生活の多くがオンラインで完結するようになった今でも、私たちは現地でしか得られない何かを求めて外へ足を運びます。時間がかかっても、多少手間がかかっても、わざわざ行きたい。そんな気持ちを抱かせる場には、どんな魅力があり、私たちは何を期待して足を運ぶのでしょうか。F.I.N.では、好きな時に好きな場所へ出かけられる今だからこそ、「わざわざ行きたい場所には何があるのか」という問いを手がかりに、目利きたちとともに、場や体験がもつ価値を考えていきます。
今回ご登場いただくのは、不便がもたらす価値を研究する川上浩司さんと、社会学者で『移動と階級』の著者の伊藤将人さん。効率や快適さが重視される時代に、私たちはなぜ、あえて時間や手間をかけて移動するのでしょうか。「わざわざ行く」という行為の意味や価値を、不便益と移動の視点から伺います。
(文:船橋麻貴/写真:嶋崎正弘)
写真右|川上浩司さん(かわかみ・ひろし)
1964年生まれ。1987年京都大学工学部卒業、1989年同大学院工学研究科修士課程修了。岡山大学工学部助手、京都大学情報学研究科助教授、同大学デザイン学ユニット(後に情報学研究科)特定教授を経て、2019年より京都先端科学大学教授併任(後に専任)。著書に『不便益のススメ 新しいデザインを求めて』(岩波書店)、『不便益―手間をかけるシステムのデザイン―』(近代科学社)など
写真左|伊藤将人さん(いとう・まさと)
1996年長野県生まれ。日本学術振興会特別研究員を経て、2024年4月から国際大学グローバル・コミュニケーション・センター研究員・講師。地方移住や関係人口、観光など地域を超える人の移動に関する研究や、長野県・新潟県を中心に持続可能なまちづくりのための研究・実践・産学連携事業に携わる。著書に『移動と階級』(講談社)、『戦後日本の地方移住政策史 地域開発と〈人材〉創出のポリティクス』(春風社)などがある。
私たちが「わざわざ行く」時、何が起きているのか
F.I.N.編集部
この対談は、川上さんが京都から未来定番研究所のある谷中までわざわざ来てくださったことから始まっています。おふたりが最近、「わざわざ行った」と感じた場所はありますか?
川上さん
まさに今日がそうですよね。京都から谷中まで来ていますし(笑)。コロナ禍でWebミーティングが普及しましたが、あれ、全然盛りあがらないじゃないですか。移動しなくていいし、楽は楽なんですが、終わった後になんとなく「これでいいのかな」と感じる。それは情報だけをやりとりして、場の空気や移動というプロセスを削ぎ落としてしまったからだと思うんです。京都から新幹線に乗って、景色が変わり、身体が揺られ、少し疲れて現地に着く。この「めんどくさい過程」を経てこその実感が、対話に納得感を生むんですよね。私の場合、行ったことのないような街で学会が開かれると聞くと、「よし、論文を書こう」という気持ちになります(笑)。移動という動機が、知的な活動のスイッチにもなっているのかも。
この対談のために、京都からお越しくださった川上さん
伊藤さん
私は先日、家族で広島のほうに行ったんです。観光というほどの明確な目的があったわけではなくて、「ちょっと行ってみようか」くらいの感じでした。広島に着いて街中を歩いてみると、妻が「ここなら住めそうな気がする」と言いだして。オンラインで調べれば情報はいくらでも出てきますが、その場所の空気感とか、身体で感じる感覚は実際に行かないとわからない。そういう納得感は、やっぱり実際に行ってみるという経験が大きいなと思いました。
川上さん
実は昨晩、谷中に着いて、日暮里のあたりを初めて歩いてみたら、やっぱり楽しいんですよね。出張のついでに、その街を覗いてみる。そういう寄り道みたいなことが面白くて。
伊藤さん
その面白さには、「偶然性」がありますよね。自分で計画していく場所だけじゃなくて、呼ばれて行くとか、たまたま立ち寄るとか。そういう時に、自分の想定していなかった出会いが起きたりする。
例えば私は本屋に行くのが好きなんですが、冷静に考えると、今はネットで簡単に本を買えるし、効率はいいんですよね。それでも本屋に行くのはなぜかと考えると、やっぱりあそこは自分に最適化されていない空間だからなんです。オンラインだと、レコメンド機能などで自分に合った情報がどんどん提示されます。だから、自分の関心の範囲のなかで世界が閉じていく。でも本屋に行くと、知らない本が並んでいたり、隣の棚にまったく別の分野の本があったりする。そういう、偶然の出会いみたいなものは、やはり現場に行かないと起きにくいのかもしれませんね。
川上さん
不便益の観点からいうと、まさにそこが大事なんですよね。便利なシステムは最短距離で目的にたどり着けますが、同時にほかとの出会いを排除しやすい。不便な状況のほうが、想定外のことが起きたりするんですよね。そういう想定外のなかにある新たな発見こそが、実は面白さの正体なんだと思います。
伊藤さんの著書『移動と階級』、川上さんの著書『不便益のススメ 新しいデザインを求めて』
なぜ「移動は無駄」と感じるようになったのか
F.I.N.編集部
そういった身体性や偶然性が満足感を伴うなかで、最近はタイパやコスパといった言葉もよく聞くようになり、「移動は無駄」という感覚も強まっているように感じます。なぜ私たちは、移動そのものを無駄な時間だと感じるようになったのでしょうか?
