もくじ

2020.09.04

ベルリンにあった、未来のデモの姿。<全2回>

前篇| 自由で楽しい声のあげ方、その始まりは?

フライデーズ・フォー・フューチャー・ベルリンのデモ参加者の様子

ドイツの首都ベルリンで「デモ」は日常茶飯事。「デモ」は危険で過激な行動として捉えている方は多いようですが、市民のあいだでは、DJがターンテーブルを回しながらのフロートトラックの音楽に合わせて踊ったり、楽器を演奏したり、歌ったり、変わったコスチュームで登場したり、手作りのプラカードで皮肉を含んで批判したりとカジュアルに楽しみながら抗議するというスタイルもかなり定着しています。その背景にはベルリンが冷戦下で30年前まで分断されていたという悲痛の歴史が大きく影響しているとのこと。今回は、現地ドイツで取材を行い、ベルリンのデモを深掘りしていきます。

 

前編では、現在のデモがどのように生まれたのか、その歴史と背景を紐解いていきます。

 

コーディネーター:浦江由美子
フォトクレジット:Fridays for Future Berlin (Fridays for Future),

Shinji Minegishi (Westbam), Yumiko Urae(Love Parade)

ベルリンはたった30年前まで壁で西と東に分裂していた。

130万人が繰り出したラブパレード2000年

1989年にベルリンの壁が崩壊するまで、ベルリンという街は資本主義と社会主義という2つのイデオロギーで分断されていました。東西冷戦中、米英仏監視下にあった西ドイツとロシア下の東ドイツ。ロシア下のドイツ民主共和国(GDR)は失業することもなく男女も平等など、良い点もありましたが、生産競争のない中、経済の低迷は避けられませんでした。教会を壊すなど信仰の自由も妨げられ、何より壁に分断された世界で旅行も限られ、西側の親戚や友人に会いに行くこともできなかった。秘密警察による監視社会下で言論や表現の自由も限られ、体制に反するものは刑務所に入れられ、東から西に逃げようとした市民を政府は容赦なく射殺し、命を落とした人もいました。

 

かたや陸の孤島と呼ばれ、壁に囲まれた西ベルリンやフランクフルトでは世界的な1968年運動の反体制運動前から、60年代前半にAPO(議会外反対派)による学生運動がスタートしていました。親世代がナチスに加担していた過去を学生や知識層が批判し、資本主義国家を武力で倒そうと怒りは対抗暴力に爆発。その結果、ドイツ赤軍RAFというテロリストも生まれました。1968年、ドイツ全学連のリーダーのルディ・デゥチュケの暗殺未遂により、学生の抗議デモは加熱しました。西ドイツもアメリカやフランスなど西諸国同様、暴力が横行していました。それでも、権威主義に立ち向かうリベラルな考えが芽生え、環境保護や人権運動の意識も高まりドイツ独自の緑の党が生まれました。

 

1987年6月にはベルリン750周年記念を祝い、1976年から2年間、西ベルリンの住人でもあったイギリス人歌手デヴィッド・ボウイが壁沿いのライヒスターク(旧帝国議会)前でコンサートを行い、東側のファンも壁の反対側に集まりました。東ドイツ人はパラボラアンテナを設置して西側のテレビを見たり、レコードを聞くこともできていたので、音楽を通して市民は繋がっていたのです。

ゴルバチョフによる東欧民主化の波で鉄のカーテンは崩壊し、東ドイツでもライプチヒで毎週月曜日に民主化抗議デモが行われ、全国に広がりました。そして1989年11月9日、暴力や流血もなくベルリンの壁は崩壊し、ドイツは平和的な再統一を果たしたのです。

ラブパレード 東西統一による平和を象徴したデモ

ラブパレード、1996年。仮装を楽しむ参加者たち。

壁崩壊年の夏にはテクノの祭典、ラブパレードがスタートしています。車にターンテーブルを乗せ、DJがテクノ音楽をかけながら目抜き通りクーダムを練り歩く初回デモに参加したのはたったの150人。

 

当初からラブパレードに係わっていたキーパーソン、DJのウエストバムさんは当時を振り返ります。

「実は音楽を流しながらデモするというアイデアは発起人のドクター・モッテがイギリスから学びました。あの頃からイギリスでは警察の取り締まりが厳しくなっていたのですが、西ベルリンは陸の孤島だったため、規制がゆるく申請も簡単でした。はじめの年は少人数でしたけれど、秋に壁が崩壊して、次の年は東ドイツからの人たちがやってきて、その次の年にはドイツ中から、93、94年には南米など外国からも大勢がやってきました。東の人たちにとって西ベルリンはラスベガスみたいな憧れの街でした。90年代、テクノという新しい音楽に特に東欧の人たちは魅了されて、そのパワーは、それはすごかった」

