2021.11.26

なぜ私たちは遊ぶの? 遊びの根源を探る。

「そもそも、なぜ私たちは遊ぶのだろう?」「遊ばないと、どうなっちゃうの?」「日本人って、遊ぶのが下手なのでは?」。遊びと聞いて、私たちはまっさきに楽しいことを思い浮かべますが、その効果や可能性について、改めて知ることも大切です。今回は遊びについて研究する、東京学芸大学副学長・松田恵示さんに、遊びの根源についてお話を伺いました。

Profile

松田恵示教授

東京学芸大学教授(芸術・スポーツ科学系健康・スポーツ科学講座体育科教育学分野)。特定非営利活動法人東京学芸大こども未来研究所理事長、社団法人教育支援人材認証協会理事などを務める。様々な遊びや身体文化についての研究を行うとともに、学校と社会をつなぐための教育人材の育成や、教育現場との実践的な共同作業を行っている。主著に『交叉する身体と遊び – あいまいさの文化社会学』、『おもちゃと遊びのリアル –おもちゃ王国の現象学』(ともに世界思想社)などがある。

遊びとは、生きることそのもの。

まずは、ホイジンガという歴史家が1938年に書いた著書『ホモ・ルーデンス』を紹介したいと思います。「ホモ・ルーデンス」とは、まさに「遊ぶ人」という意味で、タイトルには、人間の本性はそもそも遊ぶことにある(さらに言えば、人が生きるということは遊ぶということでしかない)というニュアンスが込められています。私たちが生活をする中で日々を支えてくれているものに「文化」がありますが、この文化こそ遊びの中で遊ばれることによって創造されていることをホイジンガは説いています。

 

例えば、昔、原始時代に生肉を食べていた人達がいた。その隣でたまたま焚き火をする人達がいて、ちょっとおちゃらけた人が肉を火の中に突っ込んでみたところ、パチパチ音がすることに気づきます。「なんだか面白いぞ、そして食べてみたらこれは美味だぞ」と。食べ物を焼くようになった起源をそんな風に想像することもできませんか? つまり、何か目的があってその手段として様々な知識が積み重なって文明ができたのではなく、そうして「遊ぶ」ということの中に偶然の産物として蓄積されたものが、人間の文化や社会なのだということです。ホイジンガの言いたかったことを僕なりに解釈すると、多分こんな感じだと思います。

 

私たちは何かをする時、「何のため?」と目的を問います。でも、木登りをする子どもは、筋肉を鍛えようとして登っているわけではありませんよね。登る遊びをしていたら、結果として腕が強くなっていた。遊びとはそういうものです。ホイジンガはさらに、19世紀以降、現代に至って、社会の中で遊びの要素が極めて少なくなり、文化もとても貧しいものになってしまったと述べています。

 

一方、日本を見てみると、勤勉で真面目な日本人ですから遊びには慣れてないと思われるかもしれませんが、もともと遊びが豊かな国だったと思います。例えば、江戸時代。浮世絵や舞踊など、世界的に注目される文化が多く生み出された時代ですよね。江戸の人々には独特の遊びの精神があり、そこから醸成された質の高い文化が生まれたのではないでしょうか。明治や大正期の娯楽にしても同様です。今の日本に感じる閉塞感は、むしろ遊びから考えていかないと根本的な問題の解決にはならないのでは、と思うのです。

遊びとは<非>真面目であること。

今、世の中が真面目になりすぎているということを感じます。「失敗したらダメ」という意識が非常に強いですよね。真面目というのは一義的に物事を考えてしまうことです。対して、遊びには視点の複数性がありますから、それは<非>真面目ということになりますよね。不真面目とはわざと言っていないところが、ちょっとしたミソです。

再び子どもを例に挙げてみると、5段の跳び箱は簡単すぎるけれど、6段になって成功率が半々になるという時、すごく夢中になったりするものです。つまり、できないからこそ面白いんですよね。ところが、ほとんどの子は、できないとつまらないと言います。できない=遊びではなくなってしまっているわけです。本来なら、6段を跳べようが跳べまいが人生にはそんなに影響がない“どうでもいいこと”ですから、一つの遊びであっていいはず。逆にどうでもいいことだからこそ一生懸命になるし、チャレンジができるんだと思うのです。失敗してもいいことだからチャレンジができる、一生懸命になるというのが、遊びの不思議なところでもあります。最近では情報環境が整備された影響は大きく、一度まずいことをしてしまうと何年経っても過去のあやまちが付いて回りますよね。つまり、忘れられることがないから、チャレンジして大失敗するということが起きづらくなっているということが、ひょっとしたらあるかもしれません。