伊藤さん
実際に調査でも、若い世代ほど「移動時間は無駄だ」と考える割合が高いという結果が出ています。例えば20代だと、移動は無駄だという意見に賛成する人が6割以上いる。一方で70代になると、それが3割程度まで下がる。世代によってかなり差があるんですね。その背景には、やはり目的志向の強い社会があると思います。何をするにも、「それは何のためなのか」「どんな成果に繋がるのか」と問われることが多い。移動も同じで、「その移動にはどんな意味があるのか」と考えると、目的地に着くまでの時間は無駄だと感じてしまうんです。
川上さん
意味を求めるというのは、たしかにありますよね。だけど、小さい頃って、学校からの帰り道に、白い線の上だけを歩くみたいな遊びをしませんでした? 日本人なら皆やると思うんですけど(笑)。あれって、目的地に早く着くことよりも、移動そのものを楽しんでいるわけですよね。でも成長するにつれて、「目的に向かって効率よく行動しなさい」という価値観が身についてくる。それは、私たちの周りにある多くのシステムが「最短距離で正解を出すこと」を良しとして設計されているからです。効率や意味を優先しすぎるあまり、いつの間にか移動そのものを楽しむという人間本来の純粋な感覚が、システムによって削ぎ落とされてしまっているのかもしれません。
伊藤さん
移動における懸念点は、ほかにもあるんですよね。例えば限られた予算や厳しい条件のなかで長距離移動を強いられたり、生活のために長距離通勤をしなければならなかったりする人にとって、不便は単なる苦痛やコストでしかありません。一方で、あえて秘境の宿に泊まりに行くような「わざわざ」は、時間的・経済的な余裕がある層による特権的な消費になり得る。つまり、「させられる不便」と「自ら選ぶ不便」の間には、巨大な溝があるんです。これを無視して「不便は素晴らしい」と一概に言うことに対しては、慎重であるべきなのかもしれませんよね。
川上さん
おっしゃる通りです。強制される不便はただの苦痛ですからね。ただ、不便益の真髄は「自分で選ぶ工夫」にあると思うんです。例えば、お金をかけて遠くへ行かなくても、毎日の通勤路で一本裏道に入ってみる。そこで道に迷うことを楽しむ。これは誰にでもできる不便益なんです。
伊藤さん
最近は「マイクロツーリズム」という言葉もありますよね。近所のあまり行かなかった川沿いを歩くだけで、カワセミに出会えたりと新しい発見がある。近くにいるのに見えていなかった資源に気づくことが、立派な観光になるんですよね。
そう考えると、「わざわざ行く」という行為の鍵になるのは、選択可能性と自発性ですね。情報があふれている今、あえて自分から不便を選び取ることは、自分の関心の外側を取り戻し、本当の意味で自由に振る舞うための大切なプロセスだといえますね。
なぜ「不便」は、価値になるのか
F.I.N.編集部
最近では、あえて手間や不便さを残したサービスや商品もありますよね。そうした不便が残っているのは、何か意味があるのでしょうか?
