人として、その境界を探り続けていきたいです。
(未来定番研究所 高林)