 

また、今の時代は信頼より、信用で成り立っているのではないでしょうか。信用って、真面目のことですよね。遊びはどちらかというと信頼も豊かな状況でないと広がりにくい行為です。こういう時代の持つ雰囲気も深く関係していると思います。

遊びとは、間・動き・独特の関係。

ここで、もう一つ紹介したい本。それが西村清和先生の『遊びの現象学』です。私なりに解釈すると、遊ぶための条件に「間・動き・独特の関係(安心感)」という3つの要素があるということです。

 

まず、間と動きについて。自動車のブレーキには「遊び」という部分がありますよね。ブレーキを踏んでから実際にブレーキがかかるまでの、空白の部分です。それを「遊び」と名付けています。またそれは、ブレーキを踏んだり離したりする反復運動をしてみないとわかりません。例えば、ゲームは大体は勝つか負けるかの勝負ですが、その間を心が揺れますよね。さらに勝つか負けるか心が揺れた時ほど面白いものですから、この「間」と「動き」が遊びの条件だというのは、なるほどなあ、と思います。

また、失敗を恐れずに遊ぶためには「これは遊びという独特の関係なんだ」と了解しているのは大事な要素になってくると思います。サッカーのようなチームスポーツにしても、相手やメンバー全員が、「遊びの中でのことだからね」って理解してくれているという安心感がなければ、相手とぶつかったり思い切ったプレーはできませんよね。いつもとは違う、というはっきりした感じがみんなで持てていなければ、失敗OKって、やっぱり思えないですよね。

そしてまた、遊びは学びとも近いものです。学びとは、何かに出会って変化することです(悪い方にも変化しますが、ある意味それも学習だとは言えます)。遊びも、何かに出会って夢中になる時に、できないことができるようになったり、新しい価値を発見して楽しくなったり、自分が変わっていくことですから、本来的には遊びと学びはシームレスです。もう一つ、アンリオっていう研究者が言うんですけど、遊びは形としてあるよりも態度としてあるのではないかと思います。仕事と遊びの区別をつけるとよく言いますが、それはどちらかというと形を指している場合が多いのでは? 仕事を遊んでいるときもあれば、遊びなのに仕事してるときもあると思います。形だけで判断するのは、ちょっと危ないかもしれません。

遊びとは、仕事をも支えるもの。

仕事の場面では、どうしても結果が問題となるので、真面目が勝ってしまいますね。ただ、指標を設けること自体が真面目かというと、そうではないと思います。テレビゲームにしてもクリアするというゴールがあるように、遊びの中でもやはり指標はありますから。問題は、指標をどう受け止めるのか、その態度にあるのではないかと思います。そのためには、今の自分と挑戦しようとしている課題が見合っているか、簡単になりすぎて退屈しないか、難しくなりすぎて不安にならないかと、調整する「釣り合い(フロー)」がやはり大事。チクセントミハイという心理学者が言ったことです。

また、真面目なだけではなく、遊びの「態度」にも敏感になれる人が一人でもいると、組織はうまく回っていくのではないかと考えます。仕事の中でも遊びをちりばめていくコントロール役は重要ですね。遊ぶことが未来を開くことに直接関わってくると思うのですが、マインドチェンジをしよう!ではなく、ゲリラ的に楽しいことを仕掛けて、知らず知らずのうちに接点のなかったところが繋がって大きな変化が生まれる。そのような姿が仕事でも理想だと思います。

遊びとは未来を切り開くもの。

以前に比べて日本には遊びが少なくなっているという話もしましたが、その一方で、若い人たちが、我々の世代では想像もできなかった新しい遊びを作り出して自由に遊んでいるとも感じています。インターネット内での遊びや、先端的な技術の中での遊びをうまく取り込んでいますよね。

テレビゲームが登場した時代には、もっと外に出て自然の中で遊んだ方がいいのではないかという批判がありました。最近では、ネットゲームはプレイするよりも見ているだけの参加の仕方も多いですよね。私の世代に言うとポカーンとしてしまうものですが(笑)、環境をどう遊びにしていくのかという想像力がなくならない限り、形を変えながら、この先も、いつの時代も、面白い遊びは生まれてくるのではないかと思います。

【編集後記】

「遊んでないで、真面目にしなさい」というセリフが家庭でも学校でも会社でも毎日のように飛び交っている日本社会では、真面目なことに重点が置かれていますが、遊ぶことも人間の暮らしや文化に必要なことを改めて実感しました。

「遊び」「仕事」と対立項として分けるのではなく、その二つを柔軟に行き来することができれば、日々の生活のストレスも減り、豊かになる世界が広がる気がしてきました。