地元の見る目を変えた47人。
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2019.02.20
未来を仕掛ける日本全国の47人。
毎週、F.I.N.編集部が1都道府県ずつ順番に、未来は世の中の定番になるかもしれない“もの”や“こと”、そしてそれを仕掛ける“人”をご紹介します。今回取り上げるのは、和歌山県海南市。「スタジオ木瓜」代表の日野明子さんが教えてくれた、高田耕造商店の高田大輔さんです。
この連載企画にご登場いただく47名は、F.I.N.編集部が信頼する、各地にネットワークを持つ方々にご推薦いただき、選出しています。
棕櫚と真摯に向き合いながら、その魅力を伝えていく人
和歌山県海南市は、海や山、川など豊かな自然に囲まれ、温暖な気候により、みかんやびわ、桃、かきなど農産物が盛んです。また、周辺地域では古くから棕櫚(しゅろ)の栽培も盛んで、江戸時代にはたわしやほうきなどの棕櫚製品が作られていたとか。こういった棕櫚を使った日用品製造は、海南市の地場産業として発展していきました。しかし、昭和初期から材料が棕櫚から安価なヤシの実の繊維へ移行。さらに近年ではビニロン、発泡ポリエチレンなどなどの化学素材が増え、棕櫚産業は衰退の一途を辿ることに。そんな棕櫚に可能性を見出し、棕櫚山の再生に乗り出したのが、日用品を製造する「高田耕造商店」の三代目、高田大輔さんです。もともと調理師として働いていた高田さんですが、三代目として後を継いで約10年。暮らしに寄り添い、毎日使う日用品だからこそ、使う人や環境にも配慮したものを作りたいと、荒れ果てた棕櫚山を再生しようと奮闘し、いまでは数々の棕櫚製品を作り続けています。推薦してくださった日野さんは「高田さんは、絶滅した棕櫚山の再生に力点を置きつつ、新たな産業を生み出そうとしています」と教えてくださいました。そんな高田さんにお話を伺ってみます。
F.I.N.編集部
はじめまして。今日はよろしくお願いします。まず、和歌山県海南市の特徴や魅力を教えていただけますか?
高田さん
海南市は、昔から日用品の製造販売などの地場産業が盛んで、水まわり品は全国シェア
一位と言われています。すぐ近くに海も山も川もあって、自然豊かな場所ですね。
F.I.N.編集部
高田さんは三代目ですが、家業のことと継がれるまでの経緯を教えていただけますか?
高田さん
1948年に、祖父である高田耕造が「高田耕造商店」を設立し、棕櫚たわしの製造をはじめました。私は、高校卒業後に調理師学校へ進み、その後飲食店で働いていたのですが、25歳くらいで実家に戻ることに。この仕事に携わって10年が経ちます。実は、実家に戻った時はまだ家業を継ぐつもりではなかったですし、いきなり戻って父には怒られると思っていました。それが、すぐに取引先の方に「後継ぎが帰ってきた」と紹介されて……。将来に悩んでいた時でもあったので、これも一つの道かなと、最初はなんとなく流れで継ぐことになりました。
F.I.N.編集部
そうだったのですね。高田さんが戻られた時、家業はどのような状態だったのでしょうか?
高田さん
日用品産業が盛んで、弊社も100%下請けの仕事でスポンジや刺繍マットなどを作っていました。その中でも一つだけ自社で製造から販売までしていたものが、「たわしストラップ」。家業を継いで最初の仕事は、この「たわしストラップ」を和歌山県内のお土産屋さんに売り込む営業でした。はじめはまったく知識もなく、営業職もしたことがなかったので、買ってもらえそうなお店をリサーチしてひたすら営業に回る日々。営業先で、棕櫚の話を教えてもらったり、逆に素材についての質問を受けたり、「高すぎる!」ときついことを言われたりすることもありました。そのたび棕櫚について必死に調べてだんだん興味を持ち始めるようになりました。最初の数年はただただ営業の仕事をすることに一生懸命で、こんなに棕櫚にのめり込むとは思いませんでした。家業を継ぐことを、まわりからは「よく腹くくったな」と言われたり、どんな想いがあったのかと聞かれたりしますが、行き当たりばったりで目の前の仕事をこなすことで精一杯。そんな中でたまたま棕櫚に出合ったというだけなんです。
F.I.N.編集部
国産の棕櫚に目を向けたきっかけを教えていただけますか?
高田さん
当時は中国産の棕櫚が主流になっていて、質の面でも国産を使うのは難しいと言われていました。そんな中、知人の紹介で知り合った、いま私の山の師匠でもある方に紀州産の棕櫚が育つ山へ連れていっていただいたんです。そこで出合った棕櫚をきっかけに、下請けの仕事も続けながら、棕櫚製品にも力を入れるようになりました。土の上に育つ天然素材の棕櫚は、手入れをすることで良質な皮が採れ、また山もきれいになり、未来へ繋がるなと思ったんです。そんな風に自分も息子へ繋いでいけるような未来に繋がるような仕事をしようと強く思うようになりました。
F.I.N.編集部
それからは棕櫚製品の製造・販売に集中されたのですね。
高田さん
はい。紀州産と海外産の棕櫚を用途に合わせて使い分けながら、いろいろな商品を企画しました。日常使いするモノは海外産を、肌に直接触れるようなボディブラシなどは肌当たりの良い紀州産の棕櫚を。2017年に和歌山県が認定する「プレミア和歌山推奨品」 で「紀州棕櫚からだ用たわし 檜柄」を審査委員特別賞に選んでいただきました。棕櫚製品を作りはじめてから、人との繋がりも増え、今では百貨店の催事や店舗での販売、たわし作りのワークショップなども開催しています。商品を作るだけでなく、棕櫚のことを直接お客さまに伝える機会も増えましたね。
F.I.N.編集部
ワークショップでのお客さまの反応はいかがですか?