川上さん
実はそこにも益があるんですよね。一時期、妻が味噌作りキットを買ってきて、自宅で味噌を作っていたことがあるんですが、それもある種の不便益ですよね。キットなので材料はそろっているし便利なんですが、自分で仕込んでできあがりを待たなければならない。そんな手間や時間がかかるからこそ、自分だけの特別な価値や愛着が生まれるんです。
伊藤さん
便利さって白か黒かではなくて、かなり幅がありますよね。完全に自分で作るのでもなく、完全に完成品を買うのでもない。その中間のレベルがいろいろ存在している。味噌作りキットはまさにその中間にある仕組みですよね。そうしたグラデーションがあるからこそ、人は面白さや価値を感じるのかもしれませんね。
F.I.N.編集部
自分が関わる余地があることが、体験の価値や主体性を生むのでしょうか?
川上さん
そうですね。それはものづくりだけの話ではなくて、情報の受け取り方も同じですよね。向こうから勝手にやってくる情報は、便利ですがすぐに消費されて終わってしまう。でも、不便な思いをして自分で探し当てた情報は、絶対に忘れないし大切にしますよね。自分から取りに行くからこそ価値があるんです。
効率化が進む社会で、「わざわざ行く」はどんな意味を持つのか
F.I.N.編集部
効率化やオンライン化が進む社会で、それでも人が「わざわざ行く」意味はこれからどう変わっていくのでしょうか?
伊藤さん
私はよく、移動を通じて「ネットワークが広がる」という話をします。人、場所、モノとの関係が、身体を通じて再編されるんです。例えばカフェに行ってイスに座ると、「あ、このイスは座りやすいな」とか、「家のイスは意外と腰に負担がかかっているかもしれない」とか、そういう発見がある。これは身体でその場所を経験しないとわからないことですよね。そういう経験が増えると、自分の生活を相対化できるようになる。「これが当たり前だと思っていたけど、別の選択肢もあるんだ」と気づけるようになるんです。
川上さん
不便益の研究で重要視しているのが「失敗の可能性」なので、似たようなことがいえます。便利なシステムは失敗を排除しますが、不便なものには失敗がある。例えばマニュアル車でエンストするような。でもだからこそ、うまくクラッチが繋がった時の手応えが生まれるんです。すべてが予定調和な世界では、この手応えは得られません。「自分でやった」という実感が、自信に繋がっていくんです。
F.I.N.編集部
では、効率化が進む社会で、「わざわざ行く」という行為はこれからどうなっていくのでしょうか?
川上さん
この先も効率化は止まらないでしょう。でも、すべてが予測可能でスムーズな世界は、人間にとってはおそらく退屈で耐え難いものです。だからこそ、これからは「意図的な不便」の設計が必要になります。迷い、工夫し、自分で発見する余白をどう残すか。
伊藤さん
そうですよね。移動が効率化され、バーチャル化が進むほど、物理的に移動することの希少性は上がっていきます。わざわざ身体を動かして会いに行くという行為は、移動以上の意味を持ちますよね。今はオンラインで済ませようと思えばいくらでもできます。そんな時代に、あえて時間をかけて足を運ぶことは、「あなたのために自分の時間をこれだけ使いました」という、相手に対する何よりのメッセージになる。そのプロセスの共有こそが、これからの人間関係において決定的な意味を持つようになるのではないでしょうか。
川上さん
結局、人間は「自分と世界は相互作用している」「自分の力で何かを成し遂げた」という感覚を捨てられない。完全な便利さはそれを奪ってしまいます。だから、私たちはこれからも不便を愛で、わざわざどこかへ行き続けるんだと思います。自分が世界の観客ではなく、主役であること。それを確かめるための手掛かりになるはずなので。
【編集後記】
わざわざ行った経験は自分の資本になる、という視点が目からウロコでした。資本なんですね!「不便益」は“不便だから生まれるいいことがある”。 自分で手間をかけたり、工夫したり。 不便だからこそ生まれる益、まさに日々こまごまと動いたり手を掛けたりして、自分は何を一所懸命やっているのだろうと思うことがしばしばでしたが、お話を伺って違う気持ちがわいてきました。自分でわざわざその行動を選んですることは、とても豊かな行為なのだと感じます。この気づきを得られて、これからの日々の小さな事象にも不便益を見つけては、そっと楽しむことができそうです。
(未来定番研究所 内野)