2018.08.04

青森・ねぶた師に聞く、祭りの担い手たちの今と未来

各地で繰り広げられる伝統的なお祭りでは、今、職人を始めとする後継者不足が叫ばれています。その裏には、単純な若者不足だけでなく、憧れや「やりたい」という気持ちだけでは経済的に厳しい、という現実的な課題があるようです。

毎年250万人以上の来場者を誇る夏の風物詩・青森のねぶた祭りは、その課題にどう向き合っているのでしょう。ねぶた師の林広海さんにお話を伺い、地域の祭りの未来を考えました。

今年もやってきた、ねぶた祭りの季節。

「ラッセーラ! ラッセーラ!」の掛け声とともに一心不乱に跳ねる人々、そして、極彩色をまとった巨大な形灯籠……。街中が燃え上がるような熱気に包まれる青森のねぶた祭りが、今年も盛大に開催されています。

 

日本を代表する火祭りとして多くの人々に愛されるねぶた祭り。その大きな魅力は、なんといっても迫力ある「ねぶた」です。これは、伝説や歴史的な物語などをモチーフとした、勇壮な武者人形を乗せた巨大な山車のことで、祭り期間になると毎年、20台ほどのねぶたが競いながら、青森の夜を賑やかに彩ります。

 

ちょうどF.I.N.編集部が取材に伺った7月26日、今年のねぶた祭りで運行されるねぶた22台すべてが台上げとなり、満を持してお披露目されました。このねぶたを作るのは、「ねぶた師」と言われる職人の方々で、祭り一番の担い手でありながら、現在、10人ほどしかいないのだとか。中でも今回は、高校時代に5代目ねぶた名人の千葉作龍氏に弟子入りして以来、30年もの長い下積みを経て、2016年にねぶた師デビューを果たした林広海さんにお話を伺いました。

Profile

林広海/ねぶた師

青森市出身、50歳。父親に連れられ千葉作龍氏(第5代名人)のねぶた小屋に出入りしていた少年時代。以来、ねぶたへの情熱を育み、高校卒業と当時に千葉氏に弟子入りを果たす。東京理科大学卒業後は株式会社富士通青森システムエンジニアリング(現富士通株式会社)へ入社。その間も、夜間や休日を使ってねぶたの技術を磨いた。2017年ねぶた師として独立、現在にいたる。デビュー作の題材は「斉天大聖孫悟空」。

幼いころから抱いていた、「ねぶた師」への憧れ。

林さんとねぶたの物語は幼少時代までさかのぼります。旧日本電信電話公社(現NTT)に勤めていた林さんのお父さんは、ねぶたの季節になると台座への布貼りや、紅白の引手を担当していたそう。「作業をしていたねぶた小屋が師匠の小屋で、小さい頃から可愛がってもらいました。手伝いが終わると父親と一緒に跳人衣装に着替えて祭りへ。ねぶたの迫力とか光とか、お酒の匂いとか。大人の世界というのかな。非日常の世界を目の当たりにしたという経験や感動が、ずっと心の中にあったんですよね」。

高校生になると、本格的に色塗りや蝋描きもやらせてもらえるようになり、卒業するタイミングで正式に弟子入りを許されたそうです。「ねぶた師を目指すことは、実は両親に反対されていました。食べていくのが厳しい、貧乏になるからと。それでも当時の私は頑なだったんでしょうね、まったく聞き入れませんでした(笑)」と林さんは話します。大学進学で上京するも、3月と7月の休みには帰省して、ねぶたづくりに励み、地元の企業へ就職した後も夜間や休日の時間を使って腕を磨いていきました。しかし、同世代や年下のねぶた師がどんどんデビューしていく中、焦りを感じていた時期も。「悔しかったし、うらやましかった。自分と何が違うんだろうってずっと思っていました。でもその反面、絶対ねぶた師になりたいという想いは強くなった気はしますね」と、当時の心境を振り返る林さん。

 

転機となったのは2016年。師匠から日本通運のねぶたをつくらないかと打診を受けたことでした。「これが最後のチャンス」だと覚悟した林さんは、23年間勤めた会社を辞め、一心不乱にねぶた制作に打ち込みました。多くの助けを借りながら、ねぶた師として初めて制作したねぶたの題材は「斉天大聖孫悟空」。誰も制作したことがない大きなひょうたんを作りたいと、10年も前から構想を温めていた作品です。大きく掲げられた高さ約2.3mのひょうたんは、まるで林さんの想いが封じ込められているようでした。

「2017年(平成29年) 日本通運(株)青森支店ねぶた実行委員会」(大久保洋之様ご提供)