高田さん
参加される方は、棕櫚についてはある程度知ってくださっていますが、インターネットなどの情報だけでは伝えきれないこともたくさんあるんです。また多くのお客さまがたわしに対する固定概念があるので、自分なりにわかりやすく説明する方法を模索しています。
F.I.N.編集部
どんな固定概念があるのでしょうか?
高田さん
「たわしは、硬い」という固定概念です。最近は鉄のフライパンを使う人が増えていて、「鉄のフライパンにはたわし」って言っていただくことも多くなりましたが、やはり「テフロン加工」のフライパンにはまだまだ抵抗がありまして。日常の中で思い込んでいた、たわしへの固定概念を払拭することで、お客さまのたわしに対する価値も変わると思います。お客さまと一緒に会話をしながら、いかにわかりやすくご納得いただけるか、また笑っていただける答えを模索中です(笑)。
F.I.N.編集部
確かに、知らず知らずのうちに固定概念があったかもしれません。
高田さん
こうやって、ワークショップなどを通じて、直接棕櫚について話すと10人が限界。でもワークショップをはじめて、リアルな声、身近な声を聞けるし、逆に批判も聞ける。疑問をワークショップに参加しているみんなで解決していけるのが楽しいんです。ワークショップで、みんなで一緒に作りながら話すと、すんなり聞き入れてくれますし、こういう小さい場所だからこそ、正しいことがきちんと伝えられると手応えを感じています。
F.I.N.編集部
しっかりと棕櫚の魅力を伝えるいい機会ですね。そのような考えに至ったきっかけはありますか?
高田さん
去年から私も棕櫚製品を作るようになり、山での原料採取もするようになりました。棕櫚の木に登って皮を採っています。棕櫚と関わりはじめて約10年が経ちますが、最近わかったことがあるんです。この10年同じ山で原料を採っていて、そこは山の師匠に連れて行ってもらった場所なのですが、実はそこは大祖母のふるさとだったんです。10年も関わっているのに、それを知らなかったのは自分だけで、地域の方や山の職人さん達はみんな知っていました。祖父の時代からお世話になっている方々で、それもあって私にも協力してくれていたんですよね。またその山にある小屋には、「高田たわし製造所」の看板が。祖父が昔そこで棕櫚たわしを作っていたんです。その時、もう自分が棕櫚に関わるようになったのは運命なんだなと思って。「棕櫚山の再生」とか「地方創世」と言って、頑張っている気になっていたけど、身近な地域の繋がりや人との縁のおかげということに気づかされたことがきっかけかもしれません。
F.I.N.編集部
考え方や気持ちにも大きく変化があったのですね。
高田さん
自然や山の職人さんたちと関わるようになって、考え方はガラリと変わりました。今日どんなに準備しても、明日雨が降ったら山には入れないし、皮を取りに行けないんです。無理すると木から落ちたりする危険もあるので。自然を本当に知っている人たちは、考え方の観点が違うんですよね。水がないなら汲みにいく、火がないなら火をおこすというように、考え方がとても柔軟というか、変化に対応する能力に長けていると思います。今の僕は、「無理をせず、自然と共に」ということを大事にしています。
F.I.N.編集部
これからの地場産業や伝統産業について、高田さんはどのように考えられていますか?
高田さん
いま伝統産業や地場産業は、職人不足や後継ぎ問題など課題はたくさんあると聞いています。以前まで後継ぎについて聞かれると、「山の職人さんが亡くなったら僕もこの仕事を辞めます。あの人たち以外と仕事できません」と答えていたんです。でも、最近は、ここまで関わったら今さらやめられないなと。さっきも話したように宿命だからやるしかないですよね。この仕事をはじめてから、人との繋がりで自分が存在していると実感させられています。また自分のルーツを知って、より深く考えるようになったんです。後継ぎとか相続とか問題はたくさんありますが、その前にまずは必要とされるモノを作ることが大切だと思うようになりました。棕櫚製品がみんなに必要とされるものであれば、必然的に山にも入るようになり、それが後世に繋がる。まずは「生活に必要なモノにしていくこと」が重要なのではないかと感じています。伝統産業や地場産業は、天然素材を使うことが多いですよね。神様が与えてくれた素材の魅力をしっかり伝えることが僕たちの役割だと思います。たわしやほうきはいまの姿が究極の形だと思うので、本質や魅力を僕たちがどうやって伝えていくかが大事なことだと思います。
F.I.N.編集部
棕櫚の素材が今後どうなっていって欲しいなど願望がありますか?
高田さん
目指すのは、「棕櫚のある生活」です。たわしでもほうきでも縄でも、棕櫚で作られたものなら何でもいいんです。棕櫚の製品が一家に一個あるような暮らしになって欲しいと思っています。棕櫚という素材は、いろいろなモノに形を変えていけることが魅力。さまざまな形に変化して商品になった時にそれぞれの良さが伝わるといいですね。そして、それが未来や後継の問題にも繋がっていくと信じています。4月6.7日にも東京でワークショップなどを開催予定です。
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南紀白浜には、働き方の未来がありました。<全2回>
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