ラブパレード、2000年6月17日通りで踊りを楽しむ人たち。

毎年7月に行われるラブパレードは年々参加者が増え1999年には150万人を動員するモンスターイベントとなりました。ただ、規模が大きくなるにつれ、デモというのは名目だけで、商業化や騒音と開催後のゴミ問題など、社会現象はネガティブなイメージに変わっていきます。

「それまでの第二次大戦とかナチズムというドイツの暗いだけのイメージはラブパレードやテクノカルチャーでずいぶんと払拭されたと思います。踊って楽しむということは何かに反対するのではないということを示すデモだったわけです。68年世代、大暴れしていた昔のヒッピーたちが議会にいて、踊りたいだけでは政治的なデモとは言えないと批判していました。」(ウエストバムさん)

結局、商業化が進み2004年に資金繰りができずにベルリンでのラブパレードは中止に追いやられました。ルールー地方で2006年にパーティーイベントとして再開しましたが、2011年、デュースブルクの会場で来場者が将棋倒しになり21人の死者を出したことでラブパレードは以降、行われなくなりました。

しかし、現在でも首都ベルリンでは、LGBTQのクリストファーストリートデーのパレードが毎年開催され、近年では高校生を中心とした環境デモ、フライデーズ・フォー・フューチャーの大規模デモなど音楽や踊りを通して、誰もが街に出て、気軽に感情表現をするようになっています。その背景にラブパレードとテクノカルチャーの影響は大きいでしょう。

「ここ10年、インターネットの影響でデモは再びラディカル化しているように思えますね。民主的に誰もがデモに参加できる平等さはあるべきだけれど、一部で他人への誠実さ、リスペクトが失われている気がする。人類はお互いを理解する方向に向かっていたはずなのに。イギリスのEU離脱や極右政党AfD(ドイツのための選択肢)の勢力と、まるで昔の幽霊が戻って来てしまったみたいです。ドイツ政府のコロナ対策は理にかなったもので感染者数も抑えられている。それに反対するデモを行なっている連中には理性を持ってほしいですね。」

自分と異なる意見にも耳をかたむける。

ウエストバムさんとのインタビュー後、8月1日には〈パンデミックの終わり:自由の日〉というデモ集会で政府のコロナ禍による規制に反対する2万人が全国から集まりました。〈自由の日〉というのは1935年にレニー・リーフェンシュタールが監督したナチス党大会のドキュメンタリー映画のタイトルでもありました。ただし、そのデモには右翼ポピュリストだけでなく、陰謀説を信じる人、反ワクチン勢力、左派と様々な考えを持つ人たちが集まりました。ドイツ基本権第1条「人間の尊厳、基本権による国家権力の拘束」のプラカードを揚げる参加者もいました。

 

3万人がマスクもつけず、1.5 メートルの距離も保つことないラリーはメディアでも政界でも痛烈に批判されましたが、過去の教訓から異なる意見を持った人を寛大に受け入れる姿勢はベルリンらしさでもあります。

8月 29日には再び、コロナ政策に抗議する人々、38,000人が全国からベルリンに集まりました。ほとんどの参加者は平和的に主張を続けていましたが、一部の極右支持者たちがナチス時代の戦争旗を振りかざし、ライヒスターク(旧帝国議会)を襲撃しようとしたのです。この事件を受けて、デモの実施場所の制限やマスク着用の義務など、規定が強化されることになりました。過去の歴史の教訓を重じてきたドイツ社会にとって、過激とも言える今回の騒動は議論を呼ぶもので、自由なデモのあり方も大きく問われています。

 

ナチズムや戦後史の学校教育が一貫しているドイツで、Z世代は今、デモをどう捕らえられているのか?後編はフライデーズ・フォー・フューチャーのメンバーであるピア・ハーゼさんにお話をうかがいます。

Profile

Westbam ウエストバム

DJ、プロデューサー、音楽レーベル主宰、作家、アーティストと様々な肩書きを持ち、パンク精神を貫き40年間音楽に携わる。LoveparadeやMaydayなどドイツのテクノ文化を築いた重要人物の一人。2児の父。8月21日にThe Belovedとのニューシングル「Sky is the Limit」、2021年1月22日にはアルバム「Famous Last Songs Part 1」が発売となる。

https://www.westbam.de/

ベルリンにあった、未来のデモの姿。<全2回>

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