”ねぶた師”という仕事

ねぶた師にはプロとアマチュアの2種類が存在します。その大きな違いは「大きなねぶたをつくれる」ことと「スポンサーから報酬をもらってつくれる」こと。今、林さんを含めて10名ほどいるねぶた師は、いわゆる「プロのねぶた師」です。「報酬はスポンサーから一括でいただきます。その年にねぶたを出すかどうかはもちろん、ねぶた師を誰にするかを決めるのもスポンサー。出資をする立場からすると、良いねぶたをつくりたいでしょうし、そのために腕のいいねぶた師を雇いたいという気持ちがあると思うので、実績のないねぶた師に依頼するというのは、ある意味リスクでもあるんです」と林さんは話します。実際、師匠から日本通運のねぶた師に、と推薦してもらった時にも、スポンサーはすぐには首を縦に振らなかったのだとか。

また、林さんはこう続けます。「ねぶたはねぶた師が基本的につくるのですが、出来上がった骨組みに紙を貼るスタッフと、中に電気を仕込む専門の方を別途雇っています。その人件費は報酬の中から私が支払いをしています」。ねぶた師がスポンサーからいただく報酬とは、その年のねぶた制作一切に関わる経費。単に制作だけでなく、運営に関わるコストもカバーしているということが分かりました。

 

林さんのご両親も反対していたというねぶた師という職業。「正直厳しい世界です。ねぶた師になりたいという人は結構いるんですが、経済的なもので挫折することが多いです。私も本当は二束のわらじをはきたかったくらい。サラリーマンをしながらやりたいと思ってたんですが、やっぱり片手間ではできない仕事です」と林さんは話します。ねぶた師への確立されたルートはなく、林さん曰く、まずは自分が好きなねぶた師の所へ頼みに行って、手伝わせてもらう所から始めることしか方法はないのだとか。

 

厳しい現実の中、林さんになぜねぶたづくりを続けていけるのかを伺うと、「やっぱり大きいものを作りたいんですよ。何百万人が見るものだし、喜んでくれているのを見ると快感なので」と笑顔で答えてくれました。

一方で、ねぶたを取り巻く環境も変化しています。インバウンドの盛り上がりでねぶた祭りに訪れる外国人観光客が年々増加していたり、日本各地のアートイベントで、ねぶたが作品として一つコンテンツとなったりなど、文化や芸術としても注目を集めてきています。それに伴い、ねぶたにも、装飾などにこだわりが強く出るようになり、年々変化を見せている中、ねぶた師の活躍するフィールドが、祭り当日にとどまらず広がっていけば、今後新たな収入モデルが生まれるかもしれません。

今年のねぶたに込めた思いとは?

ねぶた作りは正月明けから始まります。下絵(二次元のイメージ図)を描いてスポンサーに了承を得たらねぶたづくりがスタート。自宅で骨組みの状態のパーツをつくっていきます。5月、青森県観光物産館アスパムを囲むようにねぶた小屋が建つと、パーツを一堂に集めて組立てが始まります。「この小屋が一年中あると楽なんですけどね(笑)。5月に建つので3か月のうちにすべてつくらないといけないですから」と話す林さん。一つのねぶたの骨組みに使うハリガネは約100kg。それを勘と経験だけで組み上げていくというから驚愕です。CADのような立体的な図面があるのかを伺うと、下絵が設計図のすべてだというからまたまた驚愕。こうしてできた骨組みに紙を貼り、いよいよねぶたの迫力の素ともいえる「書割」が始まります。

作業を見学していると、ほかのねぶたより書割の線が太いのに気づきました。これが、林さんが継承した千葉流の特徴でもあるそう。「沿道からいかに目立って見えるかを突き詰めた太さになります。一般的には丸筆を使いますが、うちは平筆を使うのが特徴です」。ちなみに、制作に使う筆はすべて自前。弟子でいるうちは師匠の筆を使うというのが暗黙のルールなんだとか。

林さんの今年の題材は「火焔の蝦夷 阿弖流為と鬼剣舞」。岩手の英雄・阿弖流為をメインに、東北の魅力をぎゅっと凝縮した作品になっています。「青森を離れている人にもエールが届くように」との林さんの願いが込められました。

最後に「ねぶた祭はこの先どうなっていくと思うか」を聞いてみました。「ねぶたを好きな人はたくさんいるし、ねぶた師になりたい人もいる。津軽弁で『もつけ(調子に乗る)と、じょっぱり(強情張り)』というのがあるけど、そういう精神が津軽人にはあると思うんです。豪雪の地域に住んでいるからこそ、ねぶた祭りでエネルギーを爆発させるというか。そういう精神がなくならない限り、ずっと受け継がれ、残っていくものだと思います」。

今年のねぶた祭もいよいよ大詰め。「ラッセーラ、ラッセーラ!」ぜひ花笠に跳人衣装をまとって津軽の心意気を感じてみては。

編集後記

観光でお祭りを見る人、青森を離れてふるさとを思う人など、様々な方にねぶたに込めた思いが届くよう、工夫されているのですね。

お祭り当日というエネルギーを爆発的に表現するのはもちろん、その地の文化や芸術として伝える新しい試みも楽しみです。

林さんのねぶたからは、受け継がれる伝統を守る努力とそれに掛け合わせる独自性を感じました。我々も、何百年という企業の歴史はもちろん、今を働く私たちらしい表現を生かすべきなのだと思いました。

(未来定番研究所 佐